4.おかえりなさい

『お前の母さんはな、まだ赤ん坊だったお前を、虐待していたんだ』


 言いにくそうな父の声が蘇る。


 虐待に気づいた父は、離婚を言い渡した。

 そして、こんな田舎で暮らしていても仕方ないと、オレを連れて家を出た。


 ここまでは、オレの記憶。

 そこからは、母の記憶が、一・五倍速でみる映画のように流れていった。


 子育てに時間を取られ、好きな油絵が思うように描けない事に、母は仕方ないと思う一方で、描けなくなるかもしれないという、焦りも感じていた。


 父は子育てにかかわろうとしない。


 社交的とは言えなかった母は、誰にも悩みを言えずに、鬱々とした時間を過ごしていた。


 授乳期が終わっても、歩けるようになったオレから目は離せない。


 油彩画に使う道具には、誤飲したら危険なものもある。

 気を抜けば、先ほどの場面のような事態になってしまう。


 母は、オレが何かしでかすたびに、二の腕や腿をつねったりするようになった。

 それだけで満足できなければ、頭を叩いたりした。

 その痕跡に父が気づき、母は独りになった。


 がらんどうになったこの家で、母は油絵を描き続けた。

 それは評価され、仕事としての依頼も舞い込むようになった。


 それなのに、心は満たされなかった。


 少しずつ、母は人を寄せ付けなくなっていった。


 絵の仲間、ご近所の人、そして親類さえも。


 最後にはアトリエで体調を崩し、どうにか救急車を呼べたが、治療が間に合わずに母は死んだ。


 ごめんなさい。


 青ざめた顔で、ぼさぼさの髪の母は、オレの前で泣き崩れた。


 正直小さいから覚えていない。

 それでも、自分に害をなした人物に会う気は起きない。


 美術の先生に、お母さん油絵やっている人だよね?と聞かれ、初めて母がその界隈では有名だったのだと知った。


 それでも気は変わらず、オレは成人した。


 母の死の知らせには驚きこそしたが、それ以上の感情は湧かなかった。


 だが、日本人のルーツを研究する民俗学に触れるうち、自分のルーツが気になりだした。


 避けては通れない、母の存在。


 今でいうところの、産後うつだったのかもしれない。

 母の絵を、姿の写った写真を、画像検索するだけでは、オレも満たされなくなっていた。


 何を話せばいいのか分からない。けど。

 会ってみたかった。

 話をしてみたかった。


 お母さん。


 母が顔を上げる。


 涙で濡れ、ぐしゃぐしゃの顔。

 もう少し人に、家族に、あの子に優しくできていたら。


 母の後悔も、孤独も、全てがオレに流れ込む。


 それが母を、こんな顔にさせたのだ。

 それが母の命を縮めたのだ。

 いつの間にか、オレも泣いていた。



 パン!と乾いた音が響き、赤い夕陽の、ほこりにまみれた廊下が戻ってきた。


 手を鳴らしたのは、土門さんのようだ。


「言っただろ?何のためにここまで来たんだって」


 そうだ。その通りだ。

 全部腑に落ちた。


 オレはスマホをいじりながら歩いていて、急に視界が暗くなり、気づいたら小樽運河にいた。


 事故の衝撃で吹き飛んでしまったであろうスマートフォン。それを音羽さんが拾ってくれた。


 土門さんも、おそらく最初から気づいていたんだろう。

 その上で、ここまで付き合ってくれたんだ。


「二人で行くといい。積もる話は、まだまだあるだろう」

「はい。そうします。ありがとうございました」


 母のアトリエ部屋から、白く輝く光が漏れる。

 進むべき方向は、決まったようだ。


 オレは母の背中をさすりながら、部屋に入ろうとして、もう一度振り返った。


「最後に一つだけ…土門さん、一体何者なんですか?」


 土門さんは、完全に不意打ちを食らったような顔をした。


 一瞬の変化だったが、この人も人間なんだと分かって、何故か安心してしまった。


「何者も何も、ただのパティシエだ」


 言い切る土門さんからは、それ以上の質問は認めないオーラが出ている。


 いやいや!霊符といい、刀印を切る振る舞いといい、どう見ても神社の神主か…。


 さもなくば、陰陽師だ。


 音羽さんは猫又だったみたいだし…いや、土門さんが陰陽師だとすると、もしや妖怪を調伏した式神って事か?


 うわー…マジモンの陰陽師、ほんとにいたんだ。

 話聞きたかったなぁ。


 オレは逡巡し…それ以上突っ込まない事にした。


「分かりましたよ。そういう事にしておきます」


 これがまた心残りになって土門さんの前に現れようものなら、今度こそ音羽さんに嚙み殺されそうだ。


「ほら音羽。何か言う事があるだろ」


 土門さんの後ろから、しゅんとした表情の音羽さんが出てくる。

 正体は猫なのに、こういう表情は人間っぽいなぁ。


「…先ほどは驚かせてしまい、申し訳ありませんでした」

「いやいや、滅相もない!オレの方こそ…土門さんに怪我がなくて、よかったです」


 一瞬の間。


 顔を上げた音羽さんと視線が合う。くりくりの愛らしい目が、ふっとほころんだ。

 オレも、自然と笑っていた。


「お母様と再会できて、良かったですね」

「はい。音羽さんも、色々ありがとうございました」


 光が先ほどより強くなる。今度こそ、その時のようだ。


「この先の世界は、あなたが想像した通りの世界ですよ。妖怪にも、会えるといいですね」


「本当ですか?」

「あぁ、そうだ。俺なんかと話すより、よほど面白いだろうさ」


 そう言って、土門さんも小さく笑った。


 そうか。それは、嬉しいなぁ。


 オレと母は、もう一度二人に頭を下げ、光をくぐった。

 温度は感じない。

 それでもそれは、魂がほぐれていくような、優しい光だった。

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