小さな故郷

「もういいから」

 

 年下の上司から投げられた言葉は、呆れと諦めが混ざっていた。

 かっちりと髪を整え、彼の鋭いスタイルに合った皴のないスーツ姿は、私にない威厳を放っている。眉間へ刻まれた深い皴以外に加齢を感じさせず、肌に潤いの残った精悍な顔つきはどこをどう見ても頼れる上司であった。

 私はざらざらと脂の乗った無精ひげを撫で、生地の薄くなったスーツを見下ろす。洗濯でついたよれに、いくつもの染み、もったいないからと使い続けボロボロになった革靴。うなだれるように溜息をついたその姿は実に情けなく映るであろう。

 五十近くにまで重ねてきた年月は、白髪のない若造に言い返す力さえ持たない。彼が配属された日にお互い気を使わないよう敬語をやめたが、雑に扱われるようになり後悔していた。


「いや、申し訳ないね」


 私は自分を慰めるように頭を撫で、薄っぺらな謝罪吐き出す。彼はそんなへらへらと笑う私を視界から外し、いないものとばかりに書類へ顔の向きを変えた。随分と薄くなってしまった後ろ髪を撫でる指の力が強まるのを自覚しながら「戻ります」と一声かける。私がミスをし、彼が呆れる。彼が上司になってから何度となく行われたやり取りであった。

 

 今まで何度も下げられてきた頭は同僚から随分と軽く見られているだろう。しかし、自責を認めるというのはなかなかに肩を凝らせるものだ。

 日当たり不良の小さなオフィスではどれだけ小声で話そうと皆の耳に届いているはず。また笑い話になるんだろうと胸中でため息を吐くが、関心を持たれないよりはマシだろうと見当違いな虚勢を張る。落ち込んでいないと平静を装いデスクへと戻るが、どうしても身体は重いままだった。

 

 数多の先輩は定年を迎え、気が付けば私がこの部署で最も長い勤続年数となっていた。しかし、その年数はただの数字以上の意味を持たず、今では簡単な業務しか任せられない雑用扱いだ。

 積み重なっていく軽い仕事は、微かな嘲りと共にあれよこれよと増やされ、本日も残業が確定する。

 以前、部署内一の残業時間から手当を貰うため遅々と業務を行っているではと疑われたが、自分の無能が身の潔白を証明してしまった。誹り超えて哀れみを受けながらの業務はどれだけ取り繕おうと惨めであった。

 聞かれないように小さく溜息を吐き、厚い束となった書類の確認を始めた。


 

 *

 

 

 『外食してください』という妻からの短いメッセージに従い牛丼チェーン店で早々に食事を済ませた私は、行きつけの居酒屋に来ていた。大通りを一本外れ、ひっそりと構える隠れ家的装いの小さな居酒屋。黄ばんだ短冊メニュー、油っぽいカウンター、ボロボロの黒く丸いパイプ椅子と、昭和の香りが濃い店であった。もともと人気のある店ではないが、どうやら本日は貸し切りのようだ。私はいつものカウンター席に座り、厨房で注文を待つおやじに声をかける。


「こんばんは、いつものお願いできる?」


「あいよ」と返事をしながら作業に取り掛かるおやじの声は明るい。私が注文したのは日本酒とお通し。ただそれだけの注文なのに、おやじは雰囲気が出るだろと「いつもの」と通すように提案してくれた。確かに雰囲気に酔えると気に入った私は、以降ここへ来る時は「いつもの」と通している。

 

「あんちゃん、どうしたの?珍しいね」

「妻から食べて来いと言われてね」


 私が妻からもらった淡白なメールを見せるとおやじは可笑しそうに笑った。ここへはなんとなく居心地の悪い休日に来るため、平日に来るのは珍しいと驚いたようだ。私はおやじがメールを読み終えたのを確認するとスマートフォンをスリープ状態し、画面を天井に向けたままカウンターへ置いた。家族が就寝する前に帰宅しなければならないため、時間が来たらアラームの鳴るように設定しているのだ。もちろんバイブレーションのみで音はならない。


「がっつり食べるかい?」


 そう言いながらグラスに日本酒を注ぐおやじ。以前は一合分をおちょこで飲んでいたが、いちいち注ぐのを面倒に思った私はグラスで出すよう頼んだのだ。雰囲気を崩すかとおやじの様子を伺ったが、酒飲みだねと笑い許してくれた。

 

「いや、つまみだけでいいよ」


 来る前に牛丼を食べたことを伝え、自分の胃への嘆きをおやじと共有する。かつて大盛でも足りぬとどんぶりを持ち上げ、かきこんでいた自分がまるで嘘のようだ。歳には勝てんねと笑うおやじは私と同じグラスを持ち乾杯と掲げた。客との酒を飲みながら調理をするおやじは何というか豪快だ。


「おやじさんにも、息子さんがいるんだったね」


 先ほどスマートフォンに映った待ち受けの写真を思い出し、おやじに尋ねる。

 

「まだ高校生なんだがね、俺に似ねえよう毎日勉強してるよ」

 

 ついこの間までこんな小さかったにのにな。息子の身長を身振りで伝えるおやじはどこか嬉し気だ。


「昔は俺みたいになるって言ってたのによ。まったく、可愛げがなくなったもんだ」

「私の娘も似たようなもんだよ。最近、私がカーペットを踏むと嫌な顔をするんだ」

 

