【1】


 力天使ナサニエルが住まう小屋の中。手狭ではあるが、小ぎれいに整えられている。

 その中に足を踏み入れて、ハヨットはテーブルの上に水の湛えられた大理石の盆が置いてあるのに気がついた。〝天使の鏡〟と呼ばれる、天使たちが人間界の様子を見るために使う道具だ。

「わわっ、ナサニエル様、お仕事中でしたか? すみません……」

「ああ、大丈夫。ちょうど一段落したところだったから」

 ナサニエルはそう言って天使の鏡を持ち上げると、中の水を流しに捨てた。そしてそのまま戸棚からケトルを取り出し、背中越しにハヨットに話しかける。

「ハヨット、私が湯を沸かしている間に庭でハーブを摘んできてくれないかな。今日は摘みたてのハーブティにしよう。種類は任せるよ。君のブレンドの方が、私のよりもずっと美味しい」

「えっ、本当ですか? えへへ、嬉しいな。じゃあ、行ってきます!」

 はにかんだ声と、戸の閉まる音。それを背中で聞きながら、ナサニエルは水瓶から水をすくってケトルに入れ、火にかけた。背の高い細身の天使は、柔らかい微笑みを浮かべたまま、テーブルの上をのんびりと片付けていく。

 その中でナサニエルはふと、窓越しに空を見上げた。


 ナサニエルの目に映ったのは、彼の目と同じ清い青色ではなく禍々しい赤色。ナサニエルは目を見開いた。庭の方からハヨットの唸り声が聞こえる。ナサニエルは小屋の戸から飛び出した。




 赤い空と黒い雲。その下でハヨットは体勢を低く構え、一点を見据え唸り声を上げていた。その視線の先には、宙に浮く黒い塊・・・

 ぽっかりと深い穴のいたがごとき、あらゆる光を吸い込むような黒。その黒い色が、縦長の楕円状にモヤモヤと固まっていた。その身の丈は、ナサニエルなど天使たちとほとんど同じくらいの高さ。

 その黒い塊を前にして、ハヨットは鋭く叫ぶ。

「何しに来た、ここは通さないぞ! 悪魔め……!」

「ククク……お前に用はないんだ、小僧っ子。俺が用があるのは……、そこの優男さ」

 黒い塊の中から牙の生えた口が浮き出て、ざらつく声を発した。その言葉にハヨットはバッと振り返る。そこにはナサニエルが一人、途方に暮れたように立ち尽くしていた。

「ナサニエル様、来ちゃダメだ!」

 叫ぶハヨットを悪魔の声が嘲笑う。

「相変わらず元気の良い小僧っ子だ。まったくもって不快だよ。……さぁ優男。ナサニエル。俺の元に来るが良い」

 芝居掛かった声。それと共に、黒い塊から同じく黒い腕がぬるりと生え出る。かと思うと、次の瞬間にはその腕がまるで蛇のように鎌首をもたげてしなり、ナサニエルへと襲い掛かった。


