4ー1 呪詛返し

「三分引き付けろ」


 土門がそう言うや否や、猫は前足を上げ、抑えていた女を薙ぎ払った。


 部屋の端に飛ばされた女は、辺りを探すように視線を泳がせる。


 自分を探しているのだと気づき、一斉に肌が粟立つ。


 すぐさま距離を詰めた猫は、女と取っ組み合いを始めた。


 猫の長い体に、女の長い腕が絡みつき、転がり離れ、睨み合うを繰り返す。


 両者が転がるたびに派手な音が響くが、何故か辺りに置かれたものは倒れるどころか、揺れてすらいない。


 一方、後ろ姿しか見えないが、直立不動で何か唱えている土門の手には、紙人形がある。


 ヒトガタだ、と弥生は思い至った。


 女を再び足で押さえつけた猫は、獲物の喉笛をめがけて噛みついた。


 鋭い牙が、しっかりと首に食い込む。見ている弥生も、首のあたりがムズムズしてきた。


 ぎぃぃぃ!と苦しげに呻く女は、異様に長い腕を何度も猫に打ち付ける。だが猫は一切怯まない。

 まさにハンターだ。


「音羽!」


 土門の呼びかけに、猫が顔を上げる。

 あの猫、やっぱりあの音羽さんなんだと、弥生は頭の片隅で呑気に考えていた。


 土門はゆっくり女に近づくと、手にしたヒトガタをふっと放った。同時に、猫が口を離す。


 瞬きした一瞬で、女の姿は消え失せていた。


 何が起きたのか、全く分からない。

 まるで編集された動画を見ているようだ。ヒトガタはふわふわと揺れながら床に落ちる。

 土門はそれを拾い上げた。


「博臣様、如何いたしますか?」

「このまま呪詛返しだ。確実に実行者へ返せ」

「承知いたしました」


 猫は恭しく頷いてみせると、口の中にヒトガタを収めた。


 そのまま窓の外に向けて跳躍すると、音もなく消える。


 それを見送ると、土門は先ほどのチョキを閉じたような指先を、左腰に持っていった。


 左手で作った輪の中に指を入れる様子は、鞘に刀を戻す所作にも見えた。


 その状態のまま同じフレーズを三回唱え、ぱちん、と指を鳴らす音が一回。


 その瞬間、辺りを漂っていた臭いも、閉じ込められたような重苦しさも、霧散していた。


「…立てるか?」


 喋るなと指示した弥生に向けられた問いが、事の終わった合図になった。


「は、はい…大丈夫です」


 まだ少し膝が震えているが、どうにか立ち上がってみせた。


「体も、なんともなさそうだな」

「…あれ。頭、痛くなくなってます」


 嘘のように肩が軽いし、吐き気もしない。

 妙に清々しい気分だ。


「優子に似ていたな」


 弥生も気になっていた事を、土門が口にした。


「やっぱり…優子が呪いをかけていた、からなんですか?」

「分からないな。もしそうだったとしたら、今朝顔を合わせた段階で気づけるはずだ」


 不意に、呪詛返し、と土門が言ったことを思い出す。


「もう、何の心配もしなくて大丈夫なんですか?」

「あぁ。音羽は有能だからな。呪詛は確実に術者に返される」

「あの猫、やっぱり音羽さんなんですね」


 土門は、先程弥生から回収した札を奥の祭壇に置いた。


「あぁ。俺の式神だ」

「式神?」

「陰陽師が使役する存在だ。雑用から呪詛返しまで、色々な役目をこなせる」


 陰陽師が出てくる映画でも、そのような説明を聞いた記憶があった。

 それも疑問ではあったが、聞きたいのはそこではない。


「呪詛返しって…呪いを返すって事ですよね?優子は大丈夫なんですか?」


 そっちの事か、と土門が続きを喋ろうとした矢先、やけにメルヘンチックなベルの音が階下から響く。


 大音量のスマートフォンのタイマーは、どうやら土門のもののようだ。


 厨房の入り口で待っててくれと言われ、再び一階に降りる。

 急に現実が戻ってきたが、頭の靄がまだ晴れていない。


 店舗と厨房をつなぐドアが少し開いていたので、何となく中を覗いてみる。


 まず目についたのは、床に直置きされた大きな電動の泡だて器だ。


 更に同じ形で卓上サイズのものが二台、シンクの上にも並んでいた。


 業務用サイズの冷蔵庫やオーブン、大小様々なサイズのボウルやバット、泡だて器、パレットナイフなどこまごました道具の姿も見えた。


 改めて、ここがパティスリーだと思い出す。


 奥の扉から入ってきた土門は、再びエプロンと帽子と眼鏡をつけていた。


 場面ごとに眼鏡をつけたり外したりには、何か意味があるのだろうか。


 土門はオーブンの戸を開け、先程音羽が入れた天板を取り出した。


 あと十分、とカウントしていたのは、どうやらこのためだったようだ。


 弥生の立つ場所まで、バターの焼けるまろやかな香りが漂ってくる。


 可愛らしく膨れたパウンドケーキを、土門は軍手を嵌めた手で一つずつ型から外し、網の上に載せていった。


 どこからどう見ても、パティスリーで働くパティシエにしか見えない。


 もう一つの生業で陰陽師をやっている、というのが嘘のようだが、そうなると先ほどの出来事の説明がつかない。


「あの呪詛は、素人には到底無理なレベルだ」


 どうやら、続きを説明してくれるらしい。


「恐らく依頼者と実行者が別々のパターンだ。呪詛が返された時、依頼者に行くようにして身を守る奴もいるが、音羽なら大抵の術は突破できる」


「つまり、優子に実害はないって事ですか?」

「そうだ。確実に、呪詛は実行者に返されるからな」

「でも、誰かは痛い目に遭うんですね」


「…呪詛は、呪詛返しされる危険も含めて行うものだ」


 土門は他にも何か言いたそうだったが、言葉を続けた。


「相手も術者である以上、それは承知済みのはず」

「そういうものなんですか?」

「そういうものだ。御手洗さんが気に病む必要はない」


 冷酷な言い方だが、一方でどこか納得できる部分もあった。


「呪っていいのは呪われる覚悟がある奴だけ、ですか?」


 並んだケーキの上に白い布巾をかけながら、面白い例えだな、と土門は笑った。


「まぁ、アニメの受け売りですけど」

「人を呪わば穴二つ。いずれにせよ、軽々しく手を出していいものじゃない」


 軍手を外したところを見るに、作業は終わったようだ。


「優子の家は知っているんだろ?」

「はい。ここからだと歩いて十五分ぐらいです」

「パウンドケーキを冷ますにはちょうどいい時間だな」


 その意図は、コミュニケーション下手な弥生にも汲み取れた。


「やっぱり行くって話になりますよね…」

「呪詛が優子の似姿で現れた以上、百パーセント無関係ではないだろうからな。そこは確かめておいた方がいい」

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