ねんねん橋

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ねんねん橋

 夜の河川敷は、川のせせらぎと虫の声だけが聞こえる。

 月の明かりが水面に反射し、川岸​​に立つ樹木や草が影を落とし、夜の風がそよそよと吹き抜けていた。

 風は涼しく、夜空から吹き抜ける香り豊かな季節の匂いを運び、肌に触れる空気の感触がとても心地良かった。

 時折、遠くから電車の走る音が聞こえてくるだけで、あたりはとても静かだった。

 そんな中、一人の少年がアウトドアチェアに腰掛けて、自然を満喫していた。

 身長は高い方ではないが、背筋はまっすぐに伸び、自然と優雅な立ち姿を演出している。

 髪は黒く、風になびく度に光を反射し、まるで星空を彷彿とさせる。肌は健康的で、日光を浴びたように明るい輝きを放っている。

 彼の一番の特徴はその眼差しだろう。

 眼は魂の鏡といわれるように、少年の眼はどこか遠くを見つめているかのようでありながら、同時に未来を見つめようとする意志の強さを感じさせた。

 容貌は端正で、瞳は深く澄んでおり、顔には優しさと純真さが宿っている。年齢とともに失われる幼い頃の純粋な心が残っているようだった。

 名前を一条いちじょう直人なおとと言った。

 夜は気温が下がることを考え、長袖シャツにタフな作りのダブルニーパンツ。上着には薄手のマウンテンパーカーを羽織っていた。

 直人の趣味は、ソロキャンプであった。

 今日のキャンプ場所は中心街から離れた河川敷で行っていた。

 違法ではない。

 国営河川公園や地方自治体等が公園等の目的で占用許可を受けている区域を除いた一般の河川敷では、河川の自由使用の原則に基づきキャンプは可能となっている。

 特に届出や許可を受ける必要もない。

 ただ、ゴミを捨てたり汚したりしないように最低限のマナーを守る必要がある。

 また、キャンプ場以外の場所でキャンプを行う場合は、焚き火など火気の使用を制限する場合があるので注意が必要だ。

 直人の側には焚き火台が置かれ、その上にはステンレス製のケルトが置かれている。中には水が満たされており沸騰するのを待っていた。

 時間を気にすることなく、ゆっくりとした時間を過ごしている。

 やがてケルトが沸騰したのか、ぼこぼこと音を立て始める。その音を合図にして、直人は立ち上がると、ケルトをキッチンテーブルに置く。

 それから直人は、嬉々とした様子でアウトドア用のコーヒーミルを取り出すと、慣れた手つきで豆を挽き始めた。

 手軽にコーヒーを楽しむならばインスタントも良いが、やはり豆をその場で挽いて楽しむのが一番美味しい。

 そしてなによりも、この時間が至福の時間でもあった。

 コーヒーミルで豆を挽いている間、辺り一面に香ばしい香りが漂う。

 それだけで、幸せな気分に浸れるのだから不思議だ。

 十分に豆を挽くと、ドリッパーにペーパーフィルターをセットし、上から適量の粉を入れる。そのままお湯を入れ、蒸らすために少し待つ。

 数分待ってから、再びお湯を注ぐ。今度は高い位置から細く、円を描くように湯を注ぎ込む。

 こうして淹れると雑味のないクリアな味わいになるのだ。

 と、本やネットで聞きかじった知識で淹れてみるが、本当かどうかは知らない。ただ単に、自分で飲む分ならこれで十分であり、ちょっとしたこだわりなのだ。

 出来上がったコーヒーをカップに注ぐと、一口含む。

 苦みの中に酸味があり、コクがある。一口飲んだだけでも、満足感を得られる美味しさだった。口の中に芳醇な香りが広がり、苦みと共にすっきりとした味わいが広がる。

 満足いく出来栄えであった。

 空を見れば、今日はあいにくの曇り空ではあったが、スマホで天気予報を確認する限りは雨は降らないとのことだ。

 星空を見られないのは少々残念ではあるが、星のない暗い空を見られるのもまた風情があって良いものだ。

 直人は、アウトドアチェアに座りながら、のんびり自然の奏でる音色に耳を傾ける。

 昼間の喧騒とは打って変わり、静寂に包まれる世界。

 そんな世界で一人きり、ゆったりと過ごす時間。それは贅沢な時間の過ごし方なのかもしれない。

 穏やかな時間が過ぎていく中で、ふと歌を聞いた気がした。

 耳を澄ますと、かすかに聞こえる歌声。

 その声は川のせせらぎに乗って聞こえてきた。

 直人は、まさかと思った。

 だが、耳を澄ませて声の方に意識を集中すると、どうやら歌っているようだ。

 誰が?

