4-4 パウンドケーキと猫
パティスリーに戻ると、今度は二階のカフェに通された。
土門は下で何か作業をしている。
その音を聞きながら、弥生はまだ少し出てくる涙をなだめていた。
あのまま帰宅していたら、きっと朝まで落ち込んでいただろう。
正直、もう一度店に誘ってもらえて良かったと思う。
気分が落ち着いてきたところで、弥生は席を立ち、カフェスペースをじっくり眺めだした。
天井は元のまま、床の一部や壁をリフォームしたようで、新しい木のぬくもりが感じられる、落ち着いた空間だ。
窓に沿ったカウンター席がいくつかと、四人掛けのテーブルが七つほどあり、天気のいい日にお茶でもしたら、極上のリラックスタイムになりそうだ。
壁にはインテリアなのか、小ぶりなサイズの油彩画が飾ってある。写真かと思うような精巧さで、題材は主に小樽の景色のようだ。
L字型になった長い窓からは、澄み切った外気のおかげで、市街地の夜景が鮮明に見える。
ガラスに映った自分の顔を見た途端、この真上の部屋で、土門と顔が近かった瞬間があった事を思い出し、今更恥ずかしくなる。
今日が手抜きメイクだった事を後悔していると、階下から微かなモーター音と足音が上ってきたので、弥生は慌てて赤くなった頬をもんだ。
「大丈夫か?」
土門は、帽子もエプロンも外し、ついでに結んでいた髪も解いていた。パティスリーの仕事も、どうやら終わったようだ。
「はい!だ、大丈夫です」
どうにか自然に言えただろう。
土門は、コーヒーマシンが置かれた小さなバーカウンターの後ろにある、壁のハッチを開けた。
どうやら、壁の中に小型昇降機があるようで、そこから何かを取り出していた。
「それにしても、どうして分かったんですか?優子が怪しいって」
「今朝オフィスで話した時、本当に微かだったが、あの腐った水の匂いがしたんだ」
ゴリゴリと豆を挽く、コーヒーマシンの盛大な音が響く。
「私は全然感じませんでしたけど」
「物理的な匂いじゃなく、霊が発するにおいだ。だから無関係ではないと思ったんだが、もう確かめようがないな」
話の内容とは正反対の、いい香りが漂ってきた。
「じゃあ、私からも何かにおってたから、人形の事で疑われてるってわかったんですか?」
返ってきたのは、苦笑いだった。
「あんな切羽詰まった雰囲気を纏っていたら、誰だって何かあったと気づくだろ」
「…陰陽師って、超能力者なんですか?」
「そんな訳あるか。ハリウッド映画じゃあるまいし」
いや、陰陽師だって映画に…と喉まで出かかったが、土門がテーブルに置いたトレーに、湯気のあがったコーヒーと、カットされたパウンドケーキが並んでいたので、セリフは引っ込んでしまった。
「良かったらどうぞ」
「いいんですか?どこかに持っていくものなんじゃ…」
「商品にできない耳の部分だからいいんだ。気にせず食べてくれ」
はす向かいに座った土門がコーヒーを飲み始めたので、弥生もフォークを持った。
「じゃあ…いただきます」
皿には、プレーンタイプと、昼にも食べたオレンジピール入りのものが載っていた。
実のところ空腹だったので、嬉しい。
まずは、シンプルなプレーンタイプを一口。
しっとりした生地を噛むと、バターの風味と、優しい甘味が口の中に広がっていく。
舌の上で生地がほぐれたところで、コーヒーを啜る。
混然一体となった生地を飲み込むと、不思議と肩の力が抜けた。
息を吐き出すと、嫌な感情も全部流れていくようだった。
「…美味しいです。とても」
「それは良かった」
しばらく二人は何も言わず、それぞれのものを口にしていた。
BGMもないのに、不思議と心地の良い静けさだ。
「…ここに来た時にした質問、覚えているか?」
沈黙を破ったのは、土門だった。
「優子に、死んでくれって言われたら、ですか?」
「呪詛の影響を受けているかどうかを試したんだが、御手洗さんの性格も大いに関係ありそうだな」
土門はどこか楽しそうに、ニヤニヤしている。