「させるか!」

 鋭く叫び、ハヨットは地面を蹴って跳び上がった。牙を突き立て、悪魔の腕に噛みつく。その口に、先ほど摘んだばかりのローズマリーを忍ばせて。

「グ……ッ!」

 ぶつ、という鈍い音と共に、悪魔の腕がいとも簡単に千切れる。その断面から黒い血がほとばしり、ハヨットの服と毛並みをけがした。

「チッ、魔除けのハーブか。余計な知恵を働かせるようになりやがって……」

「出てけ! ナサニエル様の庭から出てけ、悪魔!」

 ハヨットは言いながら再び身構える。悪魔は千切れた腕をスルスルと塊の中に取り込んだ。その口が憤怒とも嘲笑ともつかない形に歪む。

「出てけと言われて出てくのは癪だがな。かと言って、こんなことで俺の体に痕を残したくはねぇんだ。……その魔除けに感謝するんだな。ま、同じてつはもう踏まねぇが」

 そう言い捨てると、悪魔は耳をつんざくような不快な高笑いを残して、跡形もなく消えた。それと同時に、空の色が元に戻る。


「ハヨット……」

 ナサニエルは未だ構えの姿勢を崩さないハヨットに駆け寄ると、ひざまずいて、彼の顔についた悪魔の血を自身の白い服で拭った。

「ナ、ナサニエル様、そんなこと……!」

 目を丸くしその場から離れようとするハヨットをとどめ、ナサニエルは獣人の少年のその瞳を真っ直ぐに見つめた。

「ハヨット、すまない。また、こんな……」

「良いんです、ナサニエル様。あいつがナサニエル様を狙う以上、僕は何度だって追い返してやります! ……あっ」

 ハヨットは突然、ハッとした顔をした。ナサニエルはその視線の先を振り向く。ハヨットの声が、呆然とつぶやいた。

「ミカエル……様……」


 そこには、大天使長ミカエルが従者の智天使と座天使を従えて立っていた。三対の翼が燦然と輝き、優雅に結い上げられた金の髪がそれを受け、その姿は光に包まれているように見える。

 ミカエルはハヨットにチラと目を向けたが、そのまま何も言わずナサニエルに視線を移した。

 大天使長ミカエルの無言の眼差しを受けて、ナサニエルは彼の方に体を向ける。

 その途端、智天使と座天使から鋭い声が飛んだ。

「力天使ナサニエル、今一度ひざまずくことを命じる」

「その獣人の少年に向けていたのと同じものを、ミカエル様に向けるとは何事か」

「……申し訳ございません」


 ナサニエルが立ち上がり、もう一度ミカエルの方にひざまずくと、ミカエルは厳しい表情で口を開いた。

「ナサニエル。奴が現れたら即座に私に報告するよう、言ってあったはずですが」

「申し訳ございません、ミカエル様」

「おのれ、力天使ごときが、大天使長ミカエル様の命に背くとはどういう了見か」

「しかも、その反省の色のない口先だけの謝罪。これを不遜と言わずして何と言う」

 息巻く智天使と座天使を、ミカエルは片手を挙げて制した。

「やめなさい。あなたたちは良いのです。彼をはじめとする力天使は、熾天使である私の指導下にありますゆえ。それに今回、実害はなかったようですから。……奴を取り逃しはしましたが」

「す、すみません……」

 ハヨットがうつむき、もごもごとつぶやく。ミカエルはそれにまったく反応を示さず、ナサニエルに向かって続けた。

「次は――無論、もうこのようなことがないことを願いますが――、真っ先に私に報告するように。頼みましたよ、〝赦しの天使〟ナサニエル」

 そう言い残すとミカエルは、ナサニエルの返事も待たずに、三対の翼を羽ばたかせ飛び立って行った。その後を智天使と座天使が、どこか不服そうなしかめ面をしながら飛び去る。

 後には、立ち尽くすハヨットと、誰もいない空間にひざまずくナサニエルだけが残された。


「……ハヨット、今日はもうお帰り。庭の浄化は私一人でもできるから」

 ナサニエルはハヨットの方を振り向かないまま、ぽつりと静かにそう言う。

「でも、ナサニエル様……!」

 そう言いかけて、ハヨットは辺りを見回した。

 いつの間にか集まっていた天使たちが遠巻きに、こわばった表情でこちらを見ている。その声がヒソヒソと言い合っていた。

「ねぇ、見た? ナサニエル様、また……」

「今回も、あの獣人の子がそばにいたのね」

 ハヨットの立ち耳にそれらの声が届き、彼はその耳をシュンと倒した。

(今僕がここにいても、ナサニエル様にとって、何にも良いことはない……)

「……はい、分かりました」

 ハヨットは耳を倒したまま、とぼとぼと森の方へ帰って行った。

 雲を踏むきゅっきゅっという足音が遠ざかる。その足音が小さく小さくなってからようやく、ナサニエルは立ち上がって彼の方を振り返る。

 遠目にも分かるハヨットのうなだれて丸まった背中を見つめ、ナサニエルは弱々しい声でつぶやいた。

「すまない、ハヨット……」


 ハヨットの姿がすっかり見えなくなった後。ナサニエルは、庭にこぼれた黒い血痕の上に手をかざした。キラキラとした白い光が、黒く染まった庭の土の上に降り注ぐ。するとその光の当たったところから、黒い染みは次第に薄れていった。ナサニエルは誰ともなしにつぶやく。

