晩夏

草森ゆき

挽歌

 一歳児を抱いた永瀬冬二が田舎にある俺の家を訪問し、よっぽど困っているらしく助けを求めてきた。男手一つで娘を育てる自信がないと永瀬は漏らした。気持ちはわかった。出来る限りは支援すると言えば、心底安堵した顔を向けられた。

「ありがとう、秋斗」

 そう言って笑った永瀬は、一歳児こと永瀬夏海が四歳になるまで俺の家にいた。夏の終わりの話だ。永瀬は車に撥ねられた。それは即死で、夏海を保育園に迎えに行く途中のことだった。

 俺は保育園に一報を入れ、病院に向かった。永瀬の顔には既に布が被せられていた。俺はぼんやりと遺体を見下ろしたあと、夏海を迎えに行かなければと思い、それは恐らく現実逃避だった。

 永瀬には身寄りがなく、つまりは夏海にも身寄りがなかった。俺は永瀬の元妻の話を一切知らず、だから頼ってきたのだろうと思って、わざわざ聞きはしなかった。

 父親の葬儀の真ん中で夏海は静かだった。俺の知り合いや親族、保育園関係の人間が集まる中で、夏海だけが一人だった。

 養護施設に入れるかどうか話し合っていると、子宝に恵まれなかった親戚夫婦が引き取りたいと言った。夫も妻も、真っ当な人達だった。良いのではないだろうかと話がまとまりかけたが、夏海は俺の服を掴んで離さなかった。

「わたし、あきとおじさんといる」

 四歳はたどたどしいがしっかりとした声で続けた。

「おとうさんが、おじさんといるから、わたしもそれがいい」

 方向性のすべてはそれで決まった。用済み目前のひぐらしが、遠くのほうで鳴いていた。


 夏海との二人暮らしは困難を極めなかった。夏海は驚くほど俺の言うことを聞いたし、永瀬がいた頃と何も変わらない様子だった。父親の死が悲しくないのだろうか、などと過ぎらせたことはすぐに後悔した。夏海は明日から小学生という日の夜、一人で永瀬の部屋にいた。机に置いた遺影を見下ろしながら音のない涙を溢している様子を、俺は襖の隙間から覗いてしまった。夏海の横顔は永瀬の面影があった。あいつがふっと真顔になる瞬間の、影の降りる速度が似ていた。

「明日、お父さんも見に来てね」

 俺は足音を殺しながらその場を離れた。翌朝の夏海はいつも通りの様子で、入学式に向かうための車に乗り込み、煙草やめなよー、と車内の臭さに軽口を叩いた。入学式は順調だった。母親一人か、夫婦揃っての出席が多い中で、俺はそれなりに浮いていた。

 新しい小学生達の頭をざっと見渡してから、空中に視線を向けた。お父さんも見に来てね。夏海の声が拍手の渦に飲まれず脳に響いた。空中には何も浮いておらず、入学式は滞りなく終わり、俺は夏海と校門の前で写真を撮った。


 永瀬はよくわからない男だった。大学の頃に出会い、仲良くなった。卒業後も定期的に会っていて、俺が父親の死を受け田舎に戻ると話してからは顔を合わせる頻度が減ったが、後を追うように母親が亡くなった時、一人で葬式に来てくれた。俺は憔悴していたと思う。葬儀場の外に設けられた喫煙所で項垂れていると、永瀬がいつの間にか隣に来ていた。何も言わなかった。俺の背中を撫でるように叩いた感触が熱かった。

 葬儀後は何かとごたついたが、田舎にホテルはほとんどないため、永瀬は一人になった俺の家に泊めた。あいつは一週間ほど滞在した。まったく邪魔ではなかったし、今では感謝を覚えるほどだ。

 田舎の夜は重い。静かで、暗くて、気配が消える。一人ぼっちの一軒家となれば余計だ。やけを起こしていた可能性はなきにしもあらず、だ。

「今度はさー、ふつうに遊びに来るよ。あ、秋斗がこっち来てもいいぜ! 俺は今神奈川で一人暮らししてるわけだし、全然何日でも泊めてやるって」

 そう明るく言って帰っていった永瀬のところに、一度だけは遊びに行った。有名な横浜の中華街だとか、大学時代によく歩いた下北沢だとか、せっかくだからと連れて行かれた八景島シーパラダイスだとか、二人であちこち見て回った。

 シーパラダイスの巨大な水槽を見上げる永瀬の横顔は静かだった。夏海に受け継がれている、感情を包み隠そうとする時の表情だった。


 夏海はごく普通に成長した。俺はその間、ごく普通に老けていった。料理の腕は上がった。そもそも両親が亡くなった後は一人暮らしで、在宅ワークをしていたために大体は家におり、行き詰まると家事をするルーチンが出来上がっていた。

「おじさんの料理、友達の家で食べたご飯より美味しい」

 それは良いことなのか悪いことなのか、俺には判断がつかない。もう中学生になり、来年は受験という段階の夏海は、地元の進学校に行きたいという。俺は承諾した。保険金という永瀬の遺産が夏海を育てている。大学資金は少し足が出るだろうが、俺の貯蓄でどうにかなる。