「ゼロ百思考の、見本みたいな回答だった。あの質問をして、死んでいいなんて返してきたのは、御手洗さんが初めてだ」
少し引いたぞ、と短く付け加えられ、複雑な気分だ。
「…つまり、何がおっしゃりたいんでしょうか?」
「御手洗さんは相当頑固、という事だな。職場で苦労が絶えない理由も見えてきた」
「だから、コミュ力お化けと一緒にしないで下さいって!」
人の苦労も知らないで、と怒りが湧いてくるが、図星だから言い返せないのも悔しい。
と、あの枯れ木と砂のにおいが漂ってきた。
土門が何もない空間を振り返る。弥生には見えないが、確かに何かがそこにいた。
「御手洗さんには、お前が俺の式神だと話した。姿を見せても大丈夫だ」
やはり、音羽のようだ。
その言葉を待っていたように、着物姿の音羽がすっと現れる。
だが、あのホッとするにこやかさはない。
澄み渡りすぎて触れられない、冬の大気のようだ。
「それで、どうだった?」
「呪詛返しは完了しました。第三者に呪詛が移るよう、仕掛けていた形跡もなかったです」
音羽は、弥生の方をちらちらと見てくる。
何故ここにあなたがいるの?と言いたげな目だ。
「しかし、相手は姿をくらます術を心得ていたようです。何者なのかは確認できませんでした。手応えはありましたが、命を落とすまでには至っていないかと」
「分かった」
再び弥生と向き合った土門の目は、先ほどの陰陽師の時の目だった。
思わず背筋が伸びる。
「薄々気づいているかもしれないが、今回の呪詛の依頼者…依頼者と実行者がイコールの可能性も捨てきれないが、御手洗さんの身近にいる誰かだろう。優子以外のな」
「…そうですよね」
考えたくはなかったが、そういう事になる。
交友関係は狭い自信があるが、当てはまる人間が思いつかない。
「呪詛返しをした事で、御手洗さんのそばに同業者がいると分かっただろうから、しばらく動きはないと思う。これで懲りてくれればいいんだがな」
「そうですね。私も、周りの人たちの様子、もっと見るようにします」
「それがいいな。一応聞くが、誰かの恨みを買うような出来事は、かつてあったか?」
交友関係は狭い自信があるが、当てはまる人間が思いつかない。
あのお局三連星にしても、リスクを冒してまで呪いを依頼するとも思えない。
「…人に嫌われているのは間違いないですけど、呪いをかけられるほどの出来事はなかったと思います」
土門はカップの中身を飲み干すと、だろうな、と呟いた。
弥生は改めて、土門と音羽をしっかり眺めた。
普通の人間にしか見えないが、こうしていると、纏う空気感は自分とは全然違う。
「土門さんはパティシエで陰陽師、なんですよね?」
あぁ、と素っ気ない声が返ってくる。
「音羽さんはその式神で、妖怪の猫又でもあると?」
「妖怪ではなく、あやかし、と言って欲しいですね」
「何でですか?」
「その方が風情があるでしょう?」
どうやら音羽は、見た目同様に、美しいと呼べるものがお好みのようだ。
「確かに仰る通り、私は猫又と呼ばれる存在です。博臣様の調伏を受け、こうしてお仕えしております」
「調伏?」
「霊的なものを力でねじ伏せて、こちらに従わせる事だ」
アニメでよくある、モンスターの調教のようなものだろうか。
「よう…あやかしを、式神にする事なんてできるんですね」
「博臣様は特別ですからね。安部晴明なんかより、よっぽど優れていらっしゃいます」
音羽の表情は誇らしげで、調伏されなくても、喜んでついていきそうだ。
有名人と比べられた土門は、苦い顔だ。
「…安部晴明を引き合いに出すなと、いつも言ってるだろうが」
「いいじゃありませんか。事実なんですから」
「それはお前個人の感想だろ」
長年連れ添った夫婦の、漫才のような会話を聞きながら、弥生は少しずつ、陰陽師について思い出してきた。
陰陽師は、平安時代に活躍した日本独自の呪術師だ。
暦の作成や、宮中行事の儀式や占いを行った、現代でいうところの国家公務員。
