3-3 呪詛
おんみょうじ?
弥生の凍り付いた思考回路の中で、その単語が繰り返される。
何だったっけ?アニメか映画で聞いたような気がするけど…。
それを問いただしたかったが、今はやめた方がよさそうだ。
猫が急に動きを止め、土門の立ち位置より、少し前に後退する。
灰色人間は全滅していたが、腰を高くする猫の威嚇ポーズに、まだ事態が終わってない事を悟った。
「博臣様、別のモノが近づいています」
こちらを振り返った猫は、鋭い牙の並んだ口を開け、明瞭な言葉を女性の声で発した。
弥生は、色々な意味で耳を疑った。
猫が喋った事のみならず、その声の主は、弥生の知っている人物のものだったからだ。
「分かっている。こちらが本命のようだな」
土門は正面から一切目を離さない。
弥生の見ている前で、ゆらりと水面が波打つように、部屋の奥の空気がたわむ。
水位が下がっていく様子を真上から見ているように、それは徐々に姿を現した。
女だ。ただし、異様に背が高く、手が不自然に長い。
腰まで伸びた長い髪は、まるで生き物のようにのたうっている。
弥生は、今朝見た夢を思い出していた。
夢では見えなかったその顔に、弥生は息を呑んだ。
「…優子?」
女の目が、明らかに弥生を捉える。
頭蓋骨の目の窪みのような、虚ろな穴。
ばん!と激しい音が響いたと思った途端、弥生は正面から肩を強く押された。
女は、土門の目の前に迫っていた。一瞬で距離を詰められたのだ。
後ろによろけ、尻餅をついてしまう。
立ち上がろうとするが、足に一切力が入らない。膝が震えてしまっている。
だが土門は微動だにしない。
肩を押された瞬間に、縦と横に引かれた線が、土門の前で光ったように見えた。
その線に怯んだ様子の女を、背後から猫が前足で押し倒した。
ぎぎっ!と、虫を潰すような不快な音がつんざく。
長い手をばたつかせ、女はもがいていた。
「そのまま足止めしてろ」
「承知しました」
やはりあの猫の声は、着物姿の音羽のものだ。
頭の情報処理が追いつかない。
土門は腕時計を見て、あと十分か、と呟くと、唐突に弥生の方を振り返った。
「こいつが御手洗さんにかけられていた呪詛だ」
「呪詛…ですか?」
「呪いの事だ。決して強くはないが、一般人が触れ続けて平気でいられるものじゃない」
体調悪いんだろ?と聞かれ、弥生は答えられなかった。
疲れや、風邪だと思っていた症状は、呪いによるものだったという事なのか。
「…触れ続けたら、どうなるんですか?」
「名前のつく病気か、大けがでもして入院かもな。最悪、死ぬ事だってあり得る」
煽るふうでもなく、土門は冷静に『死』を口にした。
死ぬ?私が?
死んだらどうなるの?
お父さんとお母さんに会えるの?
会えるなら…会ってみたいな。
弥生がそう思った途端、猫が抑えていた女が、大きく暴れた。
猫は更に体重をかけ、それを阻止する。
「思考が死に傾いているな」
まるで弥生の心を読んだかのような言葉だ。
「あんたにも友人や家族がいるんだろ?あんたはその人達に、死を望まれるような人間なのか?」
徐々に怒りが募ってくるのを感じる。
「…分かったような事言わないでください」
私に家族はいない。友達だって…優子だけだ。
「私はあなたの事知らないけど、あなただって私の何を知ってるっていうんですか!?」
弥生の精一杯の怒りを受けても、土門はやはり、一切動じない。
「そうだな。過ごした年月だけで言えば、俺は優子に遠く及ばない。でも、御手洗さんを見ていたら、分かる事だってある」
「え…?」
「名刺交換した時、俺の店に興味を持ったから、取材したいと言ってくれたんじゃないのか?幼馴染が出るライブを、本当に楽しみにしていたから、俺に伝えてくれたんだろ?」
思いがけない言葉に、弥生はリアクションができなかった。
単に、仕事だったり頼まれたりしただけだ。
「それに、なぜ俺の作ったケーキの写真を見たいと言ってきたんだ?」
「それは…」
あの時見せてもらった、素朴で可愛らしいケーキの写真を思い出す。
「…あなたみたいに無骨そうな人が、どんなものを作るのか、見たかったから…」
はぁ?と頓狂な声には、苦笑いが混じっていた。
「それ、誉め言葉なのか?」
「いやその…もちろん誉め言葉に決まってるじゃないですか!」
状況も忘れ、恥ずかしさで顔が熱くなるのを感じる。
それはどうも、とぶっきらぼうな声は、どこか優しく感じられた。
何かが、弥生の中に沁みわたっていく。
「色々苦労は絶えないのかもしれないが、それでも、自分なりに責任を持って、物事に向き合っている人なんだと思った」
何故ここまで言い切れるのだろう。
この二日間で、ほんのわずかな時間を過ごしただけだというのに。
「俺自身は、あんたを助けたいと思っている。だから、あんたの口から聞かせてほしい」
弥生を見つめる目には、一切迷いがない。
ぐちゃぐちゃになっていた思考が、すっと鎮まるのを感じた。
「あの呪詛を、どうしてほしい?」
「…祓って、ください」
土門は小さく笑って、分かった、とだけ言った。
弥生はこの時初めて、土門のズボンのポケットに薄手の缶が挟んであるのを見た。
ペンケースのような缶から、あの縦長の紙片を取り出す。
何かを唱えながら、チョキを閉じた指で紙片をなぞると、ふっと息を吹きかける。
「あいつから御手洗さんを見えにくくする。だから、終わるまで一切声を出すな。できるな?」
頷きながら、ごくりと呑み込んだ息が苦しい。
土門はかがみこんで、弥生に紙片を貼ろうとした。
その手が、不意に止まる。
「怖いか?」
「…怖いですよ」
恐怖で浅くなっていた呼吸で、どうにか声を出す。
「でも独りじゃないから、怖くないです」
視線を上げると、土門と目が合った。
強くて真っ直ぐなその目が、ふっと綻ぶ。
「必ず無事に家に帰してやる。もう少し待っててくれ」
土門はそれだけ言って、弥生の喉の窪みの下あたりに紙片を貼った。
糊も何もないのに、体に吸い付くように固定される。
「今から十分間…いや、八分間は、何が起きても無言で頼むぞ」
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