吉日(下)
皆、どこに行ったんだろう。置いて行かれた? それにしたって、いきなり話し声一つ、足音一つ聞こえなくなるのは妙ではないか。
戸惑いながらも古谷は歩いた。廊下を道なりに進んで、左へ曲がる。真っ直ぐ行くと、突き当たりの右手に玄関がある――はずだった。
(ない)
首を捻る。
歩いても歩いても廊下が続き、突き当たりで曲がると、また廊下が前に伸びている。歩く。突き当たりで曲がると、また廊下が……延々とその繰り返し。一応、勝手知ったる友人の家だ。迷うわけがないと思うのだけど、なぜだろう。どうしても玄関に辿り着けない。
おかしい。古谷は眉を顰めた。
山間の手狭な土地に建つ家である。他所より立派と言っても、大名屋敷のように広大ではなく、歩いて歩き尽くせないことはないはずなのだ。なのに曲がる度、襖の絵柄、磨り硝子の模様、ドアの形状、窓外の景色が変わり、しかも一度として同じものを目にしない。
試みに振り返って、来た道を戻ってみたが同様だった。ついさっき通った廊下が、別のものに変容している。
(何なんだ)
足が疲れたところで不貞腐れ、古谷は床に胡座をかいた。背広のポケットを探って飴を取り出し、包みを破る。真昼の陽光に照らされた見知らぬ西洋庭園を眺めつつ、ぶどう味の喉飴をしゃぶった。
ほんのり薬の風味を感じる甘酸っぱさが口内に広がる。
友人の葬儀で感傷的になっていた矢先、何だってこんな奇怪な目に遭わねばならんのだ。苛立ちが一線を越えて、古谷は開き直った。手近な障子戸を開き、中を覗く。意外に普通の和室だ。ちょうど炬燵があったので、入り込んで横になった。
電源を点ける。
幸い電気は通っているらしく、やがて温かくなった炬燵は大層快かった。小さくなった飴を噛む。何が起こっているかは分からない。分からないが、歩きすぎて疲れたことだけは確かだ。少し休もう。疲労感が眠気を誘い、とろとろ微睡みかけた時、
「……
凜とした若い男の声が聞こえて、古谷はぎょっと半身を起こした。咄嗟に声が出ず、自分が阿呆みたいな面をしていると自覚しながら、開いた口がふさがらない。端正な容貌の青年――水上雪路が開けっ放しの障子戸の奥から、こちらを怪訝そうに見詰めていた。
「お前、死んだんじゃなかったのか!?」
「死んだよ。通夜も葬式もやったろう。君は二日間、一体何をしてたんだ」
思わず叫ぶように問うた古谷に対し、雪路は不思議なものを見る顔付で首を傾げた。そのまますっと身を翻し、足音もなく廊下を歩き始める。慌てて追い掛けた古谷が横に並ぶと、
「あんなとこで寝るもんじゃないよ」
雪路は釣り目がちな瞳を細めて、呆れた様子で苦笑した。
「歩き回って疲れたんだよ」
「家で寝ろ」
「出来るんならそうしてるさ。迷って出られないから困ってるんだ」
「迷ってる」
目を瞬いて、さも可笑しげに雪路は笑った。人を笑いながら悪意や害意が一切混じらない涼やかな笑顔だ。眼前にいる青年が確かに亡友・水上雪路だと古谷は実感して嬉しくなった。底抜けに澄んだ気質のこの友人は、接していると玲瓏な湖を眺めているような心地がして清々しい。
「なあ」
雪路があまり笑うので気恥ずかしくなってきて、話を逸らそうと古谷は尋ねた。
「ここは一体どこなんだ?」
「どこって、変なこと聞くね。俺の家だよ」
「こんな造りじゃなかったろ」
「ああ」
嘆息し、なるほど、と雪路は何かしら独り合点したらしく頷いた。
「そんなことばかり気にしてるから、迷うんだ」
呟いて、
「帰りたいなら案内するけど」
と肩を竦める。
「帰り道、分かるのか」
「そりゃあね。だって俺の家だもの」
当たり前だろ。と自信たっぷりに言われれば、そういうものか、という気がしてくる。いずれにせよ雪路に頼らなければ、古谷はいつまで経ってもここから出られないままだろう。
「じゃあ、まあ、頼むよ」
「うん」
応じて、不意に雪路はくすりと笑んだ。
「どうした」
「――飴の匂いがする」
案内するとは言ってくれたものの、雪路はただ道なりに歩くばかりであった。真っ直ぐ進んで、突き当たると曲がる。たまに分かれ道が現れるのでもしやと思い、
「曲がる順番があるのか?」
と古谷は尋ねてみたが、
「別にないよ。そんなもの」
雪路の返事はつれなかった。
「だったら、どうやって道を選んでるんだ」
「適当」
「そんなんでいいのか」
「いいよ」
いいらしい。釈然としないが、何にせよ今は雪路を信じるしかない。高校時代のあれやこれやを思い出し、こういう時はこいつに任せておけばいいのだと古谷は渋々腹を括った。死後、家族や友人を道連れにしようとする幽霊の話はよく聞くけれど、雪路がそこまで執念深い奴とも思われない。たぶん、悪いようにはならないだろう。
「そういやお前、死んだのにどうしてこんなところウロウロしてるんだ」
「俺からすると、君がウロウロしてることの方が変なんだけど……」
困惑した風に眉根を寄せて、雪路は軽く首を捻った。
「でも、そうだな。うん。俺は兄貴に用があるから、ここにいる」
