いつか羽化する
夢月七海
いつか羽化する
テーブルの上に置かれたグラス。オレンジ色の花の模様が入っていて、とても綺麗です。しかし、僕の目は、その中の半透明な氷に釘付けでした。
「電気冷蔵庫を買ったのよ」
「すごいですね。僕、氷の入った麦茶を飲むの、初めてですよ」
「そう?」
都会ではそれが当たり前だけど、という顔で、支倉さんは澄ましています。まあ、実際に、首都圏では電気冷蔵庫のある家の方が過半数でしょうね。こんな山に囲まれた田舎の村では、この一軒だけですが。
とはいえ、僕は自分が思っている以上に興奮していました。麦茶の見慣れた茶色も、今はやたらと光輝いて見えます。
「どうぞ。お飲みになって」
「いただきます」
自分の分を注ぎ終わった支倉さんに言われて、「待て」から「よし」の合図を得た犬のように、僕は乱暴に掴んだグラスを一気に煽りました。直後、今まで感じたことのない冷たい塊を、上唇に感じました。
飛び上がりそうほど驚いている僕を見て、支倉さんはくすりと笑います。僕と同い年の彼女ですが、その瞳には母性と優越感が見え隠れしていました。
「おいしい?」
「ええ。とっても」
「良かったわ」
僕が一気に中身を飲み干して、グラスを置くと、それを眺めてた支倉さんは、満足気にそう言って、ちびちびと自分の麦茶を飲み始めました。それを見て、僕は後悔します。グラスの中に大きな氷が残っているのが、もったいなく感じたからです。
支倉さんがいなければ、氷を丸ごと口に入れてしまいたいです。もちろん、そんなことはみっともないので、僕は何事も無いような顔で座っています。ただ、支倉さんをじろじろ見るのも失礼なので、真向かいに開かれた庭に出られる窓を眺めました。
夏休みも半ばになった日の午後です。支倉家の生け垣は青々と茂り、その向こうにはほとんど白く見える空と、大きな入道雲が聳えています。外の木のどこかに隠れているのでしょう、蝉の声も、ずっと鳴り響いています。
いつもと変わらない夏でした。これを平和だと喜ぶべきなのか、退屈だと不貞腐れるべきなのかは、僕の十三年ぽっちの半生では、判断付きません。
「ね、みつくん」
晩酌と同じほど、少しずつ飲んでいた支倉さんは、やっと自分のグラスを置きました。テーブルの上の丸く残った結露と全く同じ位置に。花の模様の上を、露がゆっくりと流れ落ちていきます。
僕は、一緒にやっていた宿題の続きをするのかと思い、端の方に追いやっていたノートと教科書に手を伸ばしました。ですが、支倉さんは妙に緊張した面持ちをしています。思わず僕も、畳の上で正座の姿勢を直しました。
「みつくんにだけ、この家の秘密、教えてあげる」
唐突な一言の後、正座を崩したままでいた支倉さんが、急に立ち上がりました。薄い桃色のワンピースから伸びた足には、血行の巡りが悪かったせいで、青白い血管が浮かんでいます。
こちらは返事も何もしていないのに、当然のごとく支倉さんは僕に背を向けて、居間から出ていきます。仕方なく、僕も立ち上がりました。直後、テーブルの上で、かちゃんと氷が解ける音が聞こえます。
支倉さんは、日の当たらない廊下の途中にある薄そうな木の扉をぎしぎしと開けました。支倉さんの家はとても大きくて立派なのに、こんな立て付けの悪い扉があるのかと、正直驚きました。
扉の内側は、下へと伸びる階段だけが入っていました。物置だろうと思っていた僕は、目を見張ります。支倉さんは、内側の壁にかかっていたランプを下ろし、慣れた手つきで火をつけました。
躊躇なく、階段を降りていく長谷川さんの後を、好奇心に負けた僕もついて行きます。爪先を乗せただけで、階段は軋んだ音を立てるので、僕はどこかで一枚踏み抜いてしまわないかと、怖くなりました。
