3.ただいま

 石が敷かれた土間を上がると、向かって右手に書斎、左手がリビングだった。

 当然家具はなく、床に積もったほこりが、ここが長らく無人であると示していた。


 大きな窓からは、やけに赤い夕陽が差し込んでいる。


 裏には小さいが庭があり、市街地を一望できた。

 夕陽に沈むビルのシルエットは、暗く濃く、現実感がない。


「二階にいってみるか」


 土門さんは、昔の家屋特有の、急な階段を指さした。


 心臓がばくばくしてくる。口の中はからからになっていた。

 二階に行ってはいけないと、何かが命じている。


「…オレは、行けません。帰ります」


 土門さんは、じっとオレを見つめたまま、動かない。何を恐れているんだ?オレは。


「ここもう、古民家じゃなくて廃屋ですよね。こんな場所に油絵があっても、きっと傷みすぎて修復もできないですよ」

「じゃあ、なんのためにここまで来たんだ?」


 怒っているわけじゃない。土門さんは、あくまで冷徹だった。


「背を向けるのは簡単だが、そうすれば二度とここへは戻れないぞ」


 どういう意味だろう。だが突き放すそれとは違う、何か別の感情が流れているようだった。力強く…背中を押してくれる気がした。

 その通りだ。怖いものなど、ありはしない。


 オレは意を決して階段を上った。


 二階には、Ⅼ字型の廊下に沿って部屋がある作りで、それぞれの部屋には窓がついていた。

 廊下の角が、あの絵を描いた場所だろう。

 土門さんが無言で、正面をすっと指さす。


 こちらに背中を向けて蹲る人影。うっすら輪郭だけ見える姿は、SFでよくある光学迷彩のカムフラージュのようだ。


 何かがそこにいる。


 ヒュウ……オオ……。


 風とも声ともつかない音が不気味に響く。

 オレは何故かそれが、母だと思った。


 お母さん。


 一歩踏み出すと、足元でぼたりと湿った音がした。


 え?


 夕陽の中でなお赤い。紅い。


 血だった。

 それは、オレの体からぼたぼたと垂れていた。


 え?


 両腕を上げてみる。

 肘から下は、使われていない時のアメリカンクラッカーのように、ぶらぶらと揺れていた。


 肉が潰れ、骨が折れ、腕の原型を留めていない。

 もっと体を見ようとするが、不意に視界の前後がひっくり返った。


 わあっと思わず声が出る。後頭部に自分の背中を感じながら、オレは尻餅をついてしまった。


 逆さになった世界に佇む土門さんは、何故か眼鏡を外していた。


「まだ思い出せないか?」


 土門さんは、ゆっくりとスマートフォンを、オレの顔に近づけた。

 そこには、ニュース映像の動画が流れていた。


『今日午前〇時頃、××県△△市で、建設現場から鉄骨が落下し、通行人が巻き込まれる事故が発生しました』


 画面には、中途半端な姿の、ビルの建設現場の空撮が映し出される。


『この事故で、現場を歩いていた同市□□の大学院生、※※ ※※さんが、鉄骨の下敷きとなり……』


 え、今の、オレの名前。


「思い出したようだな」


 土門さんはスマートフォンを操作し、再び画面をオレに向けた。


 ミラーモードで起動したカメラアプリには、首が折れ、背中でぶらぶらさせている、血だらけのオレの姿が映し出されていた。


「オレは…死んでいるんですか?」

「そうだ」

「死んだなら、なんでここにいるんですか?」

「それがお前の心残りだったからだ」

「はは…そんな、ご冗談を」


 心残り?それじゃ本当に、オレが死んだみたいな言い方じゃないか。


 土門さんはスマートフォンをしまい、代わりに何かを取り出した。


 縦長の紙片に、縦書きで何かが書かれている。

 漢字の羅列と、呪術的な意匠。

 あれは、霊符?


「こうやって喋れるし、動けているのに、なんでそんな事言うんですか?」


 オレは苛立ちを努めて抑えたが、土門さんは一切ひるまなかった。


「首が完全に折れて、脊椎も逝ってるのに、生きていられる人間はいない」

「うるさい!」


 土門さんが数歩飛びのいた瞬間、両脇のガラスが激しく割れた。


 無表情のまま、視線をぴたりとオレに合わせてくる。

 素早い身のこなしといい、眼鏡がなくなって鋭さを増した目は、まるで狩人だった。


「なんでそんなに冷静なんだ!オレはこんなに痛いのに……」


 痛い?