また、陰謀渦巻く貴族社会において、呪術を用いて政敵を失脚させたりといった、権謀術数に利用されてきた側面もある。
だがそれも、陰陽師を題材にした小説やアニメで得た知識で、有名な安部清明の、ヒーロー的なイメージが先行してしまう。
―でも、映画に出て来たような平安時代の衣装より、Tシャツにパーカーの方が現実味があって、接しやすいかも。
残りのケーキとコーヒーを食べながら、弥生はそのような事を考えていた。
「ごちそうさまでした」
「ところで、御手洗さん」
急に音羽に話を振られ、どきりとする。
「な、なんでしょうか?」
「何だか馴染んでいらっしゃいますが…私の事、怖いとか気持ち悪いとか、思わないのですか?」
「…いえ、別に」
それが本音だった。
「どうしてだ?」
そう言ったのは土門だ。
「音羽さん、土門さんの相方みたいなものなんですよね?それに、妖怪っているっていうから、そういうものなんだと思えば、別に怖いとかは…」
そういえば、音羽の髪の色は、猫又の毛並みと同じような色だ。
「それにほら、音羽さん可愛いですし!」
音羽は最初ぽかんとしていたが、徐々に頬が紅潮してきた。
髪の間から「イカ耳」と形容される猫の耳がすっと生えて来たので、少しぎょっとしてしまった。
肩もわなわなと震えている。大丈夫だろうか。
「音羽、耳出てるぞ」
「……っ!」
冷静な土門の言葉に、何かが最高潮を迎えたようだ。
バン!とテーブルを叩いた音羽は、そのまま消えてしまった。
瞬きするほどの間の出来事だった。
「えーと…私、何かまずい事言っちゃいましたか?」
なんとも言えない空気感の中、土門はクックッと笑っている。
「いや。あの様子だと、かなり嬉しかったようだな」
「そうなんですか?怒らせちゃったのかと思いました…」
「あまりに予想外な出来事があると、ああやって猫の性格が出てくるんだ。多分今は、ついテーブルを叩いてしまって、自分で驚いていると思うぞ」
たまに見る猫動画でも、そんな解説があった事を思い出す。
「気持ちよさげに撫でられていたのに、急に噛まれちゃうやつですか?」
「あぁ、ちょうどそんな感じだ」
隠れて気分を落ち着かせている音羽を想像し、弥生も思わず笑ってしまった。
「なんか可愛いですね」
「長く生きていても、猫だからな」
「いや、音羽さんもそうですけど、やっぱりウチの子が一番って顔してる土門さんがですよ」
本当に一瞬だったが、土門の表情が愛猫に対する親バカそのものだったので、余計に可笑しかった。
恥ずかしそうに咳払いをする姿に、この人も人間なんだと思えて、何故か安心する。
「普通なら、きっと土門さんの事を疑ってかかるところなんだと思うんです。だけど疑っていたら、屋根裏部屋で起きた出来事の説明がつきません」
パウンドケーキの味も、口の中に蘇ってくる。
「だから音羽さんと同じく、土門さんもそういう人なんだって受け入れようと思います。陰陽師の事はまだよく分からないですけど、今でいう霊能者みたいなものかなって思えば、しっくり来そうです」
先程の音羽とよく似た顔をした一瞬の間の後。
土門は、声を上げて笑っていた。
今朝見たものとはずいぶん雰囲気が違うが、今度はどういう意味の笑いだろう。
弥生の視線に気づいて、土門は笑いを収めようとしたが、いまいち引っ込み切れていない。
「いや、すまない。俺自身も、現場で陰陽師だと明かしたのはさっきが初めてだったんだ」
「そうなんですか?じゃあ、いつもはどうしてるんですか?」
「もちろん、依頼者は最初から俺の事を知っているさ」
先ほどの、依頼者と実行者の話を思い出す。
祓ってほしい、と弥生に言わせたのは、そこをはっきりさせる必要もあったのかもしれない。
「小樽では隠しておこうかとも思っていたんだが、結局言わざるを得ない状況になったな」
「変な噂が立っても困りますしね」
「正直、どんな反応が来るのかと覚悟していたんだが、こんなあっさり受け入れてもらえて、拍子抜けだ」
本当に、可笑しくてたまらない、といった様子だ。