確か、この家が出来て二十年くらいだと、昔お兄さんが言っていました。この階段は、それよりも昔に存在していたんじゃないかという、矛盾した疑惑が湧いてきます。
三十段近く降りて、やっと一番底まで辿り着きました。そこにも、また別の扉がついています。その取っ手には、鉄製の重そうな錠がついていましたが、支倉さんはワンピースのポケットの中から錆付いたカギを取り出して、錠に差し込み、回します。
扉が内側へ開かれます。僕は一瞬、息を止めました。埃っぽい匂いを覚悟したのですが、実際はそれほどでもなく、上の空気感とあまり変わらない様子です。
「来て……」
振り返った支倉さんは、唐突に僕の手首を掴んで、引っ張りました。風も無い場所で長く階段を下りたため、彼女の掌は汗でぐしょりと湿ってしまいます。麦茶を飲むのは、この後が良かったかもしれません。
扉の内側は、ただの物置のようでした。値段は分かりませんが、大きな壺が置かれていたり、桐箱が積まれていたりと、芸術品が人ひとりやっと通れるくらいの隙間だけ残し、周囲を圧迫しています。僕にとって、面白そうなものは見当たらないので、心底がっかりしました。
それに気が付かない支倉さんは、僕を強く引っ張ったまま、迷いなく物置の一番奥の右の角に行きました。やっと僕の手を放してくれた支倉さんは、何も言わずに、僕らの腰くらいの高さまで積み上がった箱を一つずつ、横へと乗せ始めます。真剣な横顔の額に、髪の毛がぺたんと張り付いているのを、僕は見ていました。
そういえば、周りと比べて、この一角は埃が殆どない。そんなことに気が付いた時に、一番下にあった一つの桐箱を、彼女は持ち上げて、こちらを向きました。彼女の片手よりも少し大きいです。
「これね、私が小さい頃に見つけたの。それから、家族の誰にも言わずに、たまにこっそり見に来ていたんだけど……みつくんは、特別」
例の桐箱を、他の桐箱の山の上に置いた支倉さんは、真横の僕にそう言って、微笑みかけました。慈悲深い何かになり切っています。
支倉さんが、桐箱に結ばれていた紐を解き、ひょいと蓋を開けました。中身が見えた瞬間、僕ははっと息をのみました。
おさまっていたのは、人の顔の一部でした。例えば、目元を横長に切り分けて、それを眉間で二等分した場合の、左側の部分のようです。その瞼はしっかりと閉じられています。
恐らく男性であるその体の一部を、じっと見つめている僕を眺めて、支倉さんは満足していました。顔を上げて、質問しようとした際、その背中から幸福感が後光のように溢れ出してしまっていたので。
「この瞼が開いたり、眼球が動いたりしたことはありますか?」
「まさか。ただの死体よ。……腐ったりとかはしないけれど」
「本当に、それだけなんですか?」
「みつくん、意外と怖がりね」
可笑しそうに笑った支倉さんは、一瞬で真剣な表情に変わり、右の人差し指を、僕の顔に寄せてきました。そして、鼻先と口元に、丁度先生が「しー」と注意するかのように、指を押し付けてきます。
口を開こうとした僕を、そのように制してから、ランプの光で潤んだ瞳のまま、彼女の方から話しだしました。
「このこと、誰にも話しちゃダメだからね」
僕は、否定も肯定もせずに黙っていました。ただただ、支倉さんの右指に、僕の唾液が付着して、気持ち悪いを思いをしていないのかが気にかかります。
支倉さんは、こちらが何も言わない、頷きもしないのに、そっと指先を引っ込め始めました。解放されたことにほっとしている間もなく、今度は彼女の唇が迫ってきます。
僕は支倉さんと接吻を交わしました。甘じょっぱい味と生温い二酸化炭素が、咥内に入ってきます。
ランプの炎が揺れました。巨大な怪物のようになった僕と彼女の影も、それに合わして踊っていました。
□
「ただいま帰りました」
玄関から入って、靴も何もない三和土の上で、そう声をかけます。誰もいないと分かっていても、そうするのが僕の習慣でした。
今日も、会社の社長をしている僕の父は、仕事で遅くなっています。夕闇が迫る時間になっても、帰ってきていないのは、いつものことです。こんなに働いても、我が家の経済状況は、支倉さんの家に遠く及びませんので、人生とはままならないものだと思います。
支倉さんの家でおやつのカステラをいただいきましたが、小腹が空いていました。少し早めの夕食にしてもかまわないのですが、僕は真っ直ぐに自分の部屋に向かいました。荷物を片付ける為だけではありません。
自室の机の一番下の引き出しを開けます。一番上に載っていた横長の桐箱を取り出します。机の上に置き直して、蓋をぱかりと開けました。
中身は、人の口元でした。何の変哲のない男性の口が、桐箱に鎮座しています。
支倉さんの家にあった右目部分と、肌の色が同じかもしれません。そう考えていると、ただの横線に結ばれていたこの唇が、ぐにゃりと歪むように笑いました。
「わしの右目、見たようやな」
口が、若い男の声でそんなことを発したので、僕は驚きました。喋ったことに対してではありません。支倉さんの家でのことを、この口が把握しているなんて、思ってもいなかったからです。
「気付いていましたが」
「当然や。バラバラに離れていても、わしの体がどこで何をしているのか、何となく見えておるからな」
口は、喉も無いのにはっきりとそう発声してきます。どこか自慢げな感じもします。この口は、目も耳も無いのに、僕の反応を知っているので、感覚器官は飾りのようなものなのかもしれません。
さて、この口と出会ったのは、僕が小学校に上がった頃です。丁度父が会社を立ち上げて、忙しくしていたので、暇をもてあそんでいた僕は家を探索して、この口を発見しました。
自分の家に、人の口元だけがある。その事実以上に度肝を抜かれたのは、これが勝手に動いて、「なんや、大分眩しいのぉ」と呟いたことでした。
この口によると、西の出身である彼は大昔、この村を訪ねた時に捕まって、バラバラにされてしまったのだそうです。分けられた体の一部は、桐箱に入れられて、それぞれの家に振り分けられてしまったのだとか。
その身の上話を聞いて、僕は珍しく、彼に同情しました。「たまには、箱を開けて、坊やのことも話してな」と、殊勝なことを言われたからかもしれません。そのため、僕はこの箱の自分の机に隠し、口元のことを「お兄さん」と呼んで、ほぼ毎日のように話していました。
「でも、お兄さんが言っていたことは本当だったんですね。支倉さんの家に、お兄さんの右目があったなんて」
「なんでや。わしの言うこと、信じておらんかったんかい」
「半信半疑です」
「坊やとは、長い付き合いなんやけどなあ」
お兄さんは悲しそうにそう言うので、僕はくすくす笑いました。お兄さんと話している時は、僕も素でいられます。
「支倉さんの話では、お兄さんの右目は動いたことがないようなんです。喋るのは無理だとしても、瞬きもしないのは、我慢しているからですか?」
「ちゃう。他の体の一部は、感じ取るのが精一杯で、こちらが動くことなんて不可能や」
「では、どうしてお兄さんは喋れるのですか?」
「坊やのお陰やで」
お兄さんはニヤニヤしながら言ってきます。箱を発見した当時、僕がしたのはそれを開けただけ……幼少期の支倉さんの行動と同じで、特別なことはしていないので、余計に訳が分からなくなりました。
「正確には、坊やに流れる血のお陰やな」
「血」
「自覚は無いようやけど、坊やには『魔のもの』の血が流れとる。母方の血やな。坊やが男前で、おなごにめっさ人気も、それと関係しとる」
「はあ」
顔を撫でてみても、自覚は芽生えません。学校の女子との関係は、他の男子と変わりないと思うのですが……。
「なんやその疑うような顔は。そもそもな、おなごと二人きりになるとか、家の秘密を教えられるとか、そんなんされてる時点で、あんたは特別なんやで」
「そう言われましても、ああして秘密を打ち明けられるのは初めてですが、二人きりで勉強するのは、当たり前のことなので……」
「かぁー。言っていることの次元が違いすぎるわ」
「お兄さんは、女性に言い寄られたことなさそうですね」
「やかましいわ」
間髪入れずにお兄さんが言い返すので、僕は声を出して笑ってしまいます。お兄さんが何者なのかは未だに不明ですが、こういう人間臭いところを見ると、僕も心を開かざるを得ません。今では、父よりも身近に感じるほどです。
だけど、大昔からこの村にいるお兄さんだったら、僕の知らないこともたくさん知っています。僕は真剣な顔で、改めてお兄さんに訊いてみました。
「母は、僕が物心つく前に亡くなりました。『花嫁さん』として、村の外から連れてこられたので、母方の親戚には会ったことも無いんです。『魔のもの』というのも、初めて聞きました。それは一体何でしょうか?」
「まー、説明が難しいなぁ。魔の力を司る、人間とは全く異なる生き物、としか言えんわ」
「その『魔のもの』とはどこから来たのですか? お兄さんと同じ西の方? それとも、海の向こうでしょうか?」
「いや、真下や」
僕を完全にからかう口調で、お兄さんはそう言います。僕は足元を見ますが、座っている椅子の下は、ただの畳です。お兄さんの冗談なのかもしれません。
「もういいです。真剣に聞いたのが馬鹿らしくなってきました」
「ほんまのことを話したんやけどなぁ」
お兄さんは少しだけ寂しそうに言いましたが、「そういや」と話を変えました。
「もうすぐお盆やったな」
「ええ。三日後からです」
「今年も初日は盆踊りをするんか?」
「そうですね。神社で」
僕がそういうと、お兄さんは「そかそか」と返します。
「ま、何が起こるか分からんが、せいぜい楽しんでおき」
「はいはい」
お兄さんは意味深なことを言いますが、これも毎年のことです。僕はそれを受け流して、夕食を食べるために桐箱に蓋をし直しました。
□
蝉の声しか聞こえていなかった神社の境内は、十二時が近づくにつれて子供たちが集まってきて、わいわいがやがやと、あちこちで会話を交わしていました。午前中に来て、
十二時ピッタリ、数は確認していませんが、村中の子供たちが集まったので、神主さんが神社から現れて、みんなに櫓を囲むように指示を出しました。僕も子供の輪に合流して、立ったまま、盆踊りが始まるのを待ちます。
輪の外側で、神主さんが和太鼓を叩いて、盆踊りが始まりました。両手を上げたり下げたりしつつ、ゆっくりと櫓を中心に歩きながら、僕らは祝詞を唱えます。
「は~
夜はない
村には夜はない
誰も寝ないぞ
寝たらとられるぞ
目を開けておけ
決して結ぶな
狩れや狩れ
日は続く
日は続く」
祝詞はその繰り返しです。昔から内容は変わらずに、子供にも唱えられるようにと、今の言葉に直されて、受け継がれてきた祝詞は、内容は分かっても意味が分かりません。それに、とても言い辛いです。
そんな風に、ぐるぐるぐるぐると、火の周りだけを飛ぶ蛾のように櫓を回り続けていました。だんだんと、聞こえるのが自分たちの声なのか蝉の鳴き声なのか、分からなくなってきたところで、ドドンと合図をして、神主さんが太鼓を叩くを止めました。これで、盆踊りもおしまいです。
神主さんに一礼をした後、子供たちは石段を下りて帰っていきます。暑い中をずっと踊っていたので、この後川遊びをするのでしょう。昼食を摂るのかもしれません。ですが、僕は櫓を片付けるので、ここに残っていました。