「私の力ではここまでが限界か。……しばらくハーブは育たないな」

 そんなナサニエルの様子を遠くで天使たちが見つめていた。そしてまた交わされるヒソヒソ話。

「あれが、ナサニエル様の力?」

「でもナサニエル様は、もう……」

 天使たちの視線が、言葉が、突き刺さる。ナサニエルは黙って小屋の中へ入った。




(〝赦しの天使〟、か……)

 ナサニエルは小屋のカーテンをすべて閉め切った。薄暗い小屋の中で、天使の鏡をテーブルの上に置く。そして聖水のボトルのふたを開け、白い大理石の盆に静かに注いだ。

 揺らぐ水面に人々の顔が映し出された。その口はみな何かをつぶやき、その目はみな涙を流す。流した涙は、映し出されているものであるにも関わらず、天使の鏡の水面に波紋を作った。

 それを前に、ナサニエルは目をつむった。

「ナ……エル様……」

「お赦し……さい……」

「ああ、どうか、どうか……」

(私の名を呼ぶ声が聞こえる。私に〝赦し〟を乞う人々の声が。しかし、私は、私は……)


 ナサニエルは力なく首を横に振り、天使の鏡を持ち上げると中の水を捨てた。

 力天使の口から漏れた溜め息は、彼の体をつたって薄暗い小屋の床に溜まっていくようだった。ナサニエルは手の平を開く。そこから白い光がこぼれる。また溜め息が一つ、床の上におりかさなる。

(これが〝赦し〟? 私の手から発せられる、この光が? こんなもので人は赦されるのか?)

 ナサニエルは、天使の鏡を戸棚の中へと片付ける。

(私は知っている。私は気づいてしまった。この力が気休めでしかないことを。そして私は、真の意味での〝赦し〟を与えられる存在などではないことを)

 白い大理石の盆は、戸棚の奥深くへとしまわれる。

(主よ、父よ。あなたは何のために、この私を創りたもうた? 何のために、未だこの私を生かしたもう……?)

 戸棚を閉める。バタンと音をたてて。それでもナサニエルの耳から、大理石の盆、天使の鏡、そこに浮かぶ水の波紋と共に発せられた人々の声の残響が、消えることはない。

『ナサニエル様、お赦しください。ああ、どうか、どうか……』

「……無理ですよ。私は、あなた方には、何も……」

 その天使の声は力なく。閉め切った薄暗い小屋の中だけで、ただ響いた。






 天界の中央部、いと高き白雲の塔。そこの執務室の扉が叩かれる。ミカエルは書類から目も上げずに「どうぞ」とだけつぶやいた。誰が訪れてきたのか、ミカエルにはもう察しがついていた。足音が二つ、執務室の中に入ってくる。