用。
「何か伝え忘れたことでもあるのか」
「いや、ただ」
「ただ?」
雪路は少し口籠もり、
「……死んだら化けて出ろってしつこいんだよ」
小声で言って、はにかみ混じりに苦笑した。
カラフルな色硝子が嵌まった扉。木彫りの狸。大きな老松。黒電話。古い和箪笥。枯山水。七福神を描いた襖。サングラスを掛けた招き猫………
廊下は果てしなく、続く。続く。
もうどれくらい歩いたろう。ふと気になってスマホを取り出し、待受画面を確かめてみると11時38分――葬儀が終わり、出棺の始まった昼前の時刻が表示されていたものだから古谷はあっと驚いた。
「時計が動いてない」
差し出されたスマホを一瞥し、
「何を今更」
雪路は笑う。
「外、見えてたろ。気づいてなかったのか」
言われてみれば。古谷は目を瞬いた。まだ翳りの早い一月の陽射しが、ずっと白々明るいままだった。窓越しに空を見上げる。太陽は未だ中天にある。
「時間が停まってるのか?」
「そう思うんなら、そうなんじゃない」
雪路の答えは、さっきからどうもいい加減だ。理知的な見た目の割に直感で物を考える奴なので、問い詰めてもたぶん、ふわふわした言葉しか返って来ないだろう。古谷は溜息を吐き、背広のポケットを探った。金柑味の喉飴。待ち時間の暇潰しにと持ってきていた飴玉が、まさか非常食になるとは思わなかった。
口に放り込んで大事に舐めつつ、ポケットを再び探る。手持ちは少ないが、一応いくつかあるにはあった。適当に摘まみ出したべっこう飴を雪路に渡す。ほんの僅か驚いた表情で雪路は受け取り、掌に転がる飴をじっと見詰めた。
「
「うん」
言いつつ、飴を見る眼差しは嬉しそうだ。いらないわけではないらしい。いつもなら甘味はすぐ食べるのに――考えたところで古谷は、ああ、と思い当たった。
死んだから、食えないのか。
気づいてみると、何だか詰まらないような心地になって「なんで死んだんだ」聞くのを躊躇っていた一言が衝動的に口をついて出た。
「南天さんに聞いたぜ。君、自分の意思で死んだんだろう」
「ああ」
雪路はあっさり頷いて、べっこう飴を陽に透かす。
「何事にも吉日というのがあるだろう。結婚するのに好い日、棟上げするのに好い日、旅行するのに好い日、死ぬのに好い日」
「……死ぬのは並べて凶事じゃないか。吉日なんてあるもんか?」
並べては言い過ぎだろ。面白そうに雪路は笑い、
「あるから死んだんだ」
立ち止まって、古谷の顔をひたと見据えた。一抹の迷いも悲哀も後悔もない、澄明な瞳に狼狽える。底が見えない碧い水面を覗き込んだ時のような、柔らかい畏れが頭から足先へふっと駆け抜け、
(そうだ。こいつは、こういう奴だよな)
何かがすとんと腑に落ちた。
「いつなら真っ当に死ねるか、常々ぼんやり考えてた。あの日が好いと思ったんだよ」
雪路の白い手が不意に閃き、古谷はそれを目で追い掛けた。形の良い指が示した先で、一見無造作だが程良く手入れされた日本庭園が、明るい真昼の陽光に照らされていた。雲一つない紺碧の空。金の蝋梅。紅い山茶花。風で揺らいだ池の水面がきらりと光る。
古谷は廊下へ視線を戻して、
「あれ」
思わず呟いた。誰もいない。
目前には暗い無人の玄関があった。古谷と家人のものらしい靴だけが寂しく置かれた土間の奥、引き違い戸の磨り硝子に蜜色の光が滲んでいる。人工的な、外灯の光。
「もう、夜……」
はっとしてスマートフォンを取り出し、待受画面を確認した。23時38分―――
さすがに半日も歩き通しではなかったはずだ。体感時間と実際経過している時間がちぐはぐで、化かされたみたいだ、と古谷は呆然とした。ともかく、あの奇妙な場所からどうやら戻って来られたらしい。
片田舎の常はこの家でも健在で、案の定、玄関扉に鍵は掛かっていなかった。せめて南天に挨拶をしてから帰ろうかと思ったが、時間が時間だし、今までのことをどう説明すればいいかも分からない。古谷はしばし迷って、結局ひっそりと水上家を後にした。
雪路の家族である。細かいことはまあ、気にしないだろう。
外へ出て見上げた二階の片隅に、煌々と明かりが点いていた。あそこはたしか、雪路の部屋だ。障子に人影が映り込んでいる。ぼやけて分かりづらいが、おそらく二人。そういえば、兄貴に会いに行くと言っていた。
戻ってまた話したい気もしたけれど、邪魔をするのも無粋だろうと古谷は一人、夜道を歩いた。行ってみたところで今度は姿すら見られない――そんな予感もする。
あの場所だから、会えたのだ。
古谷は虚空に白い息を吐き出した。空気が冷たく澄み渡り、いつもより星が鮮やかに見える。
水上が死んだ。
声に出さず、口の中で呟いた。顔を見て、言葉を交わせたからかもしれない。喪失の実感が、空白の輪郭が明瞭になり、明日からの日常に友人が一人いないのだという単純な、しかし少しだけ寂しい一事を古谷はようやく受け入れられた。
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