 女の子は難しいなと笑うおやじだが、私の場合はそれだけではないと苦笑いを浮かべる。娘は毎日、妻にうだつの上がらない私を見ているのだ、その内心も察せる。

 

 そうやって私たちは子供から邪険にされる中年親父の愚痴にしばらく花を咲かしていた。


 いったいどれくらい話していたのだろう、風呂に浮かぶ皮脂について盛り上がっていた折、ふと壁掛けの時計に視線が止まった。余裕があったはずの時計の針はいつの間にか終バスに近づいてる。

 

「まずい、もうこんな時間だ」

「いつものアラームはどうしたんだい?」


 おかしいなと呟き、カウンターに置いたスマートフォンの電源ボタンを無意識に強く押す。何度押しても反応のないスマートフォンに、もしかしてと心当たり、電源ボタンを長く押した。どうやら充電が切れていたようで黒く染まった画面には充電を促す表示が最低限の明かりを放っている。使い古したスマートフォンはパーセンテージ通りに機能してくれない。しまったなと呟き急いで鞄に入れる。

 起こさないように家帰らねばと苦笑いすると、寝起きの嫁はおっかないからなとおやじは笑う。

 会計だと尻に敷かれ平たくなった財布から千円札を数枚取り出し、おやじに渡す。焦りからか釣りをもらう前に尻ポケットへ財布を戻してしまった私は、おやじから小銭を受け取るとそのままサイドポケットにしまった。

 気をつけて帰りなというおやじの声を背に居酒屋を後にした。



 *


 

 ポケットの小銭を鳴らし、息を切らせながらバスロータリーへ駆け込むが、無情にも終バスは私の到着直前に発車してしまったようだ。逃した若者が親に電話している声が聞こえてくる。

 途方に暮れる私であったが妻へ迎えを頼む以外選択肢がないことくらいわかっていた。

 飲んで終バスを逃したうえ、タクシーで帰った暁には、どれほどの冷たい視線を浴びることになるか想像するだけで気が遠のく。気軽に迎えを頼める若者が羨ましい。

 歳不相応に走ったことによる脇腹の痛みとは異なる痛みを腹に感じながら、妻の電話番号を調べようと鞄を探る。スマートフォンの電源ボタンに触れるが、充電の切れた液晶は充電マークすら灯さなくなっていた。そうだったと小さく呟き、溜息を吐く。

 

 どうしたものかと周囲を見渡すと、雑踏を避けるように端へと逃げ込んだ、古めかしい建物をが佇んでいるのを見つけた。隠すように設置された小さな箱型の建物は、白色の蛍光灯で照らされた電話機を透明の壁で囲んだ電話ボックスであった。久しく使うことのなくなった電話ボックスがぽつんと取り残されたように設置されている。懐かしさを覚えた私は電話ボックスへ足を進めた。

 

 私は電話ボックスの前に立ち、乱れた息を整えながら街の灯す煌びやかな風景に目を細めていた。古びた緑の公衆電話を使う人はいったいどれくらいいるのだろう。そんな疑問が浮かぶ。連絡先の書かれた電話帳が必要なくなったのはいつからだったか。そんなことも忘れてしまった私に公衆電話の利用事情など想像つくはずもないが、電話帳を携帯しなくなったことが答えだろうとかつての保管場所であった胸ポケットを撫でる。

 

 私は通話の前に一度息を整えようと近くのベンチに腰掛けた。軋む膝と小刻みに痙攣した太ももがもたらす筋肉痛はいつ猛威を振るうのだろうと顔が引きつる。

 対面する公衆電話。大きく息を吸い大きく吐く。喉の奥で空気の引っかかっるような呼吸がしばらく続いた。

 

 街の喧騒は私の疲弊など気にも留めない。落ち着きを取り戻し脱力した私の身体は、自然とロータリーを行きかう人々へ注目する。

 

 会社の愚痴を叫び同僚と肩を組む中年たち。

 二次会のカラオケへ向かう途中、我慢できず歌いだした青年たち。

 ナンパに声を掛けられ煩わしそうにはねのけるが、どこか嬉しそうな女性たち。

 

 私にはそのどれもが美しく、手の届かないものに見えた。

 

 眩しさから目を逸らすように視線を落とし、ポケットに手を突っ込む。先ほど受けとった小銭が指に触れ小さく音を立てた。

 三十円。体温の残る銅貨に染み付いた錆の匂いが指に触れる。

 依然として妻の電話番号は思い出せないまま。それなのに私は電話ボックスの扉に手を伸ばしていた。

 

 中に入り、扉を閉める。少し遠ざかった街の喧騒。古めかしい蛍光灯は頼りないがそれでもしっかり室内を照らしており、夜更けの外界を霞ませていた。

 受話器を上げ、無意識に握りしめていた三枚の十円玉を投入口に突っ込んだ。ツーという無機質な音が鳴り始める。

 自分の電話番号ですらスマートフォンで確認しないとわからないのに、どうしてか迷いなく入力できていた。

 プッシュ音が鳴り止み、呼び出しが始まる。虚しく響く呼び出し音。

 

 もう、寝てるだろうなと受話器を置こうと耳から離したとき。ガチャリという音が鳴った。

 眉間のしわが解れ、目尻が下がるのを感じる。

 古びた公衆電話から聞こえるしゃがれた声は懐かしく、不機嫌そうなのにどうしてか温かい。


 「もしもし、母さん?」

 

 たった数センチの小さな箱の中。今だけはここが故郷ふるさとだった。

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流し読みにちょうどいいお話 ともじ @tomoji23

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