「ミカエル様、あの力天使への処遇についてですが……」

 かけられた声にミカエルは顔を上げた。そこにいたのはやはり、智天使と座天使だった。

「あの者について抗議をしに来たのですか?」

 己の口から出たのは存外きつい声だった。ミカエルはいったん目をつむり、軽く息を吐く。そして再び二人の天使の方を見て、なるべく穏やかな声を出すようにと努めた。

「あの者自身に、非はないのです。あれは極めて稀な例ですので、私も慎重にならざるを得ません」

 智天使と座天使は首を横に振り、食い下がった。

「しかし、あの者がいると、あの者を誘惑しようと天界に悪魔が入ってきます」

「天界への悪魔の侵入は、これでもう何度目になりましょうや」

「それに、悪魔があの者のみならず、他の天使も誘惑するという可能性も否定できません」

「しかも第一、あの者と共にいる獣人の少年は、本来ならば、天界に入ることを認められていない存在です」

「このままあの者を放っておけば、あの者のせいで、天界の規律が乱れてしまいます」

「あの者を切り捨てることも、お考えになった方が良いのではないでしょうか? つまり、あの者の――」


 その言葉の先を言わせないうちに、ミカエルは口を開いた。

「あなた方の心配ももっともです。ですが、何度も言ったように、あの者は私の指導下にあります。あの者に対しては、私が一切の権限と責任を持ちます。口出しは認めません」

 そして言葉の最後にこう付け加えた。

「これは厳命です」

 切り裂くような鋭さ。凍てつくような温度。

 言い放ったミカエルを前に、智天使と座天使は口をつぐんだ。彼らは黙ったまま一礼をして、執務室を後にした。


 二人が出て行った後でミカエルは、いつのまにか自分が椅子から立ち上がっていたことに気がついた。長い息をつきながら、大天使長は椅子に掛けなおす。

「……すみません、二人とも」

 ミカエルが言い放った時の彼らの、飼い主にぶたれた忠犬のような顔。その顔が、目に焼き付いて離れない。

「ですが、やはり……」


 堕天。


 智天使と座天使が言わんとしていたことは、分かっていた。そしてそれは、ミカエルがもっとも望まないもの。

「仕事に私情を挟んではいけないというのは、分かっているのですけどね……」

 ミカエルは独り言ち、自嘲気味に笑った。


(ナサニエル。私の指導する力天使の中の、古株にして、もっとも慈悲深い者。『良い部下を持った』と、他の同僚の天使たちからもよく言われたものです)

 ミカエルは机の上、ペンスタンドに挿さった白い大ぶりの羽ペンをそっとその手に持った。

(その後、天界で謀反が起こり、その影響で智天使と座天使、彼らが私の直属の部下として就いてからは、すっかり疎遠になってしまいましたが。そしてその末の、あの決定的な事件……)

 記録簿の頁をめくらなくてもありありとまぶたの裏に思い起こせる、思い出したくもない出来事。

 ミカエルはそれを一旦振り払うように首を横に振る。そうして、手にしたペンを机の上に寝かせ置き、また何度目かも分からない溜め息をついた。

(しかし、彼をあのままにしておくわけにもいきませんね。他の者に示しがつきませんから。……せめて彼が、もう一度〝赦しの天使〟としての職務を行えるようになれば、彼への対応を変えてゆくことも可能になる。ですが、片方の翼しかなく、人間界に降りて仕事ができない以上、とてもではありませんが……)

 憂悶のミカエル。その視線の先、置かれた羽ペンが、ただ黙って・・・そこにあった。



*  *  *



 〝赦しの天使〟ナサニエル。その彼が天界の力天使の領域から、ここ天界の片隅へとやって来た。その日から天使たちは口々に、彼のことを噂し始めた。

「なぜ力天使様がこんな天界の片隅にいるの?」

「どうして翼が片方しかないんだ?」

「いつも一緒にいるあの獣人の子は誰?」

 やがて好奇の目は猜疑の目に変わり。

「あの翼って、何かの罰を受けた痕なのかしら?」

「天使様もあの獣人の子も、私たちと関わろうともしないわ」

「何かやましいことでもあるんじゃないか?」

 興味は恐怖へと変わる。

「あの力天使様、悪魔に付け狙われているんだそうだ」

「まさか、スパイとかなんじゃないの?」

「あの獣人の子だって、何者かも知れないわ……」


 しかしナサニエルは沈黙を貫いた。彼は咎めもしなければ否定もしない。何一つ、自分のことを語ろうとはしなかった。ナサニエルという力天使は、いつも静かにどこか悲しげに、微笑んでいた。

 これがさらに天使たちを動揺させた。彼は特に何をしているわけでもなく、表立っての抗議もできない。見る限り、大天使長ミカエルの目も行き届いてはいるようだ。

 天使たちだってどうしたら良いのか分からない。片翼を失った天使を。天界の片隅へ追いやられた天使を。仲間の誰とも打ち解けない孤独な天使を。

 彼自身が、自分をどうしたら良いのか分からないのと同様に。


(――すべてを赦す私のすべてが、私のすべてを赦さない――)



*  *  *


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