美しい老婆の話

パンテオニウムには美しい神獣が棲んでいる。


その角は"歴史"をかてに光り輝き、あまねく人々を照らす。

数多の世界が闇に沈み幾多の命が夜へと還る中、唯一その国だけが神獣の加護を受けて形を保っていた。


神獣の角は人の歴史を吸う。

人の歴史こそが、神獣を生かす唯一のにえである。







神獣の巣へ至る手前の控室で、男はペンを片手に言った。


「では、貴方の"歴史"をお聞かせ下さい。無論、のこしたくない事柄については任意ですので構いません」


男の目の前に座る老婆は、半分を火傷で覆われながらも美しい顔に微笑みを湛えた。


「では、聞いて頂いても宜しいかしら?あまり愉快な話ではないと思いますけれど」


曰く、老婆は戦禍の中に産まれた。






老婆が少女だった頃から、周りは凄惨な世界だった。


血溜まりの中に人間が沈んでいるのは当たり前。家屋や村が燃えるのは当たり前。奪い奪われがルールの世界で、美しくも弱く生まれた少女は奪われる側だった。



「きっと帰ってくるから」


まず奪われたのは父。

兵として召し上げられたあと、返ってきたのは耳だけだった。



「早く逃げなさい」


次に奪われたのは母。

掠奪りゃくだつに抵抗した挙句、躊躇いなく胸を貫かれた。


戦災孤児の行き着く先など、大方は決まっている。路地で死ぬまでひもじい思いをするか、享楽で人間に飼われるか。

それ以外も、もしかしたらあるのかもしれない。しかし少女が選べたのはその2択だった。


そして、彼女が選べぬままに選択肢は決められた。



「ここから出して」


次に奪われたのは自由。

弟と共に狭い檻の中に閉じ籠められた。



「おなかすいた」


次に奪われたのは弟。

満足な栄養も与えられず、枯れ木のような最期だった。



「熱い、熱い!」


次に奪われたのは美貌。

美しいものを愛でる者が多い中で、少女を飼ったのは美しいものを壊すことに悦びを感じる男だった。

少女の美しい顔は、男の手によって無惨にも消えない痕を刻まれた。


「ああ、満足した」


そして美しかった少女の顔半分が焼け爛れたのを確認して、男はあっさりと少女を売り払った。


家族、自由、尊厳。

瞬く間に全て失った少女は無気力になった。


新たに彼女を"仕入れた"男が「売り物にならないハズレを掴まされた」と彼女の顔を揶揄からかっても。

腹いせに少女の手足に葉巻を押し当てても。

痛みを感じても、少女はただ無気力に抵抗すらしなかった。


最初はただ、生きたかった。死ぬことが恐ろしかったからだ。

しかし度重なる苦痛の果てに、少女の心境に変化が訪れる。すなわち───生きている方が、苦痛なのではないかと。


そうして少女は、死を願うようになった。


自ら命を絶つのはまだ怖かった。だから、ただひたすら願う。

早く、早く終わりが訪れますように、と。





願い通りではないが、唐突な終わりが来たのはその頃だった。


「旦那ァ、困りますよ。これっぽっちじゃ髪の一本だって売れやしない」

「だが売れ残って困っているのだろう?これ以上渋るなら、役人に突き出してもいいが」

「そんなんしたら、アンタだって困るだろうが」

「俺は未遂、お前は立派な売人。扱いの差は歴然だろう?」

「ちぇっ、屁理屈言いやがって」


少女は目の前で繰り広げられる会話を無感動に見ていた。

自身の売買についての交渉だということは見当がついたが、それだけだ。結果がどうなろうが、踏みにじられる人生が変わることなんてないだろう。


顔の真ん中に横一直線の深い傷を刻んだ男は、売人の男に皮袋を手渡した。

袋の中で金属が擦れ合う音がする。けっして大きな袋ではなく、それが少女の価値なのだとむざむざ見せつけられている様だった。


「こんな商売からはさっさと足を洗えよ」

「それができりゃ苦労はしねえよ」


こんな商売、で自分を買ったくせに。

口には出さないが、男をぼんやり眺めながら少女は頭の中で呟いた。



傷の男は少女を連れて宿へ向かう。

兵士にも見える男だから試し斬りにでも使われるのだろうか。


そうだったら良い、と少女は願う。


終わらせてくれるなら、この際もうなんでもよかった。



そうして宿に着いた少女を出迎えたのは、綺麗な服と暖かい食べ物だった。


「どうして……」


戸惑うばかりの少女に、男はひどく悲しげに顔を歪めた。


「俺は昔、君の父親に命を救われた」




少女が生まれる前のこと。かつて、男と父は同じ戦場で苦楽を共にする仲間だった。

男が敵に顔を切り裂かれ一時的に視界を失い、あわやここまでというところを彼女の父に救われたのだという。

男はその時の傷が元で退役し、親の後を継いで行商人となったが、その恩を忘れたことはなかったと言った。


「彼の訃報を聞いて、墓に手を合わせようとしたんだ。そうしたら町は焼け落ちて、君達は連れて行かれたと聞いた……」


外見にそぐわず、男の物言いは優しかった。


「行方を知るまでに時間をかけ過ぎてしまった。弟くんの事は、本当にすまない。今更になってしまうが、友人の忘形見である君のこれからを……どうか、守らせてはもらえないだろうか」


男は少女と同じ目線までしゃがみ込み、瞳から大粒の涙を流した。少女が初めて見るくらいに、美しい涙だった。

予想していなかった男の話は、少女にとってまったく現実的でないものだった。白昼夢を見ているのかさえ疑ったほどだ。


それでも男の涙に溶かされたように染み出してくる胸の痛みは、少女の心を強く抉った。


気がつけば少女は泣きじゃくっていた。

いつぶりかも分からないほどの大声で泣いた。



考えても無駄だからと、いつからか押し殺していた悲しみが、

怒りが、

切なさが、

堰を切って止めどなく溢れる。


しがみ付いた少女を、戸惑ったように抱きしめ返した男もまた泣いた。


「遅くなって、すまなかった」

「いいえ、迎えに来てくれてありがとう」


2人して泣き、泣き疲れた後は涙でひどく汚れたお互いの顔を見て笑い合った。

少女と男は、その日から家族となった。






男の故郷の村へ戻ってからというもの、少女は以前よりもずっと良い暮らしができていたが、自宅から出ようとはしなかった。


醜く爛れた顔と身体を、他人に見られたくなかったのだ。窓も閉め切り、光もあまり当たらない部屋の中で、それでも彼女は男がいたから幸せだった。


引きこもる少女を見かねた男が、行商での伝手を使い火傷に効く妙薬を仕入れてきたのもこの頃だった。


「ぅっ、ぅっ……」


その薬が痕に触れると、再び焼かれたかのような痛みを生じた。

男は少女に止めるか問うたが、少女は耐えることを望んだ。


自分の痕を見るたびに、男が悲しそうな顔をしているのに気が付いていたからだ。少しでも男の罪悪感を減らせるのであれば、痛みなど耐えられないはずもない。


少女は自分の上に乗るよう男に頼んだ。

反射的に逃げてしまう自分の身体だけは、どうしようもなかったからだ。


「うううっ……!」


しかし、強い痛みで背中がのけ反る。涙が出るのを歯を食いしばって耐えた。


「大丈夫か、今日はもうやめておくか」

「大丈夫、この痛みが長く続く方が辛いわ。一気にやってしまって」


男はしばらく躊躇ったが、結局は彼女の意思を尊重した。


激しい痛みに耐えた後、男はいつも少女を優しく褒めて暖かいココアを淹れてくれた。

2人で他愛ない話をしながら飲み物で体を温める。やがて少女が眠りに落ちると、男は彼女を再び寝台まで連れて行く。

寝台で目覚めるたびに、男の優しさに触れる瞬間が少女にとっては堪らなく好きな時間だった。


少女は、男に恋をしていた。





月日がたち、少女は輝かんばかりに美しく成長した。


残念ながら火傷痕は全て消すことが出来なかった。それでも当初の何倍も薄くなり、引きれさえ起こさない。

相変わらず家からは出なかったが、少女は残った痕を気にしなくなっていた。


男の存在も大きかった。

ここ数年で少女の恋心は大きくなり、男への想いは募る一方だった。

男とは親子ほどの歳の差があったが、少女にとっては些細な事。彼女はいつか、男と結ばれることを夢見ていた。


「好きよ、本当に好き」


少女はいつも真剣に愛を伝えた。


「俺もだよ。例え血が繋がっていなくても、君のことを本当に大事に思っている」


しかし男の返答はいつも同じだった。

軽薄の色はなく、少女と同じように真摯な言葉だった。


男にとって、少女はあくまで娘だったのだ。


少女の言葉も、境遇からの愛情確認の一種だと信じて疑っていない表情だった。

……自分の気持ちに気が付かない彼が愛しくて、憎かった。


だから彼女はその日、一世一代の手段を取った。



「好きよ、愛しているの」


想いが極まって泣きながら告げた言葉。


娘ではなく、女として見て欲しくて。

痕の残る醜い体だけれど、男なら受け入れてくれると信じて。


月日を経て成熟した少女の体は、しっかりと女になっていた。その体を惜しげもなく晒し、少女は男に迫った。




そのときの男の顔を、彼女は一生忘れる事はないだろう。


「すまない……すまない……」


男の表情は、ひたすら"無"だった。

彼と出会って数年、初めて見るほどに何の表情も浮かんでいない顔だった。

ただ、男の目からは一筋だけ涙が流れた。


男はそのまま、家を出ていってしまった。



「どうしよう」


やってしまったと少女は後悔した。


いま以上を望まなければ、これまでで満足していれば、こんな状況にはならなかったのに。

家族で居られれば良いと、思えば良かったのに。


男に告白した時とはまた違う涙が溢れた。

止めたくても止められないほど、次々に溢れた。


何分、何十分ほどそうしていたのだろうか。

不意に少女の後ろで扉が開く音がした。


まさか、帰ってきてくれたのだろうか。

思わず振り返れば、見知らぬ青年がそこに立っていた。


「……っ」


青年が息を呑み、顔を歪めている。

そういえば背を向けているといえ、自分は裸だった。驚愕と混乱で、急に入ってきた青年を咎める言葉すら咄嗟には出て来ず、少女はただ目を見開いて彼を凝視した。


もう一度、次は玄関の戸口が開く音がした。


「……すまなかった。一度、しっかり話をしよう」


次こそ、男が帰ってきたのだ。


謝らねば、一時の気の迷いだったと誤魔化さねば。

自分の気持ちを否定するのは辛かったが、それよりも男に拒絶されてしまう未来の方が怖かった。

話を聞いてくれるつもりなら、まだ何とかなるはずだ。元の2人に戻れれば構わない。


少女は思わず男を呼ぼうとした。


───それよりも先に、青年が動いた。


脱兎の如く駆けた青年が玄関に向かう。彼は盗みにでも入りにきていたのかもしれない。


初めは逃げたのかと思った。

しかし、次の瞬間に聞こえてきた男の苦悶の声に少女の体は一瞬で冷たくなった。

シーツだけ巻き付けて、慌てて男の元へ向かう。


もう一度、苦悶の声。

次は濡れたような音と共に。


玄関なんてすぐのはずなのに、その日に限ってとても遠いように思えた。


濡れた音。

濡れた音。

男の声はもう聞こえない。


少女は口元を震わせながらその光景を目にした。


「あ……」


愛しい姿は変わり果て、床の血溜まりに沈んでいた。


見たこともない赤の拡がりに、男はすでに事切れていることを理解した。それを、先ほどの青年が白い刀身のナイフを携えて呆然と見下ろしている。何があったのかは、説明されなくても十分だった。


脳が全てを拒否し、男の息を確認しに行くことすら出来ない。


震える少女を、近付いてきた青年が抱きしめた。


「大丈夫。もう、大丈夫だよ」


優しい青年の声音が耳朶を打つ。


「もう君を傷付ける人間はいない」


傷付ける?誰が、誰を?


「ずっと、君がこの村に来た時から君の姿が忘れられなかった。好きなんだ」


涙が止まった。

好き?誰が、誰を?少女は青年のことすら知らないのに。

見上げれば青年と目があった。そこに少女に対する害意など、一片たりとも存在しない。


「僕はずっと君を助けたかった。急にこんなこと言われても困るかもしれないけれど、これからの君を守らせてくれないだろうか」


その瞬間、少女は全てを理解した。

青年が何かを勘違いしたのだということも、男がなぜ殺されたのかも。

全てを理解して、絶望した。


青年は善良そうな顔で少女を見つめたままだ。

少女の心の奥底に、ふつり、と黒い炎が灯った。


許せない。

勘違いで少女のを奪っておいて、さも善人のように笑う青年が。


「……はい」


少女は引き攣りそうな口をなんとか笑みの形にした。


許さない。

ここからの一生をかけて青年の全てを奪ってやるのだと、その時少女は誓ったのだった。





青年と結婚した彼女は町へ移り住むことになった。


村を離れる時。腫れ物のように外れへ埋葬された男の墓を想い、少女は泣いた。

青年はそれを、どう捉えたのだろうか。

少女には全く興味がなかった。


そして少女は女へ。

その美しさには磨きがかかり、逞しい男に成長した青年は少女の美しさを毎日讃えた。

女は夫の隣で微笑む傍ら、様々な男と関係を持った。その一方で、夫との営みでは徹底的に避妊した。

……愛しい男の忘形見の商売道具が、これほど役立ったことはなかった。


後腐れない男を選んで体を交えた結果、夫との繋がりのない子が4人も生まれた。


「今回も君に似て、とても綺麗な子だね」

「そうかしら?目元なんて、貴方に似ていると思いますけれど」


そんな事はないが、嘘でもそういえば夫は嬉しそうに笑った。それがとても愚かに見えた。

夫はとても甲斐甲斐しく、本当に女を愛しているようだった。


「戦災孤児の為の、養護院を開こうと思うんだ」


ある時、夫は言った。


「戦争は僕の力だけで終わらせる事はできない。けれど……君のように、望まぬ境遇に陥るのを防ぐ事はできる」


女はそれを聞いて、ぼんやりと考える。


望まぬ境遇とはなんだろう。

家族を奪われたことも、酷い男に飼われたことも、人身売買で酷い扱いを受けたことも、いまだに苦い記憶だ。


しかし、それがあったから愛しい男と出会い、共に生活ができたのも事実で。


それがあったから、男が目の前の夫に殺されたのも事実で。


女の目から涙が溢れた。

夫は何を思ったのか、女を優しく抱きしめる。


「……ありがとうございます」


心無い感謝を伝えれば、やはり夫は善良な顔で笑うのだった。




そして女は老婆へ、男は老爺へ。


老婆はただ"時"を待った。老爺の全てを奪うに相応しい"時"を。

老爺は、ついぞ最近に神獣の贄となった。


懐かしい家族の写真から老爺の姿が失われ始め、ようやく訪れた"時"に、老婆は嬉々として贄に名乗りを挙げた。




満足げな顔で、老婆は笑った。


「今の記録は、残さないで構いません」


歴史官の男は驚いて目を見開く。

老婆は彼の様子を見て可笑しそうに笑うと、上品に口元に手を当てた。


「これが私の復讐なのです。あの人の歴史は、受け取ったその日に破棄しました。あとは時間が経てば、あの人は誰からも忘れ去られるでしょう」


顔半分を覆う火傷に指を滑らせ、彼女は静かに目を閉じた。大きく吐いた息は深く、初めて呼吸をしたかのように震えている。


「私はあの人から"家族を作る未来"を奪いました。あの人の"名声"も残さない事を選びました。あとは私の歴史が消えれば、あの人の歴史は一欠片すら残らないでしょう?」

「……」

「あの人が愛したという女は居なくなります、その事実さえね。歴史が消えれば、恨みもなくなる───あの人が残した歴史の残滓が消え去る前に、私はこの恨みの歴史を神獣様に捧げるのです」


どこまでも穏やかな声音は、まるで恨みがましいようには聞こえない。それでも、本人がそういうのであればきっとそれは事実なのだろう。


「歴史官様にお話をしたのは、この恨み言を最後にぶつけたかったからなんですよ。ごめんなさいね」


ゆったりとした動作で老婆が立ち上がる。

もう神獣の元へ行こうというのだろう。男は何も言えず、老婆の後に続いて立ち上がった。

神獣の巣に至る前の扉に手を掛け、ふと思い出したかのように老婆は口を開く。


「ああ───ですけれど、一つだけ。……勘違いで殺されてしまった彼の記録は、残しておいてくださいね。彼の汚名を返上するためにも」


それだけ言うと、老婆は躊躇いなく扉を開いた。


「……お望み通りに」







控室の窓から巣を眺める。


森の中を模したその場所の中央で、老婆は神獣に向けて微笑んでいた。


美しい神獣と、老婆。


老婆の瞳には神獣しか映っておらず、遠目からでもその瞳には熱っぽさしかない。


絵と見紛うほどに美しい光景の中、神獣の角が眩く光り輝き───



その光が収まった頃、老婆の形は完全に"失われて"いた。





男は窓からその様子を見ていた。


「一方向からでは、見えないこともあるものだな」


善良な老爺を見送った時を思い出す。

彼が贄となったのは最近の事だったが、もう既にその輪郭は朧げだった。

きっと彼が善良だったことや、妻を愛していたことも、そのうち世界から消え去ってしまうのだろう。



老婆の最後の頼みを聞き届けるために、彼は踵を返して机へと向かった。

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