お盆の初日の神社には、神主さん以外の大人が入ってはいけないと言われているので、神主さんしか盆踊りの準備と片付けをします。僕は、どうせやることも無いのだからと、数年前からそれを手伝うようにしていましたが、今日はちょっと勝手が違っていました。
「みつ兄ちゃん、これはどうするの」
「垂れ幕も、あそこの倉庫に入れます。一緒に畳みましょう」
僕の隣に住んでいる、二つ年下の女の子の細川さんが、初めて片付けを手伝ってくれることになりました。これで色々とはかどるかと思いましたが、やり方を教えたり、細川さんだけでは持てないものを二人がかりで運んだりと、余計な手間がかかってしまっている気がします。
これが、お兄さんの忠告していた「何かが起こる」という事でしょうか。そんなことを考えていると、細川さんは、神主さんが櫓の中心に吊るしていた大きな箱を下ろしているのを、見上げていました。
「あれが、さかさ様だよね?」
「ええ。そうです」
この神社の御神体、さかさ様は、常にあの箱に入れられています。普段は神社の奥の方に隠されていますが、お盆の日だけにこうして、櫓に取り付けられます。これに触れてもいいのは、神主さんだけです。
「みつ兄ちゃんは、あれの中身を見たことある?」
「いえ、一度もありません」
「ふーん」
さかさ様が神社の奥に運ばれてから、細川さんに小声で尋ねられましたが、僕は正直に答えます。その答えを知りたいから、友達からの誘いも蹴ってここに残っているのかと思いましたが、あまりがっかりした様子もありません。
そうこうしている内に、櫓の片付けが終わりました。僕らは神主さんからのお礼に、湧き水で良く冷やしたキュウリを一本ずつもらって、石段を下りていきます。細川さんは生えたばかりの永久歯で、そのキュウリを齧っていましたが、僕はみっともないので、それを持ったままでした。
「……ね、みつ兄ちゃん」
突如、細川さんの姿が視界から外れました。後ろからの囁き声に振り返ると、彼女は食べかけのキュウリを力強く握ったまま、俯き気味に、石段の途中で立っていました。
母親の手作りだと話していたプリーツ付きの紺色のスカートも、左手で皺になるほど握りしめています。キュウリの汁もついて、このままシミになってしまいそうです。よく日焼けした腕を、蟻のように汗が這っていきます。
「どうかしましたか?」
僕が何気なく尋ねると、細川さんは勢いよく顔を上げました。目元が潤んで、口は「へ」の形に結ばれていて、鼻を摘まんだだけで泣き出してしまいそうです。活発な彼女のこんな顔、初めて見ました。
「兄ちゃん、どうしよ。私、お家の中に、変なの見つけちゃったの」
急に、耳の上に蝉が止まっているかと思えるくらい、その声が鮮明に聞こえだしました。脳裏に浮かんだのは、当然、お兄さんの入った箱、そして、支倉さんが見せてくれた箱の二つです。
「……それ、僕に見せてくれませんか?」
深く考えずに、僕は見事な猫撫で声で、そう言っていました。
□
「わしの左手を見たようやな」
帰宅した僕がすぐに箱を開けると、何もかも見ていたお兄さんは、にやにや笑いながらそう話しかけてきました。僕は黙って頷きます。
「坊やは天性の女たらしやで。わしが見立てた通りや」
「そう言われたのは初めてなんですが……」
普段のように、掴みどころのない言い草のお兄さんに、僕は痺れを切らしていました。口元を真上から覗き込んで、真剣に問い質します。
「そろそろ教えて貰えませんか? お兄さんの正体について」
「まー、あんたのおとんや他の家の主人は、わしのことを子孫繁栄のお守りやと思うてるな」
「実際は違うのですね?」
