それ以外の人

 ある朝食での出来事だ。目が覚めた古川孝介ふるかわこうすけは朝食をと取ろうと階段を下った。リビングには身支度を済ませかっちりとシルバーのスーツを纏った父 古川誠治ふるかわせいじ、小さな刺繍飾りのある青いエプロンをなぜか身につけないまま料理する母 古川晴子ふるかわはるこ、まだ目が覚めていないのか寝間着姿のまま話題のアイドルグループのエンブレムの付いたクッションを抱えソファで寛ぐ姉 古川結ふるかわゆいの姿があった。

 七時を少し過ぎたころ。誠治、晴子、結、孝介の順に家を出るため古川家ではいつも同じような光景を目にする。きっちりと時間通りに物事を進める誠治、家事にパートの準備と忙しい晴子、ぎりぎりまで寝ていたいとぼんやりしている結。今日もまた出発前に走り回るんだろうなと孝介は寝ぼけて緩んだ表情の姉を見て呆れたように笑う。

 時間を見るためにとつけられたテレビはちょうど占いが終わったところのようだ。新聞を広げ朝食を待つ誠治がやや落ち込んでいるのを見るに獅子座の運勢は悪かったらしい。

 

「おはよう」

 

 寝起きで擦れた孝介の声はいつもより低く響く。男性とはいえあまりにも低い自分の声を孝介は少し苦手としていた。ごまかすように大きく咳払いをする。孝介の起床に気づいた晴子は、「すぐにできるから顔を洗ってきなさい」という言葉で孝介の挨拶に応えた。孝介はそれに従い顔を洗いにリビングを出る。


 顔を洗い終わると孝介以外はすでに着席していた。リビングの中心にある四人掛けのテーブル。晴子と誠治、結と孝介が隣になるようにそれぞれ座っている。配膳しやすいように、テレビが見やすいようにという理由で晴子と背の低い結がテレビ側に座っていた。

 古川家の食卓は、団欒よりもテレビの音のほうが大きい。口に物を入れているときに話さず、家族そろって食に目がないため、話を始めるのはなんとなく食後という暗黙の決まりがあった。


「毎日、同じような話題ばかり。飽きないのかね」

 

 そんないつのも静寂が漂う中、聞き流していたはずのニュース番組が、ふと気にとまり孝介は皮肉をこぼした。ニュース番組は天気から芸能人の不倫についての話題に変わっていた。どうやら愛妻家で名の通った芸能人が不倫したようだ。当然返答はなく、箸が椀を鳴らす音が虚しく響く。驚いているのか呆れているのか判断のつかない視線がこちらを伺う。

 

「こんなものを報道して、誰が関心を持つんだ」

 

 孝介は妙な羞恥を覚え、吐き捨てるようにぼそりと付け足した。自分も食べ進めようと好物である納豆へ手を伸ばす。蓋を開け、たれと豆を混ぜ合わせる。ごはんに乗せずそのまま食べることを好む孝介は食べやすいよう入念に混ぜ込んだ。

 糸と豆が塊になるように混ぜ込んでいると、結の箸が止まっていることに気づいた。いつも箸を止めることなく黙々と、幸せそうに食べ進めている結にしては珍しいなと結を見る。

 

「そうだね」

 

 少しの間が開いたため、一瞬何に対する肯定か怪訝に思うが、直前の自分の言葉に対してだと察し、孝介は表情を歪めた。どうして掘り返したんだと、恨みがましく結を見る。

 

「でも……誰かにとってはとても悲しい出来事だよ」

 

 そう言いながら顔を伏せたため、結がどのような表情をしているのかわからない。もともと静かな食卓に気まずい沈黙が流れる。返答を期待してなかったうえに否定の言葉が返ってきたため戸惑いを隠せない。孝介は気まずさを感じていることに羞恥を覚え、気づかれないよう箸を速めた。

 

 

 *

 


 高校までの通学路。孝介は先ほど結から言われた言葉について考えていた。誰かにとっての悲しい出来事とは何を意味するのか。その事ついては当然孝介にも想像がつく。

 当事者はもちろん、そのパートナーは悲しみを持っているであろう。しかし当事者に関しては自己責任であり社会的制裁に対する同情はすれど、仕方のないことだと思う。

 パートナーに対しても完全に被害者なのかと言えばそうではないだろう。普段の生活に満足しているのならそもそも気持ちが浮つくことはないのだと孝介は考えていた。

 では結は何に対して気を使ったのであろう。今朝のニュースに記憶を巡らせる。

 

 うんうんと唸っていると背後から男性にしては少し高めの声がかけられた。

 

「おはよう、今日はまた一段と難しい顔をしてるね」


 三枝優みつえだゆう。中性的な顔立ち、白く透き通るような肌、男性にしては少し長めの黒髪を持つ、青年よりは少年と表したほうがしっくりくる友人だ。穏やかな表情と口調が余計に性別をわかりにくくする。幼稚園から縁のある友人であるが何度交際相手と間違えられたかわからない。

 

「いや、今朝のニュースが気になってな」

 

 見上げるようにこちらを伺う優に孝介は問いかけた。随分と幅の広い問いかけ方をしたと後悔するが、優が顎に手をやり考え始めてしまったため、返答を待つことにする。

 身振りに表すのが優の癖であった。短い手足を縮め、悩む姿が小動物のようでさらに可愛らしい。

 

