パンテオニウムの神獣

常葉㮈枯

善良な老爺の話

パンテオニウムには美しい神獣が棲んでいる。


その角は"歴史"をかてに光り輝き、あまねく人々を照らす。

数多の世界が闇に沈み幾多の命が夜へと還る中、唯一その国だけが神獣の加護を受けて形を保っていた。


神獣が失われてはならない。

それこそが終焉であるのだから。







神獣の巣へ至る手前の控室で、男はペンを片手に言った。


「では、貴方の"歴史"をお聞かせ下さい。無論、のこしたくない事柄については任意ですので構いません」


男の目の前に座る老爺ろうやは、深い皺の刻まれた顔に穏やかな微笑みを湛えながら頷く。


「特に面白い歴史ではないかもしれませんが、この老耄おいぼれの話に付き合ってくれますかな?」


曰く、老爺は何の変哲もない村に生まれた。







その村は戦火より遠く、周り近所が皆顔見知りという至って普通の、どこにでもある村。


少年だった老爺はいつも通りに目覚め、いつも通りに朝食を摂り、いつも通りに働いた後、いつも通りに友人と遊んでいた。


「そういえばおまえ、知ってるか?」


村の端にある木の下で、友人が不意に言った。


「なにが?」

「行商に行ってたおっちゃんが、隣町から俺たちと同じくらいの女の子を連れ帰ってきたらしい」


友人は下卑た笑みを浮かべる。

少年はそんな友人の顔を見て、いつもの悪い癖だと呆れた。

自分と同じ年頃のくせに話題を好む彼は、物事を刺激的な方向に捉えるきらいがある。おかげで10を過ぎる年頃で、少年にも性の知識だけは備わっていた。

それゆえ、彼の言いたいことは十二分に理解できる。


「ただ単に、親戚の子を連れて来たとかそういうことじゃないの?戦争で家族を亡くした子を引き取ったとか」

「馬鹿おまえ、そうだとしても夜中に裸にひん剥いて泣かせてさ。まともな目的で連れて来たと思うか?」


友人の言葉に、少年も詰まった。そう言われてしまえば、少年の脳内にもあまり真っ当な考えは浮かんでこない。


「連れてきた女の子がえらい別嬪べっぴんらしくてさァ。あんまりに気になったから、見に行ったんだよ」

「わざわざ夜中に?」

「そりゃあ、あのおっちゃん怖いだろ。わざわざ連れてきた女の子見せてなんて、門前払い喰らうに決まってる」


行商の男は顔が怖かった。

商人という割には人相が悪く、顔を横一文字に深い傷が走っている。声を荒げて怒ったところは見たことはなかったが、あの鋭い目で睨まれたら蛇だって蛙になるだろう。


「友達になりたいって言えば良かったじゃないか」

「普通に表へ出してるならそう言うさ。連れて帰ってきてるのは知ってるのに、見た奴が殆ど居ないんだぜ?きっと、なるべく隠してんだよ」


確かに、少年もそんな女の子を見たことがなかった。

村に住む人間はみんな顔を知っている。その中で知らない顔が現れれば、たとえ美人でなくてもすぐ目につくはずだ。

話を聞いていると、好奇心がうずうずと湧いてくる。


友人が、少年の顔を見てカラカラと笑った。


「おまえも興味あるだろ、一度見に行ってみろよ。夜中ならおっちゃんも夢中でバレそうにないからさあ」


そんな友人の言葉が、その日からずっと頭に残っていた。


だから少年は「人の家を覗くなんて悪い事だ」と思いながら、身の内に燻る好奇心を持て余していった。



そしてある夜、少年はその好奇心に負けた。



暗がりを、月明かりだけを頼りに歩いた。

ランタンなんて持ち出そうものなら、親にだって家を抜け出すことがバレてしまうだろう。

雲間に月が隠れる時には道の輪郭もあやふやだったが、幸いにも生まれた時から知っている場所だ。大体の方角と、目的地くらいは分かる。


向かう先に、ポツリと灯る目的の家灯りを見つけて、少年は自分でも気付かぬ内にごくりと生唾を飲み込んだ。


他人の家の事情を覗くなんて、見つかったら怒られるだろうか?

両親にも報告されるだろうか?


