3ー2 もう1つの稼業

 相変わらず雪の降りしきる坂道を、弥生は黙々と歩いていた。


 優子の涙を思い出すと、具合が悪いなど言っていられない。

 怒り任せに足を踏み出し、何度も滑りそうになりながら、急な坂道を登り、いくつかの角を曲がる。


 目的地…パティスリーシノノメには、難なくたどり着けた。

 一階には明かりがついている。


「土門さん!いるんですよね!開けてください!」


 鍵のかかった正面入り口を、弥生は力任せに叩いた。

 三回目を叩こうとしたところで、磨りガラス越しに男の影が見えた。

 カラカラ、と軽快な音を立てて引き戸が動く。


「…近所迷惑だろ。静かにしてくれ」


 黒いエプロンと黒いキャップ姿の土門は、弥生の姿を見ても不思議がる素振りを見せなかった。


 促されて入った正面には、ガラス張りのショーケースが鎮座していた。

 真新しい木のにおいが鼻を突く。

 土門は空のショーケースにもたれかかり、弥生が何か言うのを待っているようだった。


「優子に何であんな言いがかりをつけたんですか!?私たちの事よく知りもしないで、勝手な事言わないでください!」


「……」


「ライブの事だって、一体どういうつもりなんですか?昨日は来てくれて感謝してますが、どうもあなたの事が信用できません」


 土門は何も言わない。何か言い続けた方がいいのかと焦り始めた時、不意に辺りの空気が変わった。


「…おい。言いたい事はそれだけか?」


 体の重心を揺さぶってくる低い声に、頭の血が一気に下がった気がした。


「まず俺に言う事があるんじゃないのか?」


 怒っている、などという生易しいものではない。


 冗談抜きで、本当に人でも殺せそうな目だ。

 二十数年の人生の中で、そのような目を向けられた事は一度もない。


 ただ恐怖で縮こまるしかなかった弥生に、土門は「ひな人形」と一言吐き捨てる。


 弥生は、ようやく今朝の出来事に思い至った。


「あっ…ぶ、無事に見つかりました。助けて頂いて、ありがとうございました」


 助け舟を出してもらった事を忘れていたと、露呈したも同然だ。


 土門の大きなため息に、顔から火が出そうな気分になる。


「あの職場ではずいぶん信用されていないようだな。そういう所にも原因があるんじゃないのか?」


 もっとも過ぎて、誤魔化すように頷く事しかできない。


「まぁそれはいいとして…一つ聞こうか」


 これでは完全に形勢逆転だ。

 なすすべもなく、土門の言葉を待つしかない。


「優子、とは俺が会話したもう一人のスタッフだな?長い付き合いだそうだが、『私のために死んでほしい』と彼女に言われたら、御手洗さんはどうする?」


 予想の遥か上を行く問いに、咄嗟に言葉が出てこなかった。


 何か言わなければ、と思い浮かべた優子は、先ほどのように泣いていた。


 そんな事を言う時は、きっと優子は切羽詰まっているのだろう。


 それが優子のためになるなら。


「…死にたくはないですが、優子がそう言うなら、仕方ないのでそうします」


 土門はただ黙って弥生を見ていた。


「もう一つ聞く。最近優子から何か受け取ったか?」


 あのお札を受け取ったシーンが頭をよぎり、また心臓が跳ね上がる。


「あ、ありませんよ!もらっていたとして、あなたに関係ないでしょう!?」


 彼女に恨みでもあるのか?何故優子にここまで固執するのだろう。


 一瞬、またあの腹を探られるような視線を向けられる。


 信用できない、は言い過ぎだったかもしれないが、得体が知れない、という感覚が一番近い。

 どうにもこの男が掴めない。


「…分かった。いいだろう」


 土門は、背にしていた厨房の戸を開けた。


「音羽。クッキー生地はもう終わるな?」

「はい。冷蔵庫に入れるだけです」

「片づけたらこっちを手伝ってくれ」

「かしこまりました」


 土門の手には、新しい青いゴム手袋が握られていた。


「御手洗さんは、音羽が来るまでここで待ってろ。間違っても、ショーケースのガラスをたたき割るなよ」

「なっ…!しませんよ!そんな事!」


 必死の反論は、閉じた厨房へのドアに遮られてしまった。


 突っ立っていても仕方ないので、弥生はドアに嵌められた丸い小窓から、厨房を覗き込んでみた。


 作業台を挟んで立つ土門と音羽の間には、長方形のアルミ型がいくつも並んでいた。パウンドケーキの型だ。


