流し読みにちょうどいいお話

ともじ

柔らかなてのひら

「あなた誰?」


 流れ込む冬の風と共に冷たく尋ねた老婦人は私の母だ。昨年段差で躓き足を怪我をした母は3ヶ月ほど入院することになった。高齢者の入院は認知症が進むと話に聞いていが、その話の通り母も一気に進んだ。物忘れ程度の認知症であった母は今では娘の私さえ覚えていない。他人のような眼差しを向けられるたびに来るのをやめようかと何度も考えていた。だからどうしても言葉の端に棘が出てしまう。


「洗濯物持ってきた。足りないものとかは中村さんに渡しといたから」


 冷たく言って後悔する。不満をぶつけるために来ているわけではないのに。それでも、娘という立場が私を意固地にさせていた。

 中村さんとは母を担当している介護士だ。この施設に長く勤めており、穏やかで丁寧な話し方をする。現場スタッフや、利用客からの信頼も厚く、時期施設長だろうと噂されていた。その中村さん曰く今日の母は機嫌が悪いらしい。


「どうしてあなたが私の服を持ってるの!」


 母は私の言葉を聞き怒り始める。それにため息で応え、淡々と引き出しに洗濯物を片付け始めた。何度も機嫌の悪い母と関わるうち、捲し立てるