峠の怪 一

翌朝、日も昇らぬうちに宿を出立した三人は、ようやくお天道様が顔を出したかという頃、駒木野こまきの宿にある小仏こぼとけ関所へたどりついた。

 この小仏関所、なぜ駒木野にありながら小仏と呼ぶかというと、かつては小仏峠にあったものを、後に駒木野へ移したためである。とはいえ、それももうだいぶ昔、まだこのあたりが北条ほうじょう家の領国であった頃の話である。

 その小仏関所へ到着した三人は役人の調べを受けることになる。清司郎せいしろう谷川たにがわは昨日入手した手形のおかげですんなりと調べが終わり、おはるの番となった。

 お榛は何食わぬ顔で白紙を取り出し、役人に差し出す。受け取った役人が怪訝けげんな顔をしていると、お榛は白紙の陰で素早く印を結んだ。すると、役人はどこかぼんやりした顔になって、お榛の顔と紙とを何度も見比べ始めた。

「どう? なにもおかしなところはないでしょ?」

「あ、ああ……そうだな。よし、行け」

 役人はぼんやりしたままお榛に白紙を突き返す。

 そうして、お榛は堂々と関所抜けをしてのけたのだった。

「お前、一体どうやったんだ?」

「さあね。朝早いから、お役人も寝ぼけてたんじゃない?」

「まあ、そういうことにしておくか」

 目指す小仏宿は駒木野宿から四半時しはんとき(約三十分)ほど歩いた先だった。旅籠はたご屋の数は十軒ほどで、宿場としてはさほど大きいわけではない。そもそもが宿泊を禁じられているあいの宿であり、旅籠屋も表向きは存在していないことになっている。しかし、甲州街道でも一番の難所とされる小仏峠を前にした宿ということで一度ここで足を止め、一休みする旅人も多い。

 清司郎たちはそんな宿の中にある旅籠の一軒をたずねた。播磨はりま屋の番頭がそこで養生しているという話を聞いていたからだ。

 帳場でわけを話し、通してもらったのはやや手狭な座敷だった。

 そこに、腹に包帯を巻いた番頭がぐったりと横になっていた。傍に医者が一人いて、番頭に肩を貸して起き上がらせている。

「播磨屋の番頭さんですね。ご隠居の善兵衛ぜんべえさんから頼まれて来た者です」

 清司郎が名乗ると、番頭はようようといった様子でうなづいた。

「ご隠居からの……そうですか。それでは、手前どもがどんな目に遭ったかもご存じで?」

「ええ。勿怪もっけから大事な荷を取り戻してほしいと頼まれました」

 清司郎の言葉に、番頭はなにか得心したようだった。

「そうですか。たしかに、あの荷はとても大事なものだと言っておりましたから……」

「あの、言いづらいことではあるのですけれど、できれば荷を奪われた時のことを詳しく教えていただけませんか?」

「わかりました。あの日、手前どもは荷車を使って峠越えをしておりました。というのも、いつもは小原おばらから駒木野までは馬を使うのですが、それが今度はだめだったのです。引き受けてくれる馬子まごがおりませんで」

「引き受けてくれないとは?」

「その、大きな荷物を運んでいると峠の勿怪に襲われると。手前どもは信じておりませなんだが、馬がだめならと人足を余計に雇って荷車で峠を越えることにしたのです」

 番頭は恐ろしい記憶を思い出したようで、ぶるりと体を震わせた。

「あれは、峠を越えてやれ一安心という時でした。森の中から笑い声が聞こえてきたのです。あっと思った時にはもう遅く、大きな猿のような勿怪が襲い掛かってきて人足を投げ飛ばし、荷車をひっくり返して……」

「そうでしたか。恐ろしかったでしょう。でも、もう平気ですよ。奪われた荷は、あたしたちが取り戻してみせます」

 お榛がそう言いつつ印を切ると、番頭はほうっと息を吐いた。

「お願いいたします。あの荷は播磨屋の行く末に関わるものだと聞き及んでおります。どうか……」

 それきり、番頭の言葉は途絶える。

「どうも、眠ってしまったようですな」

 医者が番頭を布団に寝かせながら首を傾げた。

「さ、お行きなされ。これ以上は患者に毒じゃ」

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清司郎斬妖帖 野崎昭彦 @nozaki_akihiko

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