 気になった直人は、川土手を登り歌声のする方へ歩いて行った。

 しばらく歩くと、橋があった。

 常に車や人が往来するメインストリートとは違い、人通りは少ない場所であった。そのためか街灯も少なく薄暗い中、その橋は街灯に照らされていた。

 そして、その橋のたもとに人影が見えた。

(あれは……)

 そこにいたのは一人の女性だった。

 少女は欄干にもたれかかるようにして立っていた。彼女は歌を口ずさんでいた。

 街灯に照らされたその姿は、幻想的で美しかった。

 彼女の長く艶やかな髪が風に揺れ、時折見せる横顔からは憂いを帯びていた。そんな彼女を見ていると、どこか現実離れした美しさを感じた。

 悲しげで、それでいて恐ろしい。

 まるで絵画のような光景だ。

 歌っているのは、子守唄だ。

「ねんねんころり……ねんねんよ、ねんねんよ……」

 優しく語りかけるように歌う姿は、どことなく神秘的であり、思わず見とれてしまうほどだった。

 いや、見ほれてしまったからこそ、気づくことができなかったのかもしれない。

 彼女が不意に振り向いたことに。

 女と目が合う瞬間、時間が停止したかのような錯覚を覚えた。それほどまでに、目が合った瞬間に感じた衝撃は大きかったのだ。

 女の瞳はどこまでも深い闇のように黒く、深淵を思わせるものがあった。

 吸い込まれそうなその瞳を見た瞬間、直人は心臓を鷲掴みにされたような恐怖を感じ、背筋が凍ったかのように身体が硬直していた。

 女がこちらを認識したことを直人が確実に感じた次の瞬間、女の姿が消えた。

 いや、正確には見えなくなったという方が正しいだろう。

 瞬きをした一瞬の間に女は、直人の背後まで移動しており、耳元で囁いたのだ。

 甘い吐息が耳にかかるほどの距離で囁かれた言葉は、恐ろしく冷たいものだった。


 ──アナタハダレ? アタシトイッショニアソビマショウヨォ…………………………フフフフフ…………………


 女は直人の首に、そっと手を伸ばす。

 その手が触れる直前、直人は右手の親指と小指の先端を重ね、人差指、中指、薬指は立てたままにし、三鈷印を作る。

「オン バサラ ユタ」

 直人が真言を唱え終わると同時に、三鈷印から霊気が放たれると、女の足元の土が爆ぜた。

 女は突然のことに驚き、直人から距離を取る。

 まさか少年が術師であるとは思わなかったのだろう。


【密教呪術】

 仏教界は、原始仏教、小乗仏教、大乗仏教、密教へと進化したと考えられているが、この進化は同時に堕落と考えられてきた。

 なぜなら釈尊(お釈迦様)自身は、たてまえとして呪法を否定していた。ただし、護身のための呪術や、病気治癒・生活儀式としての呪法は認めていたらしい。

 釈迦の入滅後、九世紀ごろには、密教はアジアに広まりそれは唐(現在の中国)にも伝えられていた。

 この密教を求めて遣唐使の一員として渡ったのが、空海や最澄といった入唐八家と呼ばれる8人の僧だ。

 空海は、唐で真言宗第七祖の恵果和尚から秘伝を授かって第八祖となり帰国。密教に、日本独自の呪術までも取り込み呪術を集大成、再編成をする。

 印と真言による呪法だ。

 印は印契のことで、本来は仏や菩薩の本性を示す形のこと。手指の形、組み合わせをいうようになった。

 両手の10指でありとあらゆる意義を表し、10指の屈伸で地震や洪水などの天変地異から人事の礼節、送迎の境界までも結び現し、自身をその境界の中に入り込む。

 真言は、呪句・呪文のことで、マントラとも呼ばれる。元々はバラモン教で祭儀の時に用いられた呪句。その多くは、宇宙や自己の体内に眠る不思議な力を呼び出す秘密の暗号となっている。

 