意外だった。こんな風に、無邪気に笑えるのか。
「それにしても、音羽の事と言い、御手洗さんは変わった発想の持ち主だな」
「…それ褒めてるんですか?」
「もちろん。普通なら疑ってかかるところを、あっさり受け入れたんだ。寛容なところもあるんだな」
案外この顔が、素顔に近いのかもしれない。
急にこの男が、ずっと同じクラスだった同級生のように思えてきたので、不思議な気分だ。
「私も、自分以外に幽霊が見える人と会うの、初めてだったんです。だから、ちょっと嬉しいです」
実際は『かなり』と言いたかったのだが、恰好をつけて伏せてしまった。
弥生はふと、土門の年齢が気になってきた。
聞いたら失礼だろうか。いや、女性に聞くよりも地雷を踏む確率は低そうだ。
「そういえば、そろそろバスの時間じゃないのか?」
スマートフォンで時間を見ると、顔が青ざめるのを感じた。
最終バスまであと五分しかない。今日は土曜日なので、時間が早いのだ。
この店からは徒歩十分はかかるので、到底間に合わない。
土門の提案で、弥生はいつも乗っているバス停から、二つぐらい先のバス停まで送ってもらえる事になった。
どうやら、車が苦手である事も気づかれていたようだ。
手早く身支度を済ませ、二人で車に乗り込む。
本当に、この人には敵わないなぁと思いながら、弥生は流れゆく景色を眺めていた。
「幽霊への対処法、いくつか教えてやろうか?」
赤信号で停まった時、土門はだしぬけにそう言ってきた。
「対処法ですか?」
「今回のような事がまた起きないと限らないし、店がオープンしたら、俺もそれなりに時間に拘束される。自衛策があれば、御手洗さんも安心だろ?」
「え!?それって、私にも陰陽師のお祓いができるって事ですか!?」
「いや…さすがにそれは無理だが、霊力のない人間でもできる方法はあるから、それを教えてやる。どうだ?」
「はい!それはぜひ知りたいです!」
インターネットに転がっている情報は真偽が分からないし、危ない方法が混じっている可能性だってある。プロに教えてもらえるとは、またとない機会だ。
「じゃあその代わり、頼みを聞いてくれるか?」
「何をすればいいんですか?」
「店の情報発信を請け負ってほしい。SNSアカウントの管理、もし可能ならホームページの作成もやってもらいたい」
唐突な話に面食らっていると、土門はいきさつを説明してくれた。
どうやら、弥生が紹介した剣一のバンドのSNSを見たらしく、そこに載っている写真が一眼レフカメラで撮られたのだと気づき、撮影者が弥生だと思い至ったそうだ。
写真は詳しくないが、色々な角度から撮影された写真で、ライブの雰囲気がよく伝わってきた、という感想も添えられた。
一応見てはくれたのかと、少し照れくさい。
「でも、私なんかでいいんですか?」
「内部事情を知る人間は近くにおいておきたいし、それなら店に出入りする理由もできるだろ?」
それはつまり、定期的にパティスリーに来てもいい、という事だ。
また、土門と音羽に会いに行ける。
弥生にとっては嬉しく、楽しそう、という高揚感があった。
「…じゃあ、ちゃんとできるか自信ありませんが、お引き受けします」
「あぁ。撮影に使ったケーキは、食べるなり持ち帰るなり、好きにしていいぞ」
「それはやりたいです!是非やらせてください!」
なんだ、食欲か?と土門は笑った。
また赤信号で停まったところで、目の前を一台のバスが通過していく。
あ…と二人同時に間の抜けた声が出た。
「すみません、もう二つ先までお願いします!」
「…もうこのまま家まで送った方が早くないか?」
土門は渋面を隠す事なく、青信号で発信する。
実はこの車、揺れが酷くて乗っているのが余計に怖いのだ。
雪道だからなのか、あるいは運転が荒っぽいからなのか。
車にあまり乗らない弥生には、よく分からなかった。
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