 あれ?


「え…なんで、痛くないんだ?」


 コンナニチガデテイルノニ


 次の瞬間、割れた窓からぶわっと湿った風が吹き込む。獣特有のにおいが、鼻を突いた。


 ゥワァォォォォォォォン!

 

 赤ん坊の声とも形容される、不安を誘う鳴き声が、オレの体内から全身を震わせた。


 それは、廊下の幅いっぱいの、巨大な体躯の茶色い猫だった。


 土門さんを守るように立ち塞がった猫は、全身の毛を逆立て、金に輝く目は、怒りをたぎらせてオレを捉えていた。


 食われる。

 背筋が凍った。


 ふと、猫の背後で揺れている尻尾に目が行く。

 尻尾は根本から、二本に分かれていた。


 あれは、猫又だ。


 オレは恐怖におののきながらも、猫又って本当にいたんだ…など、呑気に考えていた。


「音羽、落ち着け。俺はなんともない」


 猫又の後ろから、土門さんがゆっくりと現れた。

 今何て言った?


「ですが博臣様…!」


 猫又は、明瞭な日本語を発した。

 それも、聞き覚えのある声でだ。


「あいつはもう気づいている。無害なやつにいきなりフルスロットルで向かうな」

「…承知いたしました」


 若干不服そうにつぶやくと、巨大な猫又は一瞬で消え失せた。


 その場にいたのは、外で待っていたはずの、音羽さんだった。

 先ほどまでのにこやかさと打って変わって、不機嫌そうにオレを睨んでくる。


 オレはつい数秒前を思い出した。


 何故ガラスが割れたのか分からないが、一歩間違えば、土門さんが大怪我をしていたのではないか?


 そう気づいた途端、恐怖も怒りもしぼんでいった。


「あぁ…っ!ご、ごめんなさい!」


 何故だか急に、申し訳ない気持ちが込み上げてきた。


「ガラス、大丈夫でしたか?」

「あぁ。大丈夫だ」


 その言葉通り、顔も服も無事のようだった。安心して力が抜ける。


「そんな事より、さっきの疑問に答えてやる」

「えーと…何でしたっけ?」

「死んだのなら、何でここにいるのか。理由は二つある」


 土門さんは何かを囁きながら、人差し指と中指を立てた、じゃんけんのチョキを閉じたような形の指先で、先ほどの紙片をなぞった。


「お前の状態は、いわゆる浮遊霊だ。鉄骨が降ってきていきなり死んだから、状況が呑み込めていなかったのが一つ」


 そしてその紙片を、オレの体に張り付け、二枚目に取り掛かる。


「もう一つは、母親の事が気がかりで、それが心残りとして存在していた。いわば念だな。念は次元を超越する。時間も、場所も、軽々と飛び越えられるんだ」


「だから、オレは小樽に来られたんですね」

「そうだ。だが、あの母親は違う。この場所…家に囚われている、地縛霊だ。囚われている原因は、やはり心残りのようだな」


 土門さんは2枚目を、まるで紙飛行機でも飛ばすかのように、母の方へ放った。


「これで、互いの声が聞こえる。お互いに気がかりな事があるはずだ。話してみるといい」

「話すって、どうすれば…」

「話したいと、思うだけでいい」


 最後の一言は、オレにではなく、オレの向こう側に向けて発せられたようだった。


 視界が一気に白に染まり、再び廊下が現れた。

 ただし、ほこりだらけの床ではない。

 掃除の行き届いた床だ。


 オレの横を、赤ん坊が歩いていた。


 二歳ぐらいの男の子だ。壁に掴まりながら、拙い足取りで廊下を進む。

 少しだけ開いたドアの前で止まると、器用に戸を引いて中に入ろうとする。


 一瞬部屋の中が見え、イーゼルに置かれた絵が見えた。油絵だ。


 母のアトリエだ。


 オレの背後で、女が激しく叫ぶ。


 赤ん坊の腕を強く掴んだ女は、勢いよくドアを閉めた。

 大泣きする赤ん坊に、何かを叱責している。

 くっきりとくまが浮かんだ顔は青ざめ、髪もぼさぼさで、とても健康そうには見えない。


 あれが、ここで暮らしていたオレと母なんだ。

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