心臓の音がどんどん早くなって少年の耳の奥で響く。

咎められることへの恐れはあったが、それでも友人の言った"隠された乙女"への好奇心の方が勝っていた。


家に辿り着き、建て付けの悪い窓の隙間からこっそりと中を覗き込む。元々暗闇に慣れていた目は、数秒の間に薄暗い部屋の中を映し始めた。


「ぅっ、ぅっ……」


微かな啜り泣きのようなものが聞こえた。

部屋の中は机と椅子、棚と寝台というシンプルなものだ。


寝台の上には男が背を向けて座っていたが、頭元に置かれたランプで逆光になり影しかわからない。

ただ、男の手が何かを撫でるように動いている様子だけは少年にもよく分かった。


男が何をしているのか、さらに目を凝らしてよく見ようとしたその瞬間。


「うううっ……!」


仰け反るように身を起こした少女の姿が目に焼き付いた。



少年の世界が確実に変わったのは、その瞬間だった。



振り乱した髪がランプの灯りで煌めく。

飛び散った涙なのか、汗なのか、それすらも輝かんばかりに少年の眼にこびり付く。

身体も逆光で輪郭しか見えない。

それでも、僅かばかりに照らされて見ることのできた横顔は、少年が今まで見てきたどの人間よりも美しかった。



思わず少年はその場から逃げ出した。


何故だか分からないが、無性に居た堪れなくなったのだ。


静かにしようという気すら起こらないほど、無我夢中で家までの道のりをひた走った。



少年は、その一瞬だけで少女に恋をしたのだ。




それからというもの、少年は日がな一日少女のことを考えて過ごした。


記憶に焼きつく美しい横顔。

灯りを透かして光る細い髪。

寝ても覚めても脳裏に浮かぶのは彼女の事ばかり。

気も漫ろな様子を友人に揶揄からかわれたはずだが、それすら少年の記憶に乏しかった。


そのまま一年が過ぎ、五年が過ぎ───少女の姿を村で見ることのないまま、少年は青年になった。




「あのおっさん、町へ引っ越すらしいぞ」


青年は友人からの情報に目を丸くした。


その頃になると、村では行商の男が少女を囲っていることは暗黙の了解となっていた。


何年経とうと、あの日の少女の姿を思い出さなかった日はない。

相変わらず村の中で少女の姿を見ることは無かったが、青年はあの日以降男の家へ行くことはなかった。

行ったが最後。

自分の無力さと少女への罪悪感、男への嫉妬で気が狂ってしまいそうなことは分かりきっていたからだ。


しかしその日は違った。


「引っ越すって、どうして?」

「さあ?あの子をちゃんと嫁に迎えるためだったりしてな?」


何年経とうと、その下卑た笑みが変わることのない友人。


「この村じゃ、年端も行かない頃から手篭めにしてる事が知れ渡ってんだ。新天地で新たにやり直そうと思ってるのかも知れないな」


青年の心に、かつて感じたことのない焦りが沸き起こった。


もし、本当に嫁にするために連れて行かれてしまったら少女とはもう会えないだろう。

それよりも、少女は昔と変わらず男の下で泣いているのだろうか。彼女は男と一緒になることを望んでいるのだろうか。




名実ともに男のものになることを、自分は許せるのだろうか。




そう思うと居ても立ってもいられなくなった。


最後に、せめて最後に一言だけでも交わしたい。

彼女の姿をもう一度だけ見たい。

その一心で、青年は男の家を目指した。


言葉を交わして、一目見て、それで何かが変わるなんて青年も思ってはいなかった。

ただ、この恋心の赴くままに足を進めることしか、その時の青年の頭にはなかったのだ。


男はちょうど留守で、青年は迷わず家の中へと侵入した。後になっても、この時ほどの大胆さを発揮したことはなかった。


あの日見た部屋の場所まで、迷わずに。




───そうして扉を開けて青年が見たのは、記憶よりもずっと美しく眩く成長した少女だった。


「……っ」


吐息をこぼすことすら躊躇う、その美。

魂まで奪われてしまいそうになった青年は、しかし少女の肢体を瞳に映して絶望した。


青年の方に向けられた少女の背には、無数の傷跡が存在した。手足に至っては火傷のような痕もある。まるで、葉巻を押し付けられたかのような形と大きさだ。

痛々しいその痕を晒す少女は何より裸体で、はらはらと涙を流していた。

大きな目を見開き、青年を映す美しく濡れた瞳からは止めどなく涙が溢れていた。




そこから僅かの間、青年の記憶は酷く曖昧だった。




気がついた時には手に血塗れのナイフを持っており、茫然と玄関で倒れ伏す男を見下ろしていた。

男はすでに事切れ、血溜まりは床一面を赤く染める。青年の手も同じく赤に染まり、震える手からはポタポタと雫が落ちて床を濡らす。


「あ……」


背後から息を呑む音が聞こえて、青年は我に返った。

振り向けば、シーツで身体を隠した少女が口元を震わせながら青年と男を交互に見ていた。ようやく真正面から見ることの叶った少女の顔半分は、手足と同じように幾つもの火傷の痕が窺えた。


