第58話
鍵屋さんは、櫛田駅で少しだけ話したことを忘れているんだろう。
覚えていたとしても、この状況は変わらなかったような気がする。
気まずい空気をどうしようかと思っていると、
「及川、痴話喧嘩なら外でやれや。それとな、話が聞こえたから言うけどよ。そこにいる及川は、女に対してひどいことはしないと思うぞ。安心していいからな」
と、入口近くにいた先輩が言った。穏やかな口調で、鍵屋さんを怖がらせないような配慮を感じる。
さっきのやり取りを聞かれていたんだと思うと恥ずかしい。
「すみません。出ます」
俺は先輩たちに頭を下げたあと、鍵屋さんの手を取って店を出た。
駅から離れたかったし、変な空気をどうしたらいいかわからなくて、かなり早足で歩いていたらしかった。
「えーっと、どこまで行くんですか」
鍵屋さんからそう言われて、手を取っていたことに気付く。
「あーッ」
しまった。やらかした。
ずっと手を引いていた?!
鍵屋さんの気持ちなんて考える余裕もなく……
顔が熱くなる。
情けない顔をみられたくなくて、鍵屋さんに背を向けたあと、
「駅から離れたほうがいいだろって、それしか考えてなかった。手……勝手に、その、ごめん」
と、小さな声で言った。
それから鍵屋さんに向き合う。
「俺は、彼女がどうしても欲しいってわけじゃない」
取り繕うように言っているように思われないかと心配しながら言ってみる。
「わたしも、彼氏がほしいなんて言ってない」
篤史と遊木さんが、俺と鍵屋さんを心配して仕組んだことなんだろう。展開は予想外だったろうけど……
周りの景色をみると、駅前の大通りの筋違いの住宅街の通りっぽい。近くに喫茶店があったことを思い出して、鍵屋さんに聞いてみる。
そこに行くことになり、今度はゆっくり歩いてみた。
店に着いて、店内に入る。店員に案内された席に座りひと息ついた。鍵屋さんは店の外観や内装を気に入ったようだ。
「雰囲気がいいね。こんな感じ、好きかも」
「よかった。たこ焼き屋より、こういう感じの店が好きなんじゃないかって」
お冷やがあるのを見つけて一口飲んだあと、
「改めて……なんかさっきは、ごめん」
「こちらこそ、ごめんなさい」
互いに謝って苦笑いを浮かべた。
「自己紹介する?」
俺は知ってるけど、あまり知らないふりをしてみる。
「そうだね。自己紹介……」
鍵屋さんが同意したので、俺から話すことにする。
「俺は、及川陽太。朱鷺丘高の普通科。地元は
「白水? 隣の市だよね。遠いんじゃない?」
「遠い。六時過ぎに家を出ないと間に合わない」
「大変だねぇ……」
「地元の高校は、行けそうになかったからな。それについては自業自得だから、大変だと思わないようにしてる」
どこまで話したらいいかわからなかったけど、話をごまかすのは違うように思った。
「中学時代に、いろいろやらかしすぎた。高校はちゃんとしなきゃやべぇなって思ってる。卒業するって親と約束したから」
「そう、なんだ」
高校からちゃんとすると決めたのは本当だから、それはちゃんとわかってもらいたかった。
「そんな感じ。ひとまず。紗月さん……も自己紹介を」
「わたしは、鍵屋紗月。地元は……櫛田。瑛美里とは高校で知り合ったの。同じクラスでね」
「地元は知ってる。駅でよく見かけていたから」
「見てたんですか!?」
鍵屋さんが突然大きな声を出して立ち上がった。
店内の客の視線が集中したので、座るように伝える。
動揺しているらしい鍵屋さんには、オーダーを聞きに来ている店員が見えていないらしい。
ふだん冷静そうな鍵屋さんが慌てる姿は、可愛くて新鮮だと思う。
コーヒーが好きそうだから喫茶店にしてよかった。カフェオレを頼んでいる。
俺はあまり詳しくない。よくわかってないけど熱くなさそうなウインナーコーヒーを選んだ。
「さっきの話の続きだけど。見てたってわけじゃなくて櫛田駅で、いつも一人だから」
「うん。中学で仲良かった友達は、別の高校なんだよね」
鍵屋さんは、話の内容を深読みしがちなんだと感じた。
「そうじゃなくて、白水から電車に乗ってきて、櫛田で乗り換えしてる。だから駅で俺が一人ってこと。そういえば、駅のホームでいつも一人だな」
わかりやすく、説明を多めに話してみた。
会話の内容を勘違いしたことに気づいたようで、鍵屋さんは恥ずかしそうにしている。
そこで店員がカフェオレとウインナーコーヒーを持ってきたので、飲むことにした。
「あつッ!」
最初の一口目を勢いよく飲んでしまった。まさかホットだとは……
鍵屋さんが首を傾げて俺を見ている。
「ウインナーコーヒーって、熱いコーヒーに生クリームをいれただけだったんだな……アイスコーヒーかと思ってた」
恥ずかしすぎる。
帰りたくなるくらい、顔が熱い。舌や喉も熱い。
「大丈夫?」
「舌と喉がひりひりしてる。かっこつけるもんじゃないな」
素直にそう呟いた。
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