「半分当たり、半分外れやな。滅ぶのを避けるのは当然やけど、増えすぎてもあかん。この村の家の数を一定に保っとくのが、わしの役割なんや」
「どうして、増えすぎてもいけないのですか? たくさん村人がいたら、出来ることも色々ありますでしょうし」
「ここは四方を山に囲まれ、土地も痩せておる。坊やは他の農村を知らんやけど、この人数ではありえへんほど、村の田んぼは小さいんや。そんな村で鼠みたいにポコポコ人が増えてみぃ。食物の数があっちゅう間に足りなくなって、一大事や。まあ、昔の飢饉で、そないなことがあったようやけどな」
その話は、僕も聞いたことがありました。この飢饉によってなくなった大勢の人を慰めるために、建立されたのが村の神社だそうです。恐らくその飢饉を乗り越えた後に、お兄さんは村人にバラバラにされてしまったのではないでしょうか。
「村人の数を保つために、お兄さんは何をするのですか?」
「何もせえへん。ただ、わしの体の一部が入った箱がある家は、滅びることはない。それだけや」
「箱がない家は、どうなるのですか?」
「……その話は、実際の例を挙げるのが早いやろうな。坊やのおとんと、その兄貴の話や」
「え、父に兄がいたのですか?」
妙な事ですが、これまでのお兄さんの話の中で、この事実に一番衝撃を受けました。祖父母は僕が生まれる前に亡くなっていたので、僕は自分の家のことを全然知りません。
「坊やの爺さんが死んだときにな、兄貴の方がわしを、この口を受け継いだ。それから嫁はんも来て、この家は安泰と思っていたようやけどな、坊やのおとんは、兄貴の家からわしを盗んだんや」
「盗んだ」
「兄貴はそれを知らずに、徴収された先の戦地で死亡。嫁はんの方も、失意の中で病気に罹ってしもうて、長くなかった。つまり、兄貴の家は滅んでしもうた」
「……」
「そない驚いていないようやな」
その通りでした。お兄さんが嘲笑しつつ指摘したように、僕は全く動揺していなかったのです。
なんとなく、父は悪いことをしていたのだろうと思っていました。父が僕とあまり顔を合わせようとしないのは、仕事が忙しいからというだけでなく、どこか後ろめたいからではないかと。それは、母との関係だと想像していたのですが、その一つだけではないようです。
「——そんな坊やに頼みがあるんやけど」
「何でしょうか?」
「他の家にあるわしの体を、全部集めてくれへん?」
紫がかった唇が開き、その中の舌も忙しなく上下して、
「今更、村人への報復ですか?」
「そう思うてもええ。ただ、仕返ししたいのは、わしだけでは無い筈や」
「誰の恨みも背負っているんです?」
「……村には、外から来た『花嫁』や『花婿』には、主人と一緒にわしの体を見せるっつー風習があるんよ。そん時にな、わしは坊やのおかんを一度だけ見た」
「母は、どんな人だったんですか?」
「ごっつい綺麗な人やった。ただ、それ以上にな、顔に精気がないんよ。虚ろな目をした無表情で、わしを見ても無反応だった」
お兄さんは溜息を吐きました。ちゃんと、冷たい風がこちらに届きます。いつも飄々としているお兄さんが、こんなに意気消沈しているのを見るのは、初めてでした。
「坊やのおかんの血の影響を受けていたのに、わしは喋れなかった。おとんの方が見とったからな。せやけど、そんなん気にせず、何かゆえば良かったんや。坊やのおかんを、わしは見殺しにしたも同じや」
「そんな、お兄さんが責任を感じる事ではありませんよ」
ここにあるのは口元だけなのに、僕にはお兄さんの悔しがる顔が想像できました。このまま、箱の中へと沈んでいきそうです。
「あの、僕はお兄さんの体を、他の家から盗んでいけばいいのですよね?」
「何や、急にやる気やな」
「そんな顔されたら、何とかしたいと思いますよ」
