僕の家出

増田朋美

僕の家出

雨が降って、いよいよ寒いなあと思われる季節になってきた。不思議なもので、暑いなあと言っていた季節は終了し、秋だなあと思われる季節になってくる。どんなに暑い夏も、いずれは終了し、寒い季節がやってくるようになっているのだ。まあそれが当たり前なんだろうが、そういうことも当たり前とは、言い難くなってきている。

その日、製鉄所にまた新しい利用者がやってきた。今度の利用者は、学生の時にひどい目にあったのではなく、一度保育士として社会に出ていたこともあるという女性であった。しかも、学校の成績は優秀で、医療保育士とかいう最新型の保育士資格も取得している。そうなれば、保育園で、かなり活躍が見込まれると思うのであるが、そうではなく、他の保育士と諍いがあり、それで自信をなくしてしまったというのだ。名前を斎藤正恵といった。

「つまり、勤務している保育園、正確には認定子ども園ということですが、そこでトラブルを起こしたというわけですか。一体、具体的には、どんな事例があったんですかね?」

製鉄所を管理しているジョチさんこと、曾我正輝さんは、不思議そうな顔をして、正恵さんをみた。もしかしたら、資格を取るのは良いものの、それを生かしてどうのということはできない若い人が増えているということなのかもしれなかった。医療保育士の資格をもっているとは言え、実際の現場で

他の保育士と諍いを起こしてしまうようでは、別の意味で教育が必要なのかもしれない。

「はい、事の起こりは、夏休みの宿題なんです。」

と、斎藤正恵さんは言い始めた。

「夏休みの宿題はパパとママのかおを書いてくるようにというものなんですが、それで加藤博夫くんという園児が、ママの顔だと言って、鬼の顔を書いてきたんです。」

「はあ、つまりお母様がいつも怒っているということでしょうか?」

ジョチさんはそういうが、

「ええ、私もそう思いました。だから、これは大問題だと思いまして、直ぐに他の保育士の先生にも相談しました。そうしたら、医療保育士の資格を持っているくせに、他の保育士に威張るなと叱られてしまいました。逆に、博夫くんが、その絵をかいたのは、私が指導をしっかりできていないせいだと、叱られてしまいまして。それで私、保育士には向いてないのかなと思い、自信がなくなってしまいました。」

と、彼女斎藤正恵さんは言った。なんともおかしな話だが、保育園で子供が主役になることはない。主役になるのは、保育園や保育士のメンツというのが日本の教育現場の現実であった。そんなことはあってはいけないと思うけど、そうなってしまうと割り切る能力も必要なのである。

「そうなんですね。でも、本当に加藤博夫くんという園児が、鬼の顔を書いてきたのですか?」

お茶を出してきた水穂さんが、彼女に聞いた。

「ええ。あたしはちゃんとそれを見ましたし、博夫くんがママの顔だと言って来たのもたしかです。」

正恵さんはそういうが、

「そうですか。博夫くんという園児は何歳ですか?」

と、ジョチさんに聞かれて5歳児だと答えた。

「そうですか。それでは、よけいに問題があると言うことになりますね。すくなくとも、5歳の少年に、見栄をはって、家がいかにも平和であるかのように見せる能力はないと思いますよ。だから、その鬼の顔を書いたのは、間違いなくその園児の家で問題があるということだと思います。医療保育士の資格があるなら、介入できるはずですよ。それをしなかったのは、あなたが職務怠慢ということになると思いますが、違いますか?」

「ごめんなさい!私、そんな事する余裕がなくて!」

正恵さんは泣き出してしまった。 

「泣いても職務怠業は困りますからな。」

ジョチさんが言うと、

「とりあえず、やすませてあげたほうがいいのではありませんか?きっと彼女は彼女なりに、一生懸命やったのではないかと思います。それで今回はたまたまこういう結果になってしまっただけなのではないでしょうか。もしかしたら次は、良い結果を出すことができるようになるのかもしれません。」

水穂さんは、水穂さんらしく言った。

「とりあえず、彼女を休ませてあげましょう。若い方ですもの、一つや二つ失敗をしたって仕方ありませんよ。大事なのはそこで僕たちが彼女をせめるのではなくて、彼女にできるようになるかは、自分で決めて努力すれば良いんだ、いつまでも待っててあげるという姿勢でいることではないでしょうか。それが若い人への最高の励ましという気がするんですよね。彼女に資格取ったのになんでできないんだというのではなくてね。そうしなければ、どんどん若い人と、僕たちの距離は開いていってしまうだけだと思いますよ。」

