【2】
悪魔がナサニエルの庭を襲った、明くる日の夕方。この日もハヨットは昼間にナサニエルの元を訪れて、夕暮れ時に差し掛かって帰路についたのである。〝いつも通り〟を過ごしたい。そんな気持ちの表れでもあった。
天界と地上を繋ぐ〝境の森〟を歩いて帰るハヨット。足裏の肉球で感じる感触が、ふわふわとした軽い雲から、ずしりと湿って重たい土に変わっていく。
ハヨットの脳裏にふと、ナサニエルの浮かない顔がよぎった。
(ナサニエル様には、僕に言えない悩みがある……)
『……ハヨット、〝赦し〟とは何だと思う……?』
テーブルの向かいに座ったハヨットを前に、ナサニエルはそうつぶやいた。ハヨットはえっ、とナサニエルの顔を振り仰ぐ。天使ナサニエルの青い瞳には、憂いの影が差していた。
その後ハヨットが、どうしたのか、何があったのかといくら訊いても、ナサニエルは首を横に振るだけだった。そして少し笑って、こう言う。
『いいや、すまない。何でも、何でもないんだ』
そのことを思い出して、ハヨットの耳としっぽがまたしょんぼりと垂れ下がった。
(僕が何か、力になってあげられれば良いんだけど……)
そこでふと立ち止まり、夕焼けに染まった道を振り返ってハヨットは思う。
(今日はもしかして、帰らないでずっと一緒にいてあげた方が良かったのかな。……僕がそう言っても、きっとナサニエル様は『もう帰りなさい』って言うんだろうけど……)
翌朝。ハヨットはいつもより早く目が覚めた。なぜだか全身がざわつく。ハヨットはねぐらにしている木のうろから飛び出した。
〝境の森〟の空が赤い。それを見た瞬間、ハヨットの顔はそれと対照的に青ざめた。
(あいつが来たんだ。ナサニエル様が、危ない!)
ハヨットは森の抜け道までたどり着き、脇目もふらず駆けてきたその足を止めた。目の前に、黒い塊が浮いている。ハヨットは牙をむき出し、唸り声を上げた。
クツクツと馬鹿にしきった笑い声が、赤く染まった森に反響してハヨットを囲い、取り巻く。黒い塊から口が浮き出て、ニイッと横に裂けた。
「どうどう、そう怒るなって小僧っ子。……第一、唸りてぇのはこっちの方だ」
黒い塊の中から、途中からぷっつりと千切れた腕ともう一方の手が現れ、千切れた腕をこれ見よがしにさすった。
「おぉおぉ、まぁだ復活してこねぇや。こりゃあ傷痕が残ること請け合いだな。お前には責任取ってもらわないとなぁ。ヘッ、飼い犬に手を噛まれるとは、正にこのことだってか?」
「飼い犬……?」
悪魔の言葉にハヨットは眉をひそめる。
「おっ、覚えてねぇのか? ……ま、それも当然だよなぁ」
紙にこぼした黒いインキが染みていくように、黒い塊が広がり、森を、ハヨットを包み込む。
闇の中、ハヨットの耳に声が聞こえた。いや、これは、ハヨットの心の中に響いた声なのかもしれない。
「かつてお前は、俺の物だった……」
* * *
宙に浮いているような感覚。それをハヨットは、感じるともなく感じていた。自分はそこにいるのに、そこにいないような、不思議な感覚。
黒い大きな獣が見える。闇の中、その闇と同じくらい黒いのに、その姿ははっきりとハヨットの目に映った。獣は、何かに向かって無我夢中で走っている。
闇の中に響く、一つの声。
「あいつを殺せ あいつを殺せ あいつを殺せ あいつを殺せ あいつを殺せ」
走る。足にまとわりつく雲を跳ね飛ばして。
走る。叫び声を上げる天使共を蹴散らして。
背の高い姿が見える。真っ直ぐな長い金髪。純白の一対の翼。その人影が振り向きかけた時に見えたその目は、清い青色だった。
獣が躍りかかる。闇の中で白く輝く翼に、噛みつき、しがみつき、爪を立て、深くくわえ、頭を振って、めちゃくちゃに。
ボキッ、と鈍い音がした。血の味が口いっぱいに広がる。
どこかから叫び声が聞こえた。どこからかと思ったら、それは、自分自身からだった。
* * *
