水上家のこと

白河夜船

吉日(上)

 友人――水上みなかみ雪路ゆきじが死んだと報せを受けたのは、大学二年の冬の真夜中だった。朝方遺体を見つけて、急ぎ葬儀の準備を整えた。めぼしい友人・知人には一通り訃報を送ったのだが、急なことなので幾人か取り零しがあったらしい。その一人が、君なのだ。そんなことを雪路の兄、水上南天よしたかは悪びれもせず暢気に語った。

「なんでまた、急に」

「さあ。気が向いたんやろ」

 自殺に他殺に病死に事故死。どういう死に方をしたにせよ、何かしら事情はあるものだ。そんな理由で死ぬ奴があるか。そう思ったが、高校時代は見慣れていた妙に透明で変に浮世離れした、雪路という青年が纏う独特の空気を思い出し古谷ふるやたかしは頭を掻いた。あいつなら、あり得るかもしれない。

「通夜は」

「明日夜7時から。葬儀は明後日10時から。どっちも自宅」

 それじゃ。

 言うだけ言って、南天は電話を切った。相変わらず、兄弟共々掴み所がない。

(――水上が死んだ)

 口の中で呟いてみる。実感が湧かず、言葉が白い吐息と共に虚空をふわふわ漂っているような気がする。古谷は自室の机に頬杖を突き、読み止しの本をぼんやり見詰めた。文字の羅列が脳の表面を漫然と滑り、どこかへ零れ落ちていく。

 水上が死んだ。






 何度か訪れたことがあるので、水上家の場所は知っている。田舎町の中でも電車やバスが通っている比較的繁華な一帯を外れ、国道裏の寂しい道路を曲がる順序に気をつけながら、しばらく進む。すると隠れ里という言葉が似合う、山間の集落に辿り着く。


 その一角に、水上家はある。


 メッセージアプリに送られた地図を頭に思い浮かべつつ、古谷は家族から借りた軽自動車のハンドルを切った。駐車場と指定された空き地に車を停める。他にも車が何台か停まっていたが、予想よりは多くなかった。十台あるかないかだろう。

 ドアを開けて、外に出る。暖房に馴染んだ身体に冬の夜の外気が沁みた。寒い。人通りがない暗い道を足早に行く。

 歩き始めてすぐ、周辺の家とは雰囲気が違う、古風で立派な日本家屋が視界に入った。水上家だ。枳殻垣に沿って進み、外灯に照らされた棟門をくぐる。門前に一対置かれた提灯台に橙色の光を放つ白提灯が吊されており、その上に墨字で『御霊燈』と書かれているのが否が応でも目を引いた。

 玄関扉の前に立ち、チャイムを鳴らす。

 ややあって引き戸が開き、ブラックスーツの上から濃紺の半纏を羽織った堅いのか砕けているのか、何だかあやふやな恰好の若い男が現れた。デフォルメされた狐めいた印象のその青年は、

「やあやあ」

 細い目を更に細めて、胡散臭いような笑みを浮かべた。

「ご足労どうも。こんばんは。なんだ君、スーツ似合わんなぁ!」

 雪路の兄、南天である。






 朝起こしに行ったら、死んどったんよ。

 冷たくなってた。涼本さん診せても「よぉ分からん」て首傾げとったから、何かしら思うところがあったというか、まぁいつものやつやろう。

 死ぬのは、別にいいんやけどね。

 こいつ早死にするやろぉなーって、昔から思っとったけん。別にいいんやけど、年始なのはちょっと困るな。やっと正月越したばかりやからね。成人式もこないだあったし。行事の後に行事が続くと、息つく暇もありゃしない。一応連絡入れた奴には「来れたら来るで構わん」言っとるけど、どうするんやろ。大学生は後期の試験で高校生は入試……たしか、そろそろやったろ。都合つかん人もいるやろうなぁ。でもまあ、色々放っぽっり出して冷やかし来そうなのも何人かおる。ほとんどご近所さんと身内だけのこじんまりした葬式やし、用意した席くらいはいい感じに埋まるやろう。そうそう。さっき呉藤君が来て「こんなことになるなら生前返しておけばよかった」って神妙な顔して五十円玉置いて行ったっちゃけど、これ香典として計算した方がいいのかしらん。―――


 喋る喋る。


 古谷は「はあ」とか「へえ」とか「なるほど」とか、南天が話す合間に短い相槌を打つのだが、それで会話が成り立ってしまうのだから、年上であっても案外に気楽な相手だ。

「結局死因は」

「分からんけど事件性なさそうやから適当に書いとくって涼本さんが」

「大丈夫なんです、それ」

「ホントはいかんっちゃろうけど、仕方なかろ。雪路はなぁ」

 玄関に一番近い和室を受付に使っているらしい。そこで座卓について受付作業の傍ら熱い緑茶を啜りつつ、南天は苦笑した。

「僕にも分からん理屈で生きとる」

 言い終えた後、ふと真面目な顔付きで沈黙し、


「……もう死んじょるな」


 呟いて、変な友人の変な兄は朗らかに笑った。






 死に顔を見れば何かしら実感が湧くかもしれないと思っていたが、棺の中に収まった遺体は標本箱の虫めいていて、生前の雪路とやっぱりうまく繋がらなかった。死後、翅の色や体色が変わってしまう虫がいると本で読んだことがあるのだけれど、これはそれだな、と古谷はぼんやり考えた。

 水上雪路を水上雪路たらしめていた何かが決定的に損なわれている。彼の端正な容貌と相俟って、遺体は精緻な肉の塑像そぞうとしか感じられず、通夜を終えても古谷は『友人の死』というものの実感をいまいち得られないままだった。

 翌日。

 半ば夢の中にいる心地で読経を聞く内、いつの間にか葬儀が終わっていた。白木の棺に菊花を入れる。花に埋もれた友人は完成された一種のアートのようで、やはり現実味が薄い。

 棺に釘を打った。参列者全員が小石で二回。それが死者自身を石で打ちのめし、起き上がれなくする行為に思えて「厭だなぁ」と感じた時にようやっと古谷は気づいた。実感が湧かないのではない。認めたくないのだ。


「これをもちまして、故・水上雪路の葬儀を終了致します」


 黒い着物に身を包んだ女性――雪路の母、小春子が凜とした声で閉会のアナウンスを行っている。仏間から廊下へ庭へ、棺が運ばれるのに合わせ、ぞろぞろ動き出した人波と共に古谷も歩き始めた。玄関に向かいつつ、窓外の景色をぼんやり眺める。一見無造作だが程良く手入れされた日本庭園が、明るい真昼の陽光に照らされていた。雲一つない紺碧の空。金の蝋梅。紅い山茶花。風で揺らいだ池の水面がきらりと光る。

 古谷は廊下へ視線を戻して、

「あれ」

 思わず呟いた。誰もいない。

 目前には無人の廊下が白々しく伸びている。

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