「はあ、そうですか。水穂さんは、どうしてそういう見方ができるんでしょうね。そんな発想が思いつくのは、水穂さんだけですよ。でも確かに、彼女のしでかしたことを、責めたり馬鹿にしたりしては行けないと言うのはわかります。それではこちらでしばらくお休みください。そして、あなたが十分立ち直れたと思ったら、また保育士に戻ってください。」

と、ジョチさんは、水穂さんの言葉を聞いて、大きなため息を付いて、そういう結論を出した。その後で、ジョチさんは製鉄所の利用時間などを説明し、勉強するなり、仕事をするなり頑張ってくださいと言った。

それと同時に、

「ほら坊主。ここでゆっくりしていくんだな。今カレー作ってやるから、いっぱい食べて良いぞ。」

と、杉ちゃんのでかい声が聞こえてきて、水穂さんとジョチさんは顔を見合わせる。

「坊主。お坊さんでも連れてきたのかな、、、。」

水穂さんがそう言うと、

「でも、お坊さんに向かって坊主と呼び捨てすることはまずしないでしょう。子供には言うことがあると思いますけど、、、。」

ジョチさんは、そういった。それと同時に、

「わーい大好きなカレーだ!」

と、小さな子どもの声が聞こえてきた。

「あれ、あの声は、聞き覚えがあるわ。」

と、斎藤正恵さんも言う。それと同時に、

「杉ちゃん早くカレー作って。」

と催促している声が聞こえてくる。そして、車椅子の音がして、杉ちゃんが製鉄所にはいったのがわかった。多分、そのまま台所に行って、カレーを作るつもりなのだろう。やがて、包丁で野菜を切っている音が聞こえてきた。

「一体杉ちゃんたら、誰を連れてきたんでしょうね。もしかしたら誘拐罪と勘違いされてしまうかもしれませんよ。」

と、ジョチさんたちは、応接室を出て、台所に行ってみた。食堂には、5歳位の小さな男の子が、ちょこんと座っている。そして杉ちゃんのほうは台所で、野菜と肉を炒めていた。

「杉ちゃん一体どういうつもりですか。どこから来たんですか、この少年は。」

ジョチさんがそう言うと、

「ああ、坊主が寂しそうにしてるからよ。それで、カレーを作ってやるって言ったらついてきたの。」

杉ちゃんは、すぐに答えた。

「しかし、どこで彼を見つけたんです?迷子を見つけたのなら、警察へ届けるべきだったのでは?」

「まあ、そうだけど、警察は遠いし、公園に一人ぼっちで、まわりに親御さんの姿も見えないからさ。それこそ、誘拐犯でも狙ってるかもしれないと思って、何よりも、腹が減ってそうだから、連れてきたんだよ。」

ジョチさんがそう言うと、杉ちゃんはすぐに答えた。しかも、小さな男の子は、一緒に居る女性も誰なのかわかった模様だ。

「あ、正恵先生。」

「は?」

「知り合いだったのか?」

ジョチさんと杉ちゃんは思わずいう。

「もしかしたら、杉ちゃんが連れてきたのは、加藤博夫くん?」

水穂さんがそう言うと、

「うん僕加藤博夫。」

小さな男の子は、そう名乗った。

「ご両親はいらっしゃらないのですか?」

とジョチさんが言うと、

「僕家出してきたの。」

博夫くんは言った。

「家出してきたって、ご自宅から出てきたと言うことですか?親御さんと喧嘩でもしたのですか?」

ジョチさんがそう言うと、

「喧嘩したというか、ママはいつも、僕のことを嫌な子だとか、悪い子だとか、そういうことばっかり言うんだもん。」

と、博夫くんは言った。

「パパはいらっしゃらないの?」

水穂さんが優しく聞くと、

「だってママが、パパは最悪な人だから、もう家には入れないって言ったから。」

博夫くんは答えた。

「ご兄弟は?」

水穂さんが聞くと、

「居ないの。ママと二人暮らし。」

博夫くんは答える。

「つまり、彼のお母様は、お父様に嫌気が差して、別れてしまったんですね。それで二人で暮らしているんでしょうけど、でも、育児というのはお母さんだけでは完遂できませんよね。誰か援助者がいてくれないと。」

ジョチさんが、考え込むようにそう言うと、

「ちょっと待ってください!博夫くんのお父さんは、いつまで経っても仕事から帰ってこないで、帰ってきてもすぐに戻ってしまって、まるで会社に逃げているように見えるから、もう信用しないって、お母さんが言っていたことがあります。それなら、もう二度と、お父さんのもとへ戻さないほうが良いのではありませんか!」