ハヨットは我に返った。喉が痛い。口の中は血の味がする。それはたった今見せられた夢の中で絶叫したせいなのか、それとも……。
悪魔は元の大きさ、宙にぽっかりと浮かぶ黒い塊に戻っていた。
ハヨットは涙の浮かんだ目で悪魔を睨みつけ、ヒリヒリと痛む喉から声を絞り出す。
「あんなの……僕じゃない……」
「まぁ、信じたくはねぇだろうな。分かるよ、分かる。……ところがどっこい」
悪魔は、その黒い塊は、すうっとハヨットの元に近付いて耳元で囁いた。
「……本当さ」
「う……嘘だ!」
腕を振って悪魔を
「本当はお前も分かってんだろ?」
「違う! 違う……!」
耳を押さえ、頭を激しく横に振る。それでもなお、悪魔の声はハヨットの耳に、心に、流れ込んでくる。
「お前がやったんだ。……お前が、ナサニエルの翼を折った」
ボキッ、と鈍い音がした。
その音は、あの夢の記憶の再生なのか、今この時に何かが折れた音なのか。
「う、あぁ……、うわあああああぁぁぁぁぁっっ!」
その場に崩れ落ち泣き叫ぶハヨット。悪魔は腕を伸ばしその頭を抱きかかえ、猫なで声を上げて撫でまわした。ざらついた手と、ぬめる腕の不規則な断面。ハヨットの顔が、黒い血で汚れていく。
「ああ~、お利口ちゃんでちゅねぇ、よちよちぃ~。ちゃあんと、自分のやったことがわかりまちたねぇ~。えらいえらい!」
悪魔は千切れた腕をハヨットの顎にかけると、グンと力任せに、天界への道の方を向かせた。そしてその方向に向かって、もう一方の手を突き出す。
「ほぅら、おりこうちゃんへのご褒美だ! 泣いて喜べよ!」
悪魔の指が軽快にパチンと鳴る。
すると、何もなかったはずの空間から岩が落ちてきて、地響きを上げて通り道をふさいだ。もうもうと上がる砂けむりから垣間見えるその岩は、悪魔の意地の悪さを体現したかのように巨大だった。
ハヨットは言葉を失った。もはや唸り声も、涙さえも出ない。
悪魔は耳をつんざくような不快な高笑いを残して、跡形もなく消えた。それと同時に、空の色が元に戻る。
後には、地面にうずくまるハヨットだけが取り残された。
ナサニエルは庭先に出て、〝境の森〟の方を眺めていた。
(今日は来ないな。昨日、そっけなくしすぎただろうか)
ナサニエルの足元には、彼の予想通りすべて無残にも枯れ果ててしまったハーブ。
突如、空が赤く染まった。ナサニエルは庭の出入り口に目を向ける。そこには悪魔がいた。悪魔はニヤリとその口に笑みを浮かべた。
「教えてきてやったぜ。あいつに、真実をさ……」
「何て残酷なことを……」
悲しげに首を振るナサニエルを、悪魔は嘲笑った。
「ヘッ。どっちが残酷かよ。これが残酷ってなら、初めっからそうしなければ良かったじゃねぇか。え?」
悪魔はナサニエルの元に近寄り、言葉を続ける。
「お前はあいつを救ったつもりみたいだがな、果たしてそれは、どうだったのかな……?」
ナサニエルは悪魔から目を背け、〝境の森〟を見つめた。その口が苦しげに言葉を綴る。
「……私が、赦しても……。彼が、彼自身の存在を自分に赦さない限りは……。彼は、永久に赦されない」
* * *
大きな黒い獣が天界に侵入し、力天使の領域で〝赦しの天使〟ナサニエルを襲った。一瞬の出来事だった。
ナサニエルが獣を振り払う。獣は雲の上に転がった。
「あーあー。一発で仕留めろって言ったじゃねぇか」
そのざらつく声と共に空が赤く染まった。かと思うと突如、黒い稲妻が獣を打った。キャンと悲鳴を上げて獣の体が大きく跳ねる。獣は四肢を投げ出し横たわったまま起き上がることもできずに、クンクンと弱々しい鳴き声をあげた。その視線の先には、主人たる黒い塊の姿。
「ったく、使えねぇワンころだな、テメェは」
黒い塊から手が出てくる。その手の中では黒い火花が爆ぜていた。獣はそれをただただ悲しげな瞳で見つめた。
「あばよ、役立たず!」
悪魔の手から稲妻が走る。
それとまったく同時だった。ナサニエルが飛び出し、その翼で、横たわった獣の体を覆ったのが。
