第53話
あの人が、びっくりした顔で俺を見ている。
「陽太くん……今……名前、で」
「えっとー……」
今度は、……理香子さんが泣き始めた。このタイミングで親父が帰ってきたらまずい。
「嬉しいときも、涙がでるんだね」
しみじみと、涙をふきながら理香子さんは言った。
名前を呼びなれていないはずなのに、なんでだろう。スムーズに名前で呼んだ自分に困惑していると、あゆがきょとんとしているのに気づく。
「おかあさん、笑いながら泣いてるよ?」
あゆは泣きやんでいる。
この場をどうおさめたらいいのかわからず、あゆの頭を撫でてごまかす。
「ほんとだね。悲しい涙じゃないから許してね」
一度呼べたからといって、これからずっと名前で呼べるのか、自信はない。
嬉しそうにしているのを見ると、わだかまりをこれから消していけたらいいと思う。
ずっと、一方的に許していなかっ
た。母親に対する義理があるわけじゃない。うまく言えないけど、受け容れられなかった。いろんなことが。
「すぐに変わろうとしなくていいから。変わろうとしてくれてるなら、少しずつで、無理しないで」
理香子さんはそう言ってから、「お父さんには内緒にしましょ」と、微笑んだ。
「え?」
「陽太くんの変化、自分の目で確かめてもらいたいから。人づてだと疑うでしょう?」
「そう、かも……」
そういうところが似ているんだと思う。
あゆは夢中で絵を描き始めていて、この会話は聞いていない。泣いていたのを忘れたかのように。
しばらくすると親父がリビングに入ってきた。俺は居心地が悪くなり、自分の部屋に移る。
家族の団らんというのは、俺にはむず痒い。あゆには必要だろうから。
✳ ✳ ✳
ゴールデンウィークが終わり、学校に行く日常に戻る。早起きして電車に乗り、櫛田で乗り換えるために電車待ちして、鍵屋紗月を――
「おはよ」
「川井、なんでお前……櫛田に」
鍵屋紗月を見ようとしたら、川井が俺の前に立ちふさがった。制服じゃなくて私服ってことは――
「川井、朝まで遊んでただろ。学校、サボるのか?」
「ふられたから慰めてもらってたら、朝になっててさー」
「ふられたって誰にだよ」
「早瀬さん。俺じゃだめだってさ」
「ふらふらしてるのバレてんだろ」
「理想が高いって言うから聞いたけど、どっちも無理だわって思った。鍵屋晴月か及川陽太。無理すぎる」
川井は、ケラケラ笑いながらたばこを取り出し、火をつけた。
「俺も、鍵屋紗月ちゃんを狙うかな」
川井は、目線を鍵屋紗月に送る。読書に夢中でこちらには気づいていない。
俺は川井を睨んでいた。
「俺は篤史の彼女の友達を紹介してもらうかなー。及川さぁ、ガキじゃねぇんだから、怒るくらいならなんとかしろよ」
川井は、どこからともなく出してきた缶コーヒーを一気に飲み干した。それから、たばこの火を消して、吸い殻を空き缶に押し込んでいた。
「学校はサボるけど、トキ高付近に用事があるから電車は乗るから」
川井のずっと向こうに見える鍵屋紗月を視界にいれながら、俺は「好きにしろ」と、つぶやいた。
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