と、斎藤正恵さんが言った。

「そうですが、親というものはどうしても必要になりますよね。お母さんだけでは、どうしてもできない部分もあるでしょう。もし、可能であれば、お母さんに、再婚を勧めてみてはいかがですか?」

ジョチさんが言うと、

「でも、もう男は信用しないって、お母さんは言っていました。私一人のほうが、ずっと博夫のそばに居られるって。」

斎藤正恵さんは言った。それと同時に杉ちゃんが、

「ほら、カレーができたぞ。食べろ。」

と博夫くんの前にカレーのお皿を渡した。博夫くんは、杉ちゃんからおさじを受け取って、すぐにカレーにかぶりついた。

「わあい!美味しい!」

そうやってカレーを頬張って食べているのはやはり子供であった。

「そうか、まだカレーがあるから、もっと食べてもいいぞ。」

「ウン、ありがとう!おかわり!」

カレーの皿はすぐになくなってしまった。杉ちゃんがはいよといって、再度カレーを入れてやると、博夫くんは嬉しそうに食べ始めた。

「美味しい!すごく美味しい!」

「すごい食欲ですね。」

頬張るというより貪るようにカレーを食べている博夫くんを見て、水穂さんがそういった。

「だって僕、カレーを食べてないんだもん。」

と博夫くんは答える。

「ちょっとお聞きしますけど、最近になってカレーを食べたのはいつですか?」

ジョチさんが聞くと、

「お正月に、おばあちゃんちで食べたよ。」

博夫くんが言うことが真実であれば、半年以上カレーを食べていないことになる。

「じゃあ、毎日の食事は何を食べていたんですか?」

ジョチさんはもう一度聞いたが博夫くんは答えなかった。でも貪るようにカレーを食べているので、おそらく適切な食事をもらっていなかったということもわかった。

「博夫くんのお母さんは、どんな生活をしているの?具体的に聞くけど、博夫くんは、何時から何時まで保育園に居るの?」

水穂さんが優しく聞くと、

「七時くらいに保育園に行って、八時くらいに迎えに来る。」

確かに今は延長保育という物もあり、そのくらいの時間まで営業している保育園もある。

「それじゃあ、博夫くんのお母さんが何をしているかは、博夫くんは全く聞かされてないの?」

水穂さんが聞くと、博夫くんはうんと答えた。

「もしかしたら、男にでもあっているのかもしれませんね。」

ジョチさんが腕組みをしてそう言うと、

「そんな!私達の保育園に限って、そういう人は居ません!」

と、斎藤正恵さんが言った。

「いや、ありえない話じゃないですよ。博夫くん、ちょっとお願いなんですけど、上着を脱いでいただけませんか?」

ジョチさんがそう言うと博夫くんは困った顔をした。

「ちょっと失礼。」

とジョチさんは、博夫くんの上着の袖をめくった。赤いぶつぶつがいくつか付いている。

「根性焼きのあとですね。」

「これは、僕が悪いことをしたから、それでされたのであって、僕が良いことをしていれば、ママはそういう事はしないんだよ!」

博夫くんはそう言うが、

「いえ、これは立派な虐待です。子供の腕に根性焼きをさせるなんて度が過ぎてます。それなら、夏休みの宿題の答えが鬼であっても仕方ありませんね。それなら、警察に訴えたほうが良いかもしれませんね。」

ジョチさんは、そう言ってスマートフォンを出した。

「根性焼きって、タバコの火を押し付けられることですよね。でも、博夫くんのお母さんがそういう事をするでしょうか?あんな優しそうで、静かな感じのお母さんなのに。」

斎藤正恵さんがそう言うが、

「でも、博夫くんの腕にはあとが付いていますし、それに何よりも、博夫くんが、鬼の絵を書いたというのが、動かぬ証拠です。警察に訴えたほうが良いでしょう。もしかしたら、彼の命も危ないかもしれない。」

と、ジョチさんは言った。

「そうかも知れませんが、あのお母さんに限って、そんな事をするはずが、、、。」

正恵さんはそういった。

「どうしてそういう事がわかるのです?」

水穂さんがそうきくと、

「だって、あのお母さんは、一生懸命水商売をしているんですよ。生活が不自由で大変だからって。酔っ払いの相手をして、本当に大変だって、彼女から聞いたことがありました。そんな彼女が、博夫くんのことを虐待なんかするでしょうか?なにかの間違いです。彼女を逮捕することはやめてください。」

正恵さんは博夫くんのお母さんを援護するように言った。

「ですが、これは博夫くんの命に関わることでもあります。なんとかなるとか、そういう甘い考えでは博夫くんが危ない。それを解決させるには危険な親から離れさせるしか無いのです。」