「今朝のニュースというと……きみが好きそうな話題はなかったように思うけど」


 数秒考え、あたりがなかったのか首を傾げこちらを再び見上げる優。「孝くんは動物の話題くらいしか記憶に残らないからね」と揶揄うように付け足すが、孝介は話題を進めることを優先した。

 

「不倫の話題があっただろう。もちろん好ましくは思はないが」

「ああ、あれか」


 「孝くんが芸能に関心を持つなんて珍しいね」と付け足す優は、思いあたったとばかりに小さな掌を、小さく作った拳でぽんと鳴らした。

 

 優によると騒動の内容はこうである。

 人気アイドルとSNS配信者の不倫、アイドルである男性A側の不倫だ。

 話題の中心である男性Aは、ベテランアイドルグルーブの一員であり、目立つほうではないが誠実な行動や言動が世間に好まれている。30代とアイドルにしては年齢が高めなこともあり、特にマダム世代に関心を持たれているようだ。

 一方、女性Aは最近SNSで人気の配信者である。こちらは今時な若い女性であり、派手な私生活や軽薄な交友関係を持っていたため、余計に男性Aのファンからの不満を呼んでいる。彼女にはやんちゃなファンが多いため、ファン同士の諍いもあるとか。


 アイドルと聞いて孝介はまず結の姿を思い出した。

 アイドルのグッズであるクッションを抱きながら、ソファで寛いでいた結の推しであったのではないかと思う孝介だが、姉が推していたのは若手のグループであったと考え直す。

 次に孝介はアイドルについて思い浮かべる。高度な歌唱、ダンスの技術や、善良な人間性を求められるアイドルは、公私に関わらずストイックな印象を受ける。ペンライトを持つ数千、数万人のファンの期待をその身で受け止める姿に少しの恐れを感じつつ孝介はある想像が頭に浮かんだ。

 孝介はファンが応援しているアイドルをアピールするために持たれたペンライトの海を空想する。結と見たライブのDVDにはメンバー紹介の際、登場する人物ごとにペンライトの色が変えられていた。孝介はその映像を見てどのように色を変えているのかとスマートフォンで検索をかけたのだ。最近のライブではペンライト内に赤外線が搭載されているらしく、運営が色を制御できるようだ。故に紹介ごとに会場をメンバーカラーで埋めることができていたのだ。

 孝介は気になったことを優に聞いた。

 

「そのグループにもメンバーカラーが割り当てられているのか?」

「うん、男性Aは青だったはずだよ」


 端的に出された答えに孝介は頭抱える気分になる。ベテランアイドルグループに関心を持ちそうで、メンバーカラーを身に着けている人に心当たりがあったのだ。

 

「どうかしたの?」


 苦虫を嚙み潰したような表情を浮かべた孝介を見て、優はその表情に心配を浮かべた。孝介は何でもないと首を振り昨晩紹介された動物の話題に切り替えるのであった。

 


 *

 


「ただいま」

 

 孝介が帰ると家には晴子と結がいた。晴子も帰って来たばかりなのか、大きく膨らんだ買い物袋を崩しているところであった。一週間分の食料をまとめて買うため冷蔵庫に移すだけでも手間のかかる作業である。結は手伝おうと母に近づくも、片づける場所がわからないのか、ただ晴子の周りをうろつくだけになっていた。孝介は荷物を適当に置き、とぼとぼと戻って来た姉をソファへ迎える。

 

「おかえり」

 

 逆に邪魔だったかもと苦笑いを浮かべる姉は、お気に入りのクッションを抱えどうしたものかと少し困ったように眉を下げた。元気のないように見える母を見て姉はどこか悔し気だ。きっと母に同情しているのだろう。

 「夕飯の準備しなくちゃね」とキッチンから聞こえる晴子の声は自分を励ましているようであった。晴子は朝食と同じようにエプロンを身に着けないまま調理を始めた。孝介はフライパンやまな板がコンロやカウンターと触れ合う音を聞きつつ、答え合わせをするように結へ問いかけた。

 

「母さんエプロンつけないんだな」

 

 孝介は確信を持ちつつ結に尋ねる。結は少し驚いたようだが、何も言わずただ頷いた。

 いつから使っているのか孝介にはわからないが、青く小さな刺繍飾りのある青いエプロンは随分使い込まれている。調理の際、必ずつけていたエプロンを視界へ入れないようにしている晴子は、おそらく某アイドルのファンであったのであろう。推しがいる生活というものに縁のない孝介であるが、大事なものを失うということには計り知れない悲しみがあるのだろうと、若手アイドルを推す結の同情を見て想像する。孝介は無神経に話題を拾ってしまった自分をどうにか許したくて何かできないかと考えを巡らせた。

 

「今度、新しいの買いに行かないか?」


 「随分古くなってるから」とごまかすように電源の入れていないテレビへ視線を送る孝介。唸っていた結は嬉しそうに孝介を見遣る。

 

「うん、そうだね。そうしよう」


 表情で言葉以上を伝える結の姿に頬へ熱が広がるのを感じる孝介。ぶっきらぼうに返事をし、スマートフォンの検索欄へ触れるのであった。

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