「顔が見えるんかい」
少し気を取り直して、お兄さんがふっと笑ってくれたので、僕は安堵しました。それにしても、僕はお兄さんにかなり
「支倉と細川、それぞれの嬢ちゃんからわしの体を見せてもろうたからな。坊やには、人の懐に入る才能がある」
「あんまり自覚がないんですけどね」
「ここまで来てもか? まあ、確かに、坊やは誰のことも愛しておらんからな。ただ、それがええんや」
お兄さんはまたしても、僕の図星を突いてきます。
支倉さんから接吻をされても、細川さんから一世一代の告白をされても、僕の心はどちらにも靡かなかったのです。お兄さんには親しみを覚えますが、愛とはまた違うものでしょう。きっと、誰からも愛されたことのない弊害だと思います。
「とは言っても、難しいと思いますよ。他の子供たちが、僕にお兄さんの体のことを話してくれたとしても、盗むのは大変でしょうね」
「ただな、実は今、千載一遇の好機なんよ。わしの体の一部と村の家の数が同じやからな。普段は気を張り合っている村人たちやけどな、今は思った以上に油断しとる」
「なるほど、そうでしたか」
「あ、男が跡継ぎの場合を忘れておった。ま、坊やの才能やったら、何とかなるやろ」
「ちょっと投げやり過ぎませんか?」
僕は溜息を吐きました。お兄さんがどこまで本気なのか、少々不安になってきます。乗り掛かった舟なので、何が何でも達成したいのですが。
「それで、盗んだ体の一部は、ここに集めればいいのですか?」
「一時的な保管場所はここやな。最終的には、神社の、あれや、さかさ様の所に持って行ってくれ」
「さかさ様も、お兄さんと関係があるのですね?」
「あれはわしの胴体や。何を思うたか、逆さまに箱詰めされてな、血が逆流してしゃあない」
「お兄さんはすでに死んでいるでしょうに」
呆れてそう言いましたが、実際にお兄さんが死んでいるかどうかは、謎のままです。腐らずに、五感が働いている身体を、死体と呼んでいいのかと、哲学的な問題にぶつかってしまいます。
「お兄さんの体が全部集まった時、どうなりますか。村が滅ぶのですか?」
「それはな、わしにも分らん」
「そんな、ここまで煽っておいて無責任な」
肩を落とす僕を見て、お兄さんは可笑しそうに笑います。
「悪いな。わしも経験した事ないから、何とも言えへん。坊やの言うとおり、村が無くなるかもしれへんし、逆に村に恩恵が与えられるかもしれへん」
「村人がおいしい思いをしたら、僕のくたびれもうけじゃないですか」
「ただ、村の常識がひっくり返るのは確かや。坊やも、それを望んでおるやろ?」
開けっ放しの窓からは、絶えず蝉の声が聞こえてきます。僕らがこんな話をしている間も、平和な昼下がりの村の中では、人々が何事もなく生活し、生き物たちが蠢いています。何も知らずに、誰も疑わずに。
僕は蝉の声を聞きながら、想像しました。何年も何年も、土の中でじっとしていた大きな蝉の幼虫が、いよいよ土の中から出てくる。その巨体を羽化して、空っぽの体を震わせると、けたたましい声が波及し、村の家々を倒していく。
……この想像をお兄さんに話したら、「わしは虫の化け物ちゃうで」と怒られそうですが。
「何や、悪い顔しとるな」
「お兄さんの方こそ」
唇を醜く歪めて、お兄さんは笑っていました。全く同じ顔を、僕もしていたのでしょう。ただ、自分を取り繕わずにいられるのは、とても心地の良いものでした。
他人から非難されるのは必須でも、この瞬間、僕は初めて夢を得ました。自分たちがどうなろうとも、お兄さんを羽化させようという、醜い夢を。
いつか羽化する 夢月七海 @yumetuki-773
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