第33話
「あはは……やっぱり、こうなったかぁ……」
言葉と同時、小早川さんの姿は、ゆっくりと黒い影に侵されていく。
「……約束、守ってね。ごめんね……こんなこと頼んじゃって、君は魔術師でもないのにさ」
そしてその影が全身を黒く染め上げた後。全身を覆っていた黒い影は、ゆっくりと人の形に沈着していく。
「けど……信じてるよ」
そう言って、彼女はそれきり黙ってしまった。
彼女は語った。自分はこれまでで、とびきり残酷で、とびきり黒い魔女になるのだと。
形が定着した後。胸の中心に、魔女化した核が現れていた。
影が晴れた後、彼女は自身の言葉通り、まるで、黒いウェディングドレスにベールを纏ったような、そんな姿をしていた。ベールのせいで顔が隠れて、その表情は、容姿は読み取れない。彼女の顔がまだ彼女のままなのか、それすらもわからなかった。
……けど、わからなくてよかった。彼女のままの顔だったら、本当に殺せるかわからない。
そう、彼女の顔はもうきっと魔女のものなのだ。魔力は人間の姿さえ変える力を持つのだから。魔法とは悪魔の契約。なりたい自分に変えてくれる、不思議な力。だから──
──きっと彼女はまるで、少しだけ化粧をいつもより力を入れてやったみたいに。
そんな風に、彼女のまま、もっと美しくなってるに違いない。
そう思ってしまった時。俺はもう、ダメだった。
もう既に、とっくの昔に、涙腺は決壊している。
泣きながら短剣を構え、小早川さんに突きつけた。
短剣に残された光は、最後の一本だけ。
それでも、わかる。たったそれだけでいいのだと。
彼女から抵抗する力を奪うことさえ、する必要はないのだと。
あと一歩のところまで歩いて、その最後を差し出した。
そう、あと一歩進んで、いつものように突き刺すだけだ。
なのに──その、一歩が出ない。
だって彼女は、まだ何も傷つけていない。
彼女の人格は残っているのかもしれない。
魔女が生前の願いと魔術を反映するなら。
彼女が何もない人を、無辜の人々を傷つけることなど、
絶対にあり得ないことなのだ。
ああ、ダメだ。
俺はもう、進めない。
約束、したのに。
守ってねって、言われたのに。
信じてるって言ってもらえたのに。
どうしよう、進めない。
どうしようもない。
どうすればいい。
あの覚悟に、どうケジメをつければいい。
お祖父様、教えてくれ。
妹よ、喝を入れてくれ。
頼む、俺に一歩、進ませてくれ。
狼よ、すまない。君が言っていたあの言葉の意味を、俺はまだちゃんと理解していなかった。
美原、ごめん。君を殺して、君を捨てたのに。そうまでして、俺にこんなチャンスをくれたのに。
小路、君が俺に教えてくれたのに。俺に気づかせてくれたのに。君が認めて、俺の背中を押してくれたのに。
「浮気者め。……大好きだよ」
不意に、らしくないことを言って、小早川さんは少しだけ前に出た。
カツンと、核の殻に短剣が当たる。
俺は右手で、短剣を強く握った。
起動するのに、あとほんの僅かに力を入れればいい。
そうしたら──そうしたら、どうなる。
彼女は死ぬ。彼女は死ぬ。彼女は死ぬ。彼女は死ぬ。彼女は死ぬ。彼女は死ぬ。
あの笑顔も。豪胆さも。頼りになるところも。意外に女の子らしいところも。変に気遣いなところも。実は料理とかまったくやらないところも。──この、美しさも。
全て、全て、全て──彼女の全てが、失われる。
理性が麻痺する。本能が拒絶する。魂が嫌だと首を横に振る。
──けれど。
──愛だけが、それを肯定していた。
親指に力を込める。
スイッチを押すと、彼女に与えられたものは嘘のように、彼女の中にすんなりと入っていった。それに呼応するように、淡い光が、彼女の体から漏れ出して、それは俺の中に入ってくる。
……ああ。彼女は確かに、今までで一番残酷な魔女だった。
一歩だけ前に踏み出す。その魂に、しっかりと別れを告げる。
彼女の魔力が生み出した左腕で、彼女の魔力が埋めた心で、崩れていく彼女を抱き留めた。
彼女が。
この恋が。
俺たちの梅雨の物語が。
光となって、終わっていく。
残されたヒビ割れた白い短剣を、唯一形として残った彼女を。胸に抱えて、抱き締めて。
俺はただ膝をついて、滂沱の涙を流していた。
小早川さんは明日、魔女になる。 蒼川 小樽 @kkaris2
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