 直人は、その密教呪術の『金剛頂経』を唱えることで、霊力を呼び起こし、女を威嚇したのだ。

 霊気を撃ち込むことは十分可能であった。

 だが、直人がそれをしなかったのは、女が歌っていた子守唄の優しさを感じた故かもしれない。それがなぜかは分からないが、攻撃することを躊躇わせたのだった。

「なぜ僕を襲うのです?」

 直人が問うと、女は両手で顔を覆って泣き崩れた。

 女は生者ではない。

 死者特有の腐敗臭を感じるからだ。

「あなた様は、お坊様なのですか? どうか私の話をお聞きください」

 涙ながら訴える女に、直人は警戒しながらも話を聞くことにした。

「実は私は、子供と共に、この川で心中をいたしました。ですが、死にきれずこうして留まっております」

 女は自らの身の上について語り始めた。

 生前、彼女は裕福な家庭の娘であったが、家が没落すると嫁ぎ先を転々とした末に困窮した生活を送ることになった。

 それでも女は一人の男性と出会い、小さな家庭を築こうとした矢先に夫が病に倒れたのだ。

 そんな夫を看病するうちに夫の病状が悪化していく中で、夫は彼女に看取られつつ息を引き取ったという。

 しかし、悲しみに打ちひしがれる彼女に追い打ちをかけるように不幸が続くことになる。

 夫が亡くなると同時に、莫大な借金が発覚したのだ。

 そして、彼女の実家もそれに連座する形で没落してしまった。

 彼女には家族がいるものの、幼い子供たちを抱えての生活は非常に厳しいものになったという。

 そしてついに、彼女は自ら命と子を絶つ決意をしたそうだ。

「私は、あの世にも行くことができず、この世でも居場所がないのです……。私は、会いたいんです。子供に……もう一度だけ……だから……」

 彼女の悲痛の叫びを聞いたとき、直人はなんとも言えない気持ちになった。

 直人の心の中には哀れみと同情があった。

 そして彼女の願いを聞き届けてあげたいと思った。

「あの子守唄は、子供に再会したいという思いを込めて作ったものです……せめて、夢の中だけでもいいから……」

 女の悲痛な叫びは直人の心を打った。

「では、どうして僕を襲ったんですか?」

 直人の問いに女は答えた。

 女には未練があり、あの世に行くためには他者の魂に連れ添うことだと考えたからだという。

 人を不幸にし、死に至らしめればその者は、あの世へと旅立つ。

 女は、それに追従する形で、あの世に居る子供の魂との再会を望んだのだという。

「そんなやり方で、子供と再会して嬉しいのですか? 誰かを不幸にしてまで……」

 女の主張に、直人は寂しそうに諭す。

「……申し訳、ありません……」

 女は泣きながら謝罪の言葉を述べた。

 直人は、女を責めたところで何にもならないことは分かっていたが、言わずにはいられなかったのだ。

 女の話を聞けば聞くほど、彼女を救いたいという気持ちが湧いてくるのを感じた。

おそらくそれは、亡くなった子供への思いから来るものなのであろう。

(この人はきっと寂しかったんだ。ずっと一人で、孤独に耐えていたんだろう)

 直人は、そう感じたからこそ、なんとか救ってあげるべきだと感じていたのだ。

 彼は数珠を取り出すと、両手の指を中指だけを立てたまま他の指を組み地蔵菩薩印を組むと真言を唱え始める。

「オン カカカ ビサンマエイ ソワカ」

 真言は一度ではない、何度も唱えることによって効果が増すといわれている。

 地蔵菩薩は大地のように広大な慈悲で生あるものすべてをすくうという菩薩。この真言を唱え終えることで、死者すらも救済できるはずだと信じ、一心不乱に真言を唱えた。

 女は跪き、涙を流しながら真言を唱え続ける少年を見つめていた。

 どれほどの時間が経過したのだろうか……。

 直人の地蔵菩薩真言が唱えられる中、女の身体が徐々に光を纏い始めていた。

 やがて光は、身体全体を覆い尽くすほどに輝きを増し女の身体が導かれるように浮き上がっていた。

 その光は次第に強さを増していき、辺り一面を照らし出すほどの眩さを放ち始めていく。

「これは……」

 女が驚くなか、直人は告げる。

「地蔵菩薩の力を借りて、あなたを子供の元に送ります」

 その言葉と同時に光がさらに強くなっていく。

 光の奔流の中で女が叫んだ。


 ──ありがとうございます。お坊様……。


 その言葉を最後に、女は光の中へと消えていった。

 その瞬間、強い風が吹いた。

 直人は、あまりの強風に目をつぶってしまう。しばらくして目を開けるとそこには誰もいなかった。

 そこには何事も無かったかのように、静かな川辺が広がっているだけだった。

「ねんねん橋か」

 直人は、ふと空を見上げると月が見えた。


【ねんねん橋】

 東京K区のS町に近い、何の変哲もない街角。

 雨が降りそうな夕方や夜に限ってかなしくも恐ろしい女の人の声で子守唄が聞こえるという。

 もともと、ここは川だった場所で、そこにかかった橋から女が飛び込んで亡くなった怪事件が伝えられている。なぜだが理由は明らかにされていないが、女は愛する我が子と共に入水したらしい。

 以来、この橋を「ねんねん橋」と呼ぶようになり、付近の住宅では雨の夜に窓をピシャピシャ叩く不気味な音がすることがあるそうだ。


「今日は綺麗な満月だな」

 直人は呟く。

 いつの間にか雲が晴れ、月明かりに照らされた川のせせらぎだけが辺りに響いている。

 今宵もまた、どこかで誰かが悲しんでいるのだろうか?

 それとも、幸せを感じているのだろうか?

 そんな思いを胸に抱きつつ、直人は帰路につくのだった。

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ねんねん橋 kou @ms06fz0080

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