旅の空で

 さらに翌日のこと。

 清司郎せいしろうたちは江戸の町を離れ、甲州街道を西へと上っていた。

 善兵衛ぜんべえから、荷車が襲われたのが小仏こぼとけ峠を越えたあたりであったことと、番頭が未だ小仏宿しゅくに留まって養生していることを聞いたためだ。

 この頃の旅というものは俗に「お江戸日本橋七つ立ち」と言って、まだ日も登らぬ七つ頃に日本橋を出立しゅったつするのが常である。

 清司郎たちもまた、日本橋を七つ時(午前四時頃)に出立して街道をひたすらに歩き続け、横山よこやま宿で一泊した。播磨はりま屋の番頭が養生している小仏宿まではあと半日ほど、というところだ。

「いやぁ、一日歩き詰めっていうのも疲れるよね」

 おはるが大きく伸びをする。

 三人が宿を取ったのは横山宿に三十軒あまりある旅籠はたごのうち、中ほどの規模の宿で、二階の八畳座敷に通されていた。宿賃の節約と、用心の意味で三人で同じ部屋を使っている。

「順調にここまで来たのはいいが……明日はどうするんだ?」

 清司郎がたずねたのは、翌日に小仏関所を通らねばならないからだ。

 男だけの旅であれば調べは簡素なもので、手形がなくともかまわないし、調べが煩わしいと思えば道中で買い求めることもできる。現に、いまは谷川たにがわ帳場ちょうばへ道中手形が手に入らないか交渉に行っている。

 しかし、女となるとまるで話が変わってくる。俗に“入り鉄炮に出女”といって、江戸の屋敷にいる大名の奥方や姫が国元へ逃れるのを防ぐため、女は出発地や目的地は無論の頃、人数や身分など、詳細な調べが行われた。そのため、女の旅には専用の手形が発行されることになっており、その手続きも煩雑はんざつを極めた。

 そんなものを身軽に出立してきたお榛が持ち合わせているはずがない。清司郎が気にしているのはそこだった。

「ああ、それなら平気。ちょっと、考えがあるんだ」

「考え? まあ、それならいいが……」

 お榛は意味ありげに笑うと、窓を開けて眼下の通りを見下ろした。

 夕暮れの近づく宿場町では、宿を取りたい旅人と客引き女とがそこかしこで交渉している。見えるのはそれだけだ。

「それにしても、猿の勿怪もっけがどうして小間物商の売り物を欲しがるんだろうな?」

「さあね。勿怪にしかわからない理由があるのかもしれないし、たまたま襲っただけかもしれない。勿怪のすることなんだから、あたしたちにはわからないのも無理ないよ」

 谷川は、まだ戻ってこない。思いのほか交渉が難儀しているのかもしれない。

「峠道を荷車で越えようなんて、播磨屋さんもとんでもないことを考えたよね。余計な人足を雇い入れてまでわざわざ」

「ああ、そうだな。そのあたりも明日になればわかるだろう。とはいえ、真っ当な了見りょうけんなら荷車じゃなくて、馬を使うよな」

 そもそも、この甲州街道は山道も多く、馬を使った荷運びが盛んな街道だ。江戸の日本橋を起点として、信州下諏訪しもすわ中山道なかせんどうに合流するため、上方かみがたから荷を運んでくるのであればそのまま中山道を通った方がよほど良いはずなのだ。

 清司郎はその理由をあれこれ考えてみたが、長屋で手習いを教えているだけの若侍にそんなことを考え付くはずがない。朝から歩き詰めだったこともあって、考えるうちにまぶたが重くなってきていた。

「若先生、眠いの?」

「ああ、まあな……普段、こんなに歩いたことがないせいか」

「そっか。んじゃああたしが子守歌うたってあげよっか?」

「よせよ、子どもじゃないんだから」

 お榛のからかいに苦笑いで答えていると、ようやく谷川が戻ってきた。

「手形だが、とりあえず俺と赤城あかぎのぶんはどうにかなった」

「やっぱりお榛のぶんは無理か」

「それはそうだろう。女手形を発行するには煩雑な手続きがあるからな。ここから先は、俺たちだけで行くか?」

「いや、それはさすがに良くないだろう。相手の勿怪が妖術を使えるようなやつだったら、おれたちだけじゃどうしようもないぞ」

 清司郎が答えると、谷川もうなづいた。

「だから、それは平気だって。明日もたくさん歩くんだから、しっかり休も」

 ただお榛だけが考えとやらに自信を持っていた。

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