 音羽が型にクッキングシートをはめ込んでいくそばから、ほんのり卵色をした生地を、土門が流し込んでいく。

 まさに流れ作業だ。


 ボウルは三種類あり、よく見たら弥生が昼間に食べたオレンジピール入りのものもある。


 オープン予定日まではまだ二週間ほどあるから、今朝のように、どこかに配る用のものを作っているのかもしれない。


 生地を入れ終わったところで、土門は厨房奥の別のドアから出ていった。二階に続く階段があるらしく、ギシギシという足音が聞こえてくる。


 一方の音羽は、彼女の肩幅ほどもある天板にパウンド型を並べ、大きなオーブンに入れた。デジタルの表示板を操作していくと、オーブン内部が赤々と光りだした。


 土門は上で何をしているのだろ。


 先ほどの殺気は怖かったが、冷静に考えれば、怒るのは当然だ。

 だが、優子につけた言いがかりは見過ごせない。


 もやもやが解消できないまま音羽が来るまでの間、弥生は立ち尽くしていた。


 土門が上がったのとは別の、ギシギシ音が激しい急な階段を案内され、弥生も二階に上がる。


 二階はカフェになるようで、テーブルなどの備品が並んでいた。


「あちらから上にどうぞ。店長は、そこにいますから」


 音羽が促す先は、更に上の屋根裏部屋のようだった。


 頑丈そうな梯子が降りており、それで行き来ができるようだ。

 追い詰められているようで少々不安だが、ここで逃げるわけにはいかない。


 意を決して上がった梯子の先は、海外の映画であるような、板張りのだだっ広い空間だった。


 二階とほぼ同じ面積なので、かなり広く感じる。


 土門は、こちらに背を向けて佇んでいる。


 彼の目の前には、何やら木製の祭壇のようなものが組まれていた。


 弥生にはそのあたりの知識が乏しいが、神社や、神道式の結婚式でありそうな雰囲気のものだ。


 もちろん、パティスリーには不釣り合いな備品である事は明白だ。


 黄色信号が、頭の中で点灯する。


「梯子を上げて、扉を閉めてもらえるか?」


 弥生に向き合った土門は、また眼鏡をはずしていた。先ほどの黒いエプロンと帽子も外し、Tシャツの上に薄手のパーカーを羽織ったラフな格好になっている。


「お断りです!退路は確保させてもらいます。宗教の勧誘でもされたら、堪ったものではありませんからね!」


 弥生にしては渾身の返しだったのだが、土門にはため息一つで一蹴されてしまった。


「…まぁいい。始めるぞ」


 土門は、手に持っていた何かを口元に当て、フッと息を吹きかけた。それを弥生の方に放る。


 とっさに身構えるが、それは縦長の紙片だった。まるで紙飛行機のように、弥生の横を滑っていく。


 紙片は、弥生の少し後ろの方で、ぴたりと止まった。

 まるで見えないピンで、空中に留められたように、動かない。


 どういう仕掛けだろう?


 土門は弥生の隣に立つと、右手を前に差し出した。


 じゃんけんのチョキの、人差し指と中指を閉じた状態の指先を、すっと右上に振り上げる。


 つい、綺麗な所作だと思ってしまった。


 その手を胸元に当て何か呟く。


 速すぎて聞き取れないが、神社の神職の動きを見ているようだ。


 再び正面を向いた弥生は、目を疑った。

 紙片のあった辺りに、自分がいたからだ。


 もう一人の弥生は、ぼんやりとしたまま微動だにしない。


「あ、あれ…私?」

「昨日音羽に介抱させた時、髪の毛を一本もらった。それをもとに作った形代だ」

「かたしろ?」

「早い話が身代わりだ。あの灰色の奴らをおびき出すためのな」


 土門の言い方があまりに淡々としているので、聞き逃すところだった。


 灰色の奴ら。


 弥生は、土門にその話は一切していない。


「何でそれを…」

「見えてるんだろ?幽霊」

「じゃあ、土門さんも…?」


 その質問に土門は答えなかった。だがそれは、イエスという事だろう。


 同じ立場の人間に出会ったのは初めてだ。

 それは嬉しいが、これから何が起こるのか、皆目見当がつかない。


「御手洗さんにとって、優子は親友か?」

「もちろんです。ずっと一緒に過ごしてきた、友達です」


 先ほどの続きなのだろうか。この場と優子が繋がらない。


「学生時代は、いじめられていた私の矢面に立ってくれました。今だって、仕事で嫌な事があっても、弥生は悪くない、弥生は間違っていない、周りの声なんて気にしちゃダメだって、励ましてくれるんです」


