箱(中)

 夕飯を食べ、風呂に浸かり、身形を適当に整えて、ついでに南天へ一報入れてから古谷は自転車に乗って家を出た。時刻は8時過ぎ。辺りはもうすっかり暗くなっている。

 肌を刺す寒風に耐えてペダルを漕ぎつつ、古谷は眉間に皺を寄せた。名刺に記載された住所は案外近場だった。土地勘があるので迷う心配がなく、それは大変ありがたいのだが、地図アプリで検索した際に表示された場所が問題だ。

 端的に言えば、心霊スポットなのである。

 古谷はストリートビューに映り込んだ一軒家を思い返して、溜息を吐いた。小中どちらで聞いたか忘れたけれど、同級生が「あそこは出るらしい」と噂していた。


 女。

 子供。

 赤ん坊。

 踊る人影。


 語られる怪異の内容は曖昧かつバラバラで、小耳に挟んだまことしやかな因縁話も長年この地に住む家族から「そんな物騒な事件なかったろー」と一笑に付されてしまい信用できない。肝試しの舞台になるほどの華やかさも知名度もなく、とにかく何かあるらしい――それだけが学校という狭い共同体の中で、いつからか薄ぼんやり語り継がれていた。そんな場所。

 別に噂を鵜呑みにしているわけではないが、近くを通るとつい気になってしまう程度にはマイナスイメージが付随している。正直、好んで行きたい場所ではなかった。

 ただ、友人の兄から来いと命じられれば無碍にもしにくい。それに南天は黒い風呂敷包みについて、何かしら情報を与えてくれそうな雰囲気である。もしかしたら、これを届けるべき場所を教えて貰えるかもしれない。






 ローカル線の駅周辺は田舎なりに発展しており、店や住宅が程々に密集している。駅を横目に通り過ぎ、国道から逸れて街灯の光が疎らな小道へ入り込む。じき、問題の家を見つけた。

 一見すると、真新しいとは言えないものの、目立った劣化も特にない、二階建ての普通の家だ。マイナーな噂話を知っていて、土地勘がある。二つの条件が揃わなければ、心霊スポットとしてのこの場所は見つけること自体困難だろう。

 軒灯といくつかの部屋の室内灯が闇の中、煌々と光っている。スーパーで言っていた通り、南天は今夜ここにいるらしい。南天のものだろうシルバーの軽自動車が停められた、狭い駐車スペースの片隅に自転車を置き、前籠から黒い風呂敷包みを手に取った。チャイムを押す。

 ややあって、玄関ドアが開いて南天が出てきた。パーカーにスウェットパンツ、濃紺の半纏という寛いだ出で立ちである。

「おー。いらっしゃい」

「どうも。お邪魔します」

 軽く頭を下げてから、古谷は家に上がった。電灯に照らされた廊下は明るく清潔で、警戒していたほどの不気味さは感じられない。

(存外、普通の家だな)

 肩の力を抜きかけたところで、廊下の壁にどうしてか額に入ったA3サイズのモナ・リザが逆さまに飾られているのを見つけた。古谷の後ろで南天が三和土の靴を揃えている。雑に脱いではいないはず――戸惑いがちに覗き込んでみると、南天は爪先が室内を向くように、つまりは通常好ましいとされる向きとは反対に靴を並べ直しているのであった。

「……何してるんです?」

「さあ」

 南天は首を傾げた。

「これなぁ、僕もよぉ分からんのよ。でも雪路がやっとったけん、一応やっちょお」


 あいつが手ぇ出したとこ下手に弄ると、出るからね。


 そう言って、南天は「気ぃつけりぃ」と能天気にケラケラ笑った 






 やっぱり幽霊屋敷じゃないか!