バチッ。鋭い音が鳴る。放たれた稲妻は天使の翼に当たり、獣までは届かなかった。
「……何すんだ、天使サンよぉ。俺は、アンタを襲った奴を始末してあげようとしてるんだぜ?」
おどけたその口調とは裏腹に、目の前の黒い塊から発せられるただならぬ雰囲気。それをものともせずに、ナサニエルは獣の横に座ったまま、悪魔をまっすぐに見据えた。
「なぜ、関係のない者まで巻き込むのですか、あなたは」
静かにそう言うと、ナサニエルは根元から折れた翼を最後自らの手でもぎ、獣の体に被せた。ひざまずき、獣と翼の上に手をかざす。その手から白い光がこぼれた。
「……汝の罪、この力天使ナサニエルにより、赦されん」
まばゆい光が獣とナサニエルの翼を包む。その光が消えた時、そこには一人の獣人の少年が横たわっていた。
へぇ、と悪魔は感心したような声を上げた。
「お優しいこってすねぇ。自分を襲った獣を助けようってか? さぁっすが、
「悪魔が来たというのは、ここか!」
「ええい悪魔め、こんなところにまで入ってきおって!」
「よくもおめおめと、この天界に再びその姿を見せられたものですね。お前のことは、この私ミカエルが直々に討ち滅ぼしてやります!」
遠くの方から羽ばたきの音と勇ましい声が聞こえてきた。悪魔はやれやれと溜め息をつく。
「おーお、噂をすればなんとやら……。耳ざとい連中だよ、まったく。……お前、面白い奴だな。俺は、お前を殺すのがつくづく惜しくなってきたぜ。
悪魔は耳をつんざくような不快な高笑いを残して、跡形もなく消えた。ミカエルたちがその場に着いたのは、空の色が元に戻ってからだった。
「く……、悪魔め!」
「逃げ出すとは、卑怯な奴!」
息巻く智天使と座天使。その一方でミカエルは、雲の上に力なく座り込んでいる者が誰なのかに気がつくと、すぐさま駆け寄ってきた。
「ナサニエル、あなたでしたか! 無事でしたか? 怪我は? ……その少年は、一体……?」
ナサニエルはじっと少年の顔を見つめていた。少年が目を開き、その瞳が、ナサニエルの瞳と合う。ナサニエルは口を開いた。
「……ハヨット。これから、君が生きる名だ」
* * *
悪魔はナサニエルの周りをゆっくりと漂いながら、クツクツと笑い声をもらした。
「あいつを救ったその後、お前は色んな理由を付けられ、この天界の片隅に追いやられた。……まぁその最大の理由は、コレだろうけどな」
悪魔が片手でグイと、ナサニエルの残った翼を掴む。
「翼の一つでは空も飛べまい。この
冷たい地の底から響いてくる、竜の唸りのような声。今までの人を小馬鹿にしたような声色とは明らかに違う。辺りの気温がスッと下がるのをナサニエルは感じた。
悪魔はナサニエルの翼を強く引いた。ナサニエルは抵抗せず、悪魔について行く。
悪魔は庭を出て、ナサニエルを天界の雲の端に立たせた。
そこにぽっかりと
「今のお前を、この天界から突き落としたら、どうなるかな?」
ナサニエルの翼から手を放して、悪魔はクツクツと笑った。
そのまま底なしの青に悪魔は向かった。白い雲のない青い宙に出た途端、悪魔の姿が黒い塊から人型へと変わる。
滑らかな黒い肌に均整の取れた体。その背に生えるは三対のコウモリの翼。端正な顔を縁取るのは、風もないのになびく長い銀色の髪。……片方の腕だけが、途中でぶっつりと千切れ、不自然なほどまでに黒い色味をしたまま、首のない蛇のようにだらりと垂れていた。
「それとも……」
赤と青の狭間に浮かんで、悪魔はこちらを振り向き酷薄な笑みを浮かべた。手を伸ばしてナサニエルの翼を掴み、自分の元に引き寄せる。ナサニエルの体が傾き、宙の上に乗り出した。悪魔はその耳に口を寄せ、囁く。
「俺と一緒に来るか?」
ナサニエルは目の端で悪魔を捉えようとした。
「あなたはなぜ、私をあなたの元へ引き込みたがるのですか? なぜ、今のあなたの地位よりも、ましてや、かつてのあなたの地位よりも低い、ただの力天使を……」