 土門の鋭い目が、ほんの少しだけ細められる。


「…なるほど。人生の支えだったわけだな」

 そこに浮かんだ何らかの感情は、この時の弥生には読み解けなかった。


 次の瞬間、強烈な悪寒が弥生を襲った。

 重苦しく、下水道に閉じ込められたような閉塞感。心なしか、照明の明度が落ちている気がする。


 屋根裏部屋の空気が変わっていた。


 あの臭いが立ち込めてきて、とっさに土門に一歩近寄る。


「…来たな」


 土門の声に呼応するように、あの灰色人間達が床から湧き上がってきた。


 今までで一番数が多い上に、昨日なかった手には、長く鋭い爪が伸びていた。


 だが、灰色人間達は凍り付く弥生には目もくれない。

 二人の少し先に佇む、弥生の形代を取り囲むようにして、じわじわと距離を詰める。


 ざわめく声が、さざ波の如く押し寄せる。

 ひそひそ声、笑い声、噂話、悪口、陰口、嘲笑。

 今まで弥生に向けられてきた、負の声だ。


 オマエ、イラナイ。

 キエテシマエ。


 鋭い爪で、弥生の形代をばらばらにしていく。

 灰色の影が、更に湧き出てくる。


 ソウシタラ、トテモユカイ。

 オモシロイ。


 アハ、アハハ、と無機質な笑いが上がる。


 合唱のように、響き渡る。


 何がそんなに面白いというのだろう。


 今までの半生で体験してきた、あらゆる嫌な出来事を、追体験させられた気分だ。

 頭が激しく痛み、吐き気もしてきた。


 もう嫌。消えちゃいたい…。


 息苦しさのあまり叫び出したくなるが、肩を叩かれ、我に返る。


 土門が険しい顔で、首を横に振った。

 耳を貸すな、と言われたような気がして、少しだけ冷静になる。


 形代からは血も出ないし、声も出ない。

 ただされるがままに、細切れになっていく。反論もせず、小さくなるしかない。


―いつもの私も、こんな状態なのかな。


「そろそろいい頃だな」


 何の事だろうかと思った、刹那。

 別の匂いが辺りに立ち込めていた。

 枯れ木と砂を合わせたような匂い。

 ひび割れた荒れ地をイメージした、次の瞬間。


 大人でも乗れそうな巨大な体躯の猫が、床からにゅうっと這いあがってきた。


 あり得ない大きさに、また声が出そうになってしまうが、不思議と怖い印象はない。


 頭から背中にかけてはベージュのような薄茶色で、腹の部分が白い。茶白猫だ。


 根本で二又に分かれた尻尾が、ゆらゆらと揺れている。


―あれ、猫又って言うんじゃ…。


 猫はちらりとこちらを、否、土門を見た。

 金色に光る眼は、紛れもない猫のそれだ。


「全部やってくれ」


 猫としっかり目を合わせたまま、土門が小声で言う。


 それが合図だった。


 泣いた赤ん坊の声とも形容される、甲高い鳴き声とともに、猫は音もなく灰色人間に飛び掛かった。


 それは、まさに蹂躙だった。


 噛みつかれ、引っ掛かれた灰色人間は、呆気なく粉々に砕かれていく。

 シュレッダーで裂かれた紙が、雪のように舞っているようだ。


 灰色人間が裂けていくたびに、悲鳴のような不快な音が鼓膜を震わせる。

 腐った水の臭いは、一層強くなってきた。

 鼻を覆えばいいのか、耳を塞げばいいのか、もう分からない。


「さっき、俺の事を信用できないと言ったな」


 現実味のない光景の中で、土門の冷静な声だけが、現実味を帯びていた。


「信用できないのは結構だが、御手洗さんも俺に隠し事をしただろ」


 ぴたり、とこちらに据えられた鋭い目を、弥生はどこかで見た事があった気がした。


 無言で差し出される手。有無を言わさぬ空気に、これ以上耐えられない。


 弥生は観念して、手帳の間に挟めた、優子から受け取ったあの魔除け札を差し出した。


 土門はそれを見るなり、顔をしかめた。


「何と言われてこれを受け取った?」

「ま、魔除けのお札だって…」


 半ば強引に弥生の手からお札をもぎ取ると、両面を何度も確認する。


「逆五芒星に呪いの印。これは魔除けじゃない。悪いものを呼び寄せるものだ」


 不意に、弥生は先ほどの視線を、どこで見たのか思い出した。


 以前にテレビで見たドキュメンタリーで、ヒグマを撃つハンターに密着したものがあった。

 猟銃を構えて、辺りを警戒しながら森を歩くハンター。


 先ほどの土門は、そのハンターとよく似た目をしていたのだ。


 いったいどれが、この男の本当の顔なのだろうか。


「土門さん…あなた、一体何なんですか?」


 緊張で声がかすれてしまったが、ちゃんと言えた。


「昨日、旧手宮線で助けてくれた猫、大きさは違うけど、目の前のあの子ですよね?ここで初めて会った時だって…手を鳴らして灰色人間を追い払いましたよね?」


 隣の男は微動だにせず、弥生から目を離さない。


「本当に…パティシエなんですか?」

「…あぁ。その通りだ」


 僅かに視線が逸れる。


「もう一つの生業で、陰陽師をやっているだけだ」


 本業とは別で副業をやっている、というような言い方で、土門はその耳慣れない単語を口にした。


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