「そうかも知れないですけど。」

ジョチさんがそう言うと、正恵さんは言った。

「でも、あのお母さんは、本当に一生懸命やっているんです。水商売なんて本当は向いている人じゃないけど、博夫くんを育てるためだって、いろんな事我慢して、やってるんです。他のホステスさんと、年齢も違うし、話も合わないとか、そういういろんな悩みを言うこともあるけど、でも博夫くんのためだからって、私に話してくれたことがありました。だから、あのお母さんに限ってそういう事はありません!」

「なるほどねえ。それでわかったよ。保育園は教育施設ではなくて、単なる預かり所になっちまってるの。」

と、杉ちゃんはでかい声で言った。確かに、幼稚園は子供を教育するためにあるが、保育園はそうではなくて働く親御さんのためにある。だから保育園と幼稚園で受ける教育内容が違ってしまうのである。

と、その時。

「あの!すみません!」

いきなり製鉄所の玄関先で女性の声がした。

「あれ、誰だろ。」

杉ちゃんは車椅子を動かして、玄関先に行ってみた。

「すみません、こちらに加藤博夫という子供は居ませんでしょうか?ごめんなさい、私が偉く叱りすぎたせいで博夫が、家を飛び出してしまったのですが、公園で写生をしていたおじいさんから、車椅子の方と一緒に、こちらへ行ったと聞いたものですから!」

確かに、そこに居るのはまだ若い女性だった。派手な洋服に身を包み、正しくホステスさんであった。髪は取り乱していたが、でも確かに、変に育児が面倒くさいなどと言っているチャラチャラした女性には見えなかった。

「博夫くんのお母様ですか?」

とジョチさんが言うと、

「はい!博夫の母親で、加藤静子です。あのこの度は、博夫がご迷惑をおかけしたということで、申し訳ありません!」

と、加藤静子さんは申し訳無さそうに頭を下げた。

「それで、博夫くんが家を出た経緯は何でしょうか?」

ジョチさんが聞くと、

「私が悪いんです。疲れているときに、博夫がご飯はまだかとせがむものですからついカッとなってしまって、それでもう出ていきなさいと言ってしまったんです。」

と加藤静子さんは答えた。

「つかぬことをお聞きしますが、あなたは博夫くんに、タバコの火を押し付けたり、食事を適切に与えないかったりしたことはありますか?博夫くんは夏休みの宿題で、鬼の絵を書いておられます。それがもし本当のことなら、あなたは、警察に逮捕されなければならないと思いますが、いかがでしょう?」

ジョチさんがちょっときつい言い方で彼女にいうと、

「でも、博夫くんにはできるだけ感情的にならないようにって、一生懸命頑張ってたじゃない。どうしても疲れているときとか、仕事が忙しいときとか、そういうときに、博夫がまとわりついてくると、もういいかげんにしろって怒鳴っちゃうって言ってたけど、私が教えた、頭の中で数を勘定するということも、実践してるんでしょ?だから、少しずつ博夫くんに手を挙げないようになれるわ。大丈夫、もう少し頑張ってみて!」

と、斎藤正恵さんが、そう言ったのだった。

「そうかも知れませんが、すでにやったことが、やったことですからね。」

ジョチさんが言うと、

「でもこうして探しに来てくれたんだから、このままでは行けないと彼女も気がついているんだと思います。だからもう少し時間をください。彼女はきっと、もう少し生活が落ち着いたら、博夫くんに暴力をすることはしなくなると思います!」

斎藤正恵さんは、彼女を援護した。

「そういうことなら、あなたは早く再婚相手を見つけてください。あなた一人では、博夫くんを育てることができないことは、もう証拠はできています。だから対策を取らなければならないでしょう。それが博夫くんの命を守ることでもあるんです。男なんて信用できないとか、そういう言い訳をするのはやめてください!」

ジョチさんは、すぐにそう言い返した。

「でも彼女だって、前の旦那さんの態度ですごく傷ついているのも確かなんですよ。それを癒やしてやることだって必要なんじゃありませんか?」

「斎藤さん、あなた、保育士よりも、カウンセラーとか、そういう職業のほうが向いていると思います。保育士で失敗したのはきっとそっちの方へ行くようにという、神様からのメッセージかも知れない。それにしたがって見るのも悪くないと思いますよ。」

水穂さんが小さな声で、そういった。ジョチさんは、すぐに警察に通報しようとしたが、今日は、帰らせてあげましょうと、水穂さんは言った。斎藤正恵さんもそんな顔をしていた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

僕の家出 増田朋美 @masubuchi4996

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る