箱(上)



「もぅし、もぅし」



 大学の春休みが始まってからこちら、暇である。前期と後期の境に当たる空白期間は課題も出されず、特にやるべきことがない。そのため古谷ふるやは母方の祖父が経営している古書店を、このところ毎日手伝っていた。暇につけ込まれ、最低時給でこき使われていると言ってもいい。それでもまあ、給金が出るありがたさ、家族と働く気安さもあり、文句を垂れるほどの不満も見当たらず、命じられるまませっせと一生懸命働いていた。


 祖父の自宅兼、店舗は寂れたアーケード商店街の外れにある。


 古谷は家から自転車でそこまで通っているのだが、帰り道は(少なくとも商店街の中では)のんびり自転車を押して歩くのが常だった。歩きつつ気儘に店を覗いて、コロッケや唐揚げ、パンや駄菓子などを買い食いするのだ。半ばシャッター通りと化した小さな商店街に立ち寄れる店は少ないものの、それでもいくらか馴染みの店があり、挨拶がてら適当なものを買っていく。

 あの日も、そうであった。

 昼時。今日はもう帰っていいと思い掛けず祖父に言われて、古谷は何となく浮ついた気分で古書店を出た。普段は歩かない時間、それも働いているはずの時間に出歩くというのは、細やかながら特別な感じがして面白い。

 夕方と比べて人通りが少ない商店街を、いつもよりか心持ちゆっくり歩いた。天蓋のアクリルパネルは経年劣化と堆積した汚れのせいだろう、くすんでおり、その下は晴れた日の真昼であるにも関わらず、ほんのりとセピア色を帯びて薄暗い。非日常という言葉がふと頭過り、たまにはちょっと豪華な昼飯でも食べてみようか――そんなことをぼんやり考えた時である。


「もぅし、もぅし」


 声が聞こえた。

 人を、呼んでいる。

 つい足を留め、古谷は辺りを見回した。元は飲食店だったらしい、所々が洋風な外観の店舗。そのぴったり閉ざされたシャッターの前に、女が一人佇んでいた。

 真珠の首飾りをつけた女である。

 黒い風呂敷に包まれた箱のようなものを、両手で大事そうに抱えている。

「もぅし」

 目が合うと、女は柔らかく微笑んだ。

「お願い致します」






 帰宅して、古谷は途方に暮れた。

 自室の床の片隅には、黒い風呂敷に包まれた箱のようなものがぽつんと置かれている。






 頼まれたからには、届けなければ。






 古谷は黒い風呂敷包みを持って、あちこちへ足を運んだ。河原に行き、畑に行き、公園に行き、廃ホテルに行き、神社に行き、寺に行き、墓場に行き、しかしどこもしっくり来ない。ここではない。そんな気がする。

 では、どこに届ければいいのだろう。分からなかった。真珠の首飾りの女は「お願い致します」としか言っていない。悩む内に、包みの中から何やらぽそぽそ音が聞こえることに気がついた。

 耳を寄せてみる。どうやら人の声らしい。

(行き先を伝えようとしている)

 何となく、そう思った。この声だけが唯一の手掛かりである。寝る前の数時間、古谷は耳を澄まして包みの中の声を聞こうと努めた。そのおかげかもしれない。声は非常に小さいものの、ラジオの周波数がじわりじわり合うように、知覚できる響きが次第明瞭になっていく。


『―――ぇ』


 空耳に似た微かな声を、もうじき聞き取れるのではないか。考えながらぼんやりと、母から父へ、父から古谷へ押し付けられた買い物メモを確かめつつ、スーパーを歩いていた時だった。

「あれ。古谷君やん」

 不意に名を呼ばれ、古谷はぎょっとして顔を上げた。デフォルメされた狐めいた風貌の青年――亡友・水上みなかみ雪路ゆきじの兄、南天よしたかが前方の菓子コーナー付近に立って、ひらひら手を振っている。






「君、こないだ家で迷子になっちょったらしいなぁ!」

 徳用菓子やら値引きされた肉やら野菜やら明らかにゲテモノのカップ麺やらがいっぱい載ったカートを引き摺り近寄って来たと思ったら、出し抜けに言って南天は愉快そうにケラケラ笑った。

「雪路がえらい呆れとったよ」

「呆れてましたか」

「呆れてた。あと、喜んどった。飴貰ったって。ありがとうな」

 南天が口にしたのは古谷の他、亡友・雪路しか知らないはずの事柄である。雪路の葬儀が行われたその日の晩、外から眺めた水上家の二階を思い出す。障子越しに、二人分の人影を古谷は見たのだ。やはりあの後、雪路は兄に会ったのだろう。

「ずっと気になってたんですけど、あいつ死んじまったでしょう」

「うん」

「死んだら物、食えんでしょう」

「うん」

「食えなくても、飴貰って嬉しいもんですか」

「まぁ、うん。こっちでちゃんと手順踏めば、一応持ってけるっぽいし。それにね、贈り物や供え物は心意気が一等大事やろう。今まで通りに受け取れんでも心意気が感じられりゃあ、それだけで充分嬉しかろう」

 自分で言った言葉に「いいこと言ったかもしれん」と感心した風に頷いた直後、南天はいきなり真顔になって訝しげに片目を細めた。

「古谷君、君、最近何か拾ったろ」

「何かって……別に何も拾ってませんけど」

「黒い箱みたいなモン」

 黒い風呂敷包み。

 あれのことを言われているのだと気がついて、古谷は思わず口を噤んだ。

「ホぉラ」

 やっぱりと胡散臭い笑みをにんまり浮かべ、いつの間に取り出したのか、南天は古谷へ白いカードを差し出した。なんだろう。受け取って見る。シンプルなデザインの名刺である。

「今日泊まるけん、最悪深夜でも構わんよ。時間できたら、箱だか何だか知らんけど、拾ったモン持ってそこに来ぃ」

「はあ」

 名前、住所、連絡先等が記された厚紙の隅に小さく、


 水上事務所


 とだけ書いてあり、古谷は困惑した。事務所名というのは基本、一目で何の仕事をしているか分かるよう、法律相談事務所とか税理士事務所とか探偵事務所とか自己紹介めいた一語を入れておくものではないのだろうか。これでは何をする事務所なのか判然とせず、情報量が少ないあまり胡乱さばかりが無闇に助長されている。

「兄貴の商売を手伝ってるけど、何してるのかいまいちよく分からない」

 雪路が生前、そう暢気に零していたことを今更ふと思い出した。

 ………。

 お前は知っといてもいいだろ、さすがに。

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