「逆に考えてみろよ。何でお前は、まだこの天界にいるんだ?」
ナサニエルの表情が、ピクリとかすかに動いた。
「お前も薄々、感づいてるだろ? お前がもう、この天界で必要とされていないことに。今だって、周りの奴らはお前のことをこう言っている。役立たずの天使、天使の面汚しってな」
悪魔はさらに畳みかけた。
「こんな天界にいたって、良いことなんざ一つもない。上からは見捨てられ、下からはコケにされる。そんなのお前、憎いだろ? ……いや、そんなのお前、辛いだろう……?」
「私は……、〝赦しの天使〟だから……」
ナサニエルは声を絞り出した。心を平静に保とうと努めるが、ナサニエルがそうしようとすればするほど、心臓はせわしなく早鐘を打ち鳴らす。
「甘ったれたこと言ってんじゃねぇ!」
悪魔の
「そんなの、お前を苦しめるだけだろ? 良いじゃないか。〝赦せ〟ば良い。そんな、他人を憎むお前自身をさ……」
悪魔はナサニエルの瞳を覗き込んだ。
「来いよ、地獄へ。俺の元へ。みんなお前を歓迎するぞ。それに、地獄にいる奴らにこそ赦しが必要だとは思わないか? なぁ、ナサニエル。地獄にはお前が、必要なんだよ……」
ナサニエルは苦悶の表情を浮かべ、首を横に振った。
「だめだ……。ハヨット……、彼を残しては、行けない……」
ナサニエルの口からその言葉、その名を聞いた途端、悪魔の瞳が凍りついた。
「………。それは、ただのお前の自己満足に過ぎないものだな」
ナサニエルは目を見開いた。悪魔はその奥底を、絶対零度の眼差しで射抜く。
「自分が何も赦せないし、何も救えないことを、知っているくせに。大した自己欺瞞の塊だよお前は」
ナサニエルは己の目を悪魔の瞳から逸らそうとした。しかし悪魔の瞳の奥に横たわる、光さえも飲み込まれ消えていくような、抗いがたい闇に囚われ、それはかなわない。
「お前はあいつを知恵ある者の姿に変えたが、あいつはあのまま、無知な獣、〝赦し〟の意味も赦されないという事実も知らない獣のまま、死んでいった方が幸せだったんじゃないのか?」
ナサニエルの首筋を、冷たい汗が伝う。
「お前はあいつを利用している。お前はあいつにすがっている。それだけ。それだけだ。お前は何も赦せていないし、何も救えていない。……お前自身も、良く分かっているように……!」
ナサニエルの瞳が揺らぐ。悪魔はそれを見逃さなかった。
「う……っ」
ナサニエルは苦痛の声を漏らした。背中に感じる鈍痛。千切れた悪魔の腕が、失われた翼の傷痕から体内へと入り込んでくる。ナサニエルの目の端に涙がにじみ、その呼吸は乱れた。
「良い、〝赦せ〟よ。〝赦し〟てやれよ、そんな自分を。お前は〝赦しの天使〟ナサニエル、だろう……?」
再び優しげな声で赤ん坊を寝かしつけるように囁き、悪魔はナサニエルの涙に濡れたまぶたを閉じさせた。
「俺が、お前の片翼になってやる……」
シン、と辺りに静寂が満ちる。穏やかな、しかしどこか心をざわつかせる、黄昏時のような静寂が。
「……なぜお前を俺の元へ引き込みたがるのか、だって?」
そうひとりごちて悪魔は嗤った。
「簡単なことさ。お前が堕ちれば、すべてが堕ちる。お前は良くも悪くも、自分の重要性を知らないな、ナサニエル。星の数をも上回る途方もない数の天使たちの中で、もっとも慈悲深い者。大天使長ミカエルのお気に入り。〝赦しの天使〟……」
悪魔は目を閉じる。
「俺の失墜が大激震だとすると、お前の失墜は言わば、大いなる喪失」
悪魔はゆっくりとナサニエルの体に腕を回した。
「すぐに変化は訪れない。お前が堕天することなんて、気にも留めない奴の方が多いだろう。だが、〝赦し〟を失った世界はいずれ滅びる。じわりじわりと、その内側からな」
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