エピローグ
まだ雪深い、三月の小樽の夜。
土門博臣は、あの家屋の二階にいた。
とはいえ、もう廃屋ではない。
この家と隣の空き地を買い取った博臣は、一階をパティスリー、二階をカフェに、空き地は駐車スペースに改装した。
二階の真上にあった屋根裏部屋は、今後少しずつ改造を施す予定だ。
カフェの壁には、かつてここの家主だった画家の油絵が飾られている。
あの男の言った通り、管理がいい加減でかなり散逸してしまっているようだったが、それでも小さくて飾りやすい作品を、いくつか取り戻すことができた。
工事が始まる前に家をよく探したら、一枚だけ油絵が出てきた。
保護はされていたが、廃屋は油絵にとって過酷な環境である。損傷が激しかったが、プロの手でどうにか修復することができた。それが今日戻ってきたのだ。
博臣は、テーブルに置いた平たい段ボールの梱包を、丁寧に解いていく。
額縁に入ったそれを、決めておいた場所にかけた。
「素敵な絵ですね」
着物の上にカフェエプロン姿の音羽が、隣で絵を見上げた。
「そうだな。いい絵だ」
写真と見紛うような絵の中には、小さな五月人形と、幼い頃のあの男が並んでいる。
年齢は一歳の頃だろうか。初節句だったのかもしれない。
兜の鍬型を掴み、今にも倒してしまいそうな一瞬。
慌てふためく母親の声が、聞こえてきそうだ。
タイトルは、『この良き日』。
「明日は、博臣様にとっても良き日ですね」
「…感慨にふける暇もないほど、忙殺されたらいいんだがな」
明日はいよいよ、オープンの日だ。
オープニング記念の白桃のムースをはじめ、数十種類のケーキや焼き菓子は、明日ケースに並べられるのを、冷蔵庫で待っている。
「きっと千客万来ですよ」
「接客はできるだけ頼むぞ。このご時世、ちょっと不愛想にしただけで、すぐに炎上だからな」
「えぇ。お任せください」
何の脈絡もなく、音羽がくすくすと笑いだす。
「何が可笑しい?」
「いえ。博臣様は、以前はできるだけ他人と関わらないようにしていらっしゃるご様子でしたが、最近は少し変わられたと思いまして、つい…」
音羽は時々、何の前触れもなく妙な事を言い出す。「本質は変わっていないと思うがな」と、博臣は一蹴した。
「そうですね。でも、この場所に導いてくれた、あのお兄さんの時もそうですし…
「あぁ…」
博臣の脳裏に、数週間前の出来事が蘇る。
「彼女は相当問題を抱えていたんだ。対処できる以上は見過ごせなかった。それだけだ」
「ふふ。では、そういう事にしておきますね」
立場は博臣の方が上のはずだが、時折こうして逆転してしまう。
それはそれで、悪い気はしない。
音羽が楽しく、心穏やかでいてくれる事が、博臣にとっての平穏なのだから。
「あぁ。そういう事にしておいてくれ」
小樽市東雲町に、町名を関したスイーツ店がオープンした。
パティスリーシノノメ。
やがて小樽でも有名なスイーツ店になっていくが、一方でこんな噂も立つ。
「あそこの店主は、霊が視えるらしい」
その噂の真相は、また別の物語にて…。
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