 言いたいことを呑み込んで、案内された和室の机に古谷は「これです」と件の風呂敷包みを置いた。この兄弟を相手に一々突っ掛かっていたらキリがない。変なところで吝嗇家気味の南天のことだ。どうせ安いというだけの理由で、曰く付き家を買うか借りるかしたのだろう。

「ふむ」

 南天は頷き、黒い風呂敷包みを手に取った。耳を寄せ、眉を顰める。

「君、これ、いつから持っとう?」

「たしか五日前から」

「ふぅん。何て言っとるかは――まだ、分からんみたいやねぇ」

 よろしい。

 南天は包みを、それが大層厭なものであるかのように机の端に寄せた。魔法瓶から二つの湯飲みに茶を注ぎ、一つを古谷へ差し出す。

「どうも」

 受け取って飲んだ。エアコンが点いているとはいえ、まだ冷えている身体の芯に熱い緑茶が沁みる。南天も茶を飲み、はあ、と大きな溜息を吐いた。

「これ、うーん。雪路の友達やもんなぁ。悪いこつもしとらんに金取れんよなぁ。ただ働き……でも、飴貰ったしなぁー……」

 机上に置かれていた茶請けの煎餅をボリボリ食べつつ頻りに唸り、南天はやがて「よし」と膝を打った。

「こんなモン、いつまでも持っとったら気ぃ触れる。とっとと返品するのがよかろ。明日の昼12時、そこん駅来とき。目的地まで案内しちゃる」

「えっ。明日? バイトあるんですけど」

「土下座してでん休みぶん捕りぃ」

 いきなり私用で休むなんぞ言ったら、じいさんにがられる怒られる

 寡黙で厳つい祖父の顔を思い浮かべて目を白黒させている古谷の対座で、南天はチョコレートを口に放り込み、

「ただ働き……」

 と悲しそうに呟いた。






 退っ引きならない理由があるから休みたい。

 それは何だ。

 大事な届け物がある。

 それは何だ。

 よく分からないけど大事な物だ。

 だから、それは何なんだ。

 ………

 ………

 ………

 電話越しにそんな感じの押し問答を経て何とか休暇を掴み取り、翌日の正午前、古谷は約束の駅に来た。幽霊屋敷改め水上事務所の近場に位置する、ローカル線の始発駅である。駐輪場に自転車を停めて駅舎へ向かうと、先ほど通り過ぎた際にはいなかったので、入れ違いで着いたのだろう、南天が出入口前の軒下に立っていた。

「よお」

 こちらに気づいて、片手を上げる。

「君、昨日はそれン声、聞いちょらんよな」

 そう言って南天が指差したのは、古谷の抱えている黒い風呂敷包みだ。

「やめろって言われたんで、聞いてませんけど。案内して貰えるなら、聞く必要もないですし」

「ヨシヨシ」

 満足げに南天は頷き、こじんまりした駅舎の中を親指で示した。

「千円くらい持っちょるよな。あそこでフリー切符買ってきぃ」

 よく見れば南天は片手に、簡素な路線図がモノクロで印刷された薄青い紙を持っている。さっき姿が見えなかったのは、券売機で切符を買っていたためらしい。

「そんなに乗り降りするんです?」

「まあ、それなりに」

 ジャンパーのポケットから取り出したメモ帳を開き、面倒臭そうに口をへの字に曲げて南天は肩を竦めた。






 五駅進んで二駅戻り、住宅街や田圃の間の道をうろうろしたら、また列車に乗って六駅進んで七駅戻る。駅舎内の自販機で珈琲を買い、また列車に乗って三駅進んで―――……

 何の意味があるか分からない行動を、どれだけ繰り返したろう。車窓を流れる景色に夕暮が迫り、いい加減疲れ始めたところで、珍しく口数少なにメモ帳と睨み合っていた南天が不意に「着くぞ」と一言呟いた。

 ローカル線であるせいか、二両だけの列車は滅多に混まない。それでも学生や会社員の通学・通勤時間となると相応に人がいるものなのだが、今は古谷と南天の他、乗客は一人もいなかった。アナウンスもなく列車が停まり、切符を見せようと運転席を窺えば空っぽである。

「ホラ」

 先にプラットホームへ降りた南天が、混乱して呆然と立ち尽くす古谷を促した。

「早く降りんと連れてかれるよ」

 そう言われて、慌てて下車した古谷の背後で扉が閉まり、列車がゆっくり動き出す。この路線のものとしては上等なホームと駅舎――だというのに、全く見覚えのない駅だった。通学で頻繁に使うので、どんな駅があるかは一通り把握していたと思うのだけど。ここはどこだろうと駅名標を探して確認すれば、看板の上に読み方の分からない文字が大きく三つ並んでいた。前後の駅名も同様に読めない。

「ここでよかろ」

 そう頭を掻いた南天に、黒い風呂敷包みを持つ手に力を入れて古谷は「はい」と頷いた。

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