 夏海は伸ばした髪を後ろでまとめ、皿洗いはやると言って流しに向かった。夏休みであるため、家事は積極的に手伝ってくれる。皿洗いを始めた姿を尻目に煙草を咥えると、禁煙! と言葉が飛んできた。おとなしく、一本を箱に戻す。弾けたような笑い声が耳に届いた。

「しろしろ言ってもしないんだからさー、いいよ別に。でも外で吸ってきて」

 俺は言われたとおりに玄関から外へ出た。眼前には山があり、隣家は少し離れている。畦道と変わりない道路の左右には田圃がゆったり続いている。冷めた夕暮れが黄昏になる。ライターの火が眩しく灯った。禁煙! 耳の中に蘇る声は夏海ではなく永瀬のものだった。あいつもよく煙草やめろコールをした。大体は冗談だったが、少しは本気だったと思う。永瀬は養護施設の出身だった。小さい頃に家が家事になり、両親が死んだ。出火原因は寝煙草だった。そうぽつぽつ話していたのは大学生の頃、俺のアパートで二人で飲んでいる時だった。安いつまみに安い発泡酒。俺の前にある灰皿に積もり続ける吸い殻を、永瀬はわざと意味の削ぎ落とされた視線で見つめていた。火をつけかけていた煙草を置くと、驚いたように顔を上げた。数秒か数分か、俺達は見つめ合っていた。無言だった。永瀬が女だったら、と俺は思った。永瀬が女だったら恐らく及んでいた。なし崩させていた。一瞬でもそう考えた俺を俺はまったく許せなかった。

「洗い物終わったよ」

 外に出て来た夏海が隣に並んだ。もう辺りはすっかり夜で、煙草はいつの間にか燃え尽きていた。多少肌寒い。もうじき夏が終わり秋が来る。お前の季節じゃんと笑った永瀬の姿がふと浮かぶ。

「ねえ」

 夏海を見下ろす。永瀬の面影はやはりある。永瀬が女だったら。あの日の思考の答えが顕現している。

 でも違う。

「明日、命日だね」

 夏海は田舎の夜に視線を向ける。静謐の中に浮かぶ横顔は穏やかだ。

「十年、ありがとう」

 見上げて来た目の中に俺が映る。

「十年、お父さんがいなくて、辛かった?」

 辛かった。大学で友達がいない俺に初めて話し掛けてきたのは永瀬だったし、彼女にあっさり振られて落ち込む俺を宥めたのも永瀬だったし、卒業後も仲が続いたのは永瀬だけだったし、母親の葬儀にまで来てくれた友達は永瀬しかいなかった。だから助けたかった、子連れで来たあいつを住まわせた。三人で暮らしていた頃に行った水族館は引くほど楽しかった。水槽を見上げて暗い顔をしない永瀬も、俺に肩車をされて喜ぶ夏海も、俺はどうにか維持しなければと思った。でも幸福とか幸運は浮き沈みして、蝉の声みたいに急に途切れる。俺が夏海を迎えに行っていればとか、徒歩で向かおうとした永瀬に車を勧めていればとか、田舎はバカが飛ばすから車道は気を付けろって言うべきだったとか、どうしても考える。

「あのね、お願いがあるんだ」

 思考を裂いて夏海が話す。

「そろそろさ、その……秋斗おじさんのこと、秋斗お父さんって呼びたいんだけど、いい?」

 返事が出来なかった。無言の俺から逃れるように、夏海は視線を下ろした。

 それから、息を吸った。

「お父さんも、秋斗おじさんなら良いって言うかなって。だってお父さん、いつも嬉しそうだった。わたしに秋斗おじさんは優しいって言ってて、わたしもそう思ってた。お父さんが二人で嬉しいなって。お母さんのことはそんなに覚えてないけど、叩かれたりしたことだけは覚えててさ、だから、……わたしずっとおじさんのことお父さんだと思ってた。中々言い出せなくて、ごめんね」

 何かを言わなければいけなかった。開いた口は潰れた声を、言葉になっていない声を発した。泣いていると、夏海が目を丸くしたところで気が付いた。俺が父親でいいのか。おまえの本当の父親に、劣情を催した瞬間さえあるやつが父親でいいのか。永瀬、俺は、ちゃんと育てられていたんだろうか。

「秋斗お父さん」

 夏海の伸ばした手が俺の背中を擦った。それは熱かった、永瀬のことと同時に両親の姿も過ぎった。俺と夏海はいつの間にか、曲がりなりにも、家族として成立していた。

 完全な夜の中、俺はしばらく泣いていた。晩夏の夜はどことなく青かった。今が夏の底だった。夏海は俺を引き上げるようにずっと背中を撫でていた。

「……夏海、今日からお父さん、禁煙するよ」

 落ち着いたあとにやっとそう言うと、夏海は笑い声を上げてから俺の腕に額を押し付け、静かに泣いた。今度は俺が背中を撫でた。娘が沈み切らないよう、ゆっくり、ゆっくりと、擦り続けた。

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