青年は堪らなく心が締め付けられた。


いったい、どれほどの苦痛を感じたのだろう。これほどの傷を耐えるのは容易ではなかったはずだ。


「大丈夫。もう、大丈夫だよ」


自身が血塗れなことも忘れて少女を抱きしめた。折れそうなほどに儚い身体は冷たく、細かく震える。


「もう君を傷付ける人間はいない」


青年の言葉に少女の震えが止まった。

それがとても嬉しくて、青年はもう少し力を込めて少女を抱きしめる。


「ずっと、君がこの村に来た時から君の姿が忘れられなかった。好きなんだ」


腕の中で、少女が顔を上げた。

火傷を負ったその顔は、それでも輝かんばかりに美しかった。

瞳はまだ涙で濡れてはいたが、新たに溢れることもない。


「僕はずっと君を助けたかった。急にこんなこと言われても困るかもしれないけれど、これからの君を守らせてくれないだろうか」


暫しの間、見つめ合う。


やがて少女は大きな瞳から最後の涙を溢して、ゆっくりと破顔した。


「……はい」


鈴を転がしたかのような声。

おずおずと回された手が、青年の背に回された。


男が青年に殺された事は明らかだったが、事情を知っている村人が態々わざわざ青年を糾弾する事はなかった。男には家族も居らず、咎めようとする者すら居なかった。

男の死体はひっそりと片付けられ、その墓は腫れ物のように村の外れへひっそり立てられた。





少女を救った青年はやがて彼女と夫婦になった。


大人になったら彼らは、村を出て町へと移り住んだ。少女にとって辛い記憶が残る村に住み続けるのは苦痛だろうという、青年の優しさだった。

村を離れる時、少女はそんな記憶を振り切るかのように激しく泣いた。目が溶けてしまうのではないかと心配なほどに泣いた後、晴れやかに笑った少女の笑顔を、青年は今後忘れる事はないだろう。




そして青年は逞しい男へ、少女は美しいままに女へ。


移り住んだ時の、2人だけの小さな家は、家族で住める大きな家へ。


「今回も君に似て、とても綺麗な子だね」

「そうかしら?目元なんて、貴方に似ていると思いますけれど」


仲の睦まじい2人の間には4人の子供が生まれたが、全員が女に似て美しかった。家の中には絶えず笑顔が溢れ、周りも羨むほどに。

男はとても幸せだった。


ある時、男は女に言った。


「戦災孤児の為の、養護院を開こうと思うんだ」


女は、元々戦災孤児であったと語っていた。


「戦争は僕の力だけで終わらせる事はできない。けれど……君のように、望まぬ境遇に陥るのを防ぐ事はできる」


男は女のおかげで幸せになれたからこそ、彼女の過去に報いることをしたかった。美しい彼女に恥いることない人間になりたかった。


男の告白に、女はただ黙って泣いた。


「……ありがとうございます」


顔を覆って泣いた妻を、男は万感の思いを込めて抱きしめた。

男は哀れな孤児を救う善良な人間として、町の人々から讃えられた。男の名声は他の国へも届き、「あんなに心が美しい人なのだから、妻の美しさにも納得だ」と言わしめた。


ようやく、妻に相応しい人間になれたと思った。




月日は更に流れる。

男は老爺へ、女は老婆へ。


顔に皺が刻まれても、老婆は変わらず美しいままだった。老爺の中で、いつまでも老婆の美しさは変わらぬままだった。


夫婦は沢山の孫とひ孫にも恵まれ、幸せに日々を過ごした。


だから世界が闇に沈み、神獣に"歴史"を差し出す贄が必要になったとき、男は迷わず名乗りを上げた。


この幸せな歴史を、他ならぬ妻や子供たちが生きる世界のために使えるならば───それはなんて幸せなことだろうか。










満足げな顔で、老爺は笑った。


「これが、私の残したい歴史です」


歴史官の男は頷いてペンを置く。


今まで歴史を差し出してきた人間たちよりも、多いとも少ないとも言える記録紙の数。内容はともあれ、つまりは「ごく一般の人間の歴史」と言って差し支えない物語。


老爺は静かに目を閉じて指を組んだ。


「神獣様の元へ、連れて行って下さい」


男は再び頷き、席を立つ。


「最後に……この"歴史"をどう扱いますか?貴方にはご家族がお有りですので、其方へのお渡しでも構いませんが」

「勿論、妻へ渡して下さい。名声が欲しいわけではないのです。他の誰に記憶されなくとも、私がいたという歴史を彼女にさえ認知してもらえれば、それで」


老爺の言葉には、この場にいない妻への愛情が溢れんばかりに詰められている。その表情に、恐怖というものは一片たりとも含まれていなかった。


男はそんな老爺を暫しの間、眩しそうに見つめる。その善良な心を、素敵だと心の底から思ったのだ。


杖をつきながら一歩踏み出す老爺に、敬意を込めながら男は胸に手を当てた。


「お望み通りに」







控室の窓から巣を眺める。


森の中を模したその場所の中央で、熱に浮かされたように、老爺は神獣を見つめたまま動かない。


紅潮した頬、歓喜の色に染まる表情。


人間にも似た神獣の上半身がゆるり、と傾ぎ、ほっそりとした腕が老爺の皺だらけの顔に伸ばされる。応えるように、老爺も骨と皮ばかりの腕を伸ばす。



やがて、神獣の角が眩く光り輝き───



その光が収まった頃、老爺の形は完全に"失われて"いた。






男は黙って、窓からその様子を見ていた。

これから徐々に失われていくだろう老爺のことを想いながら。


ただただ、黙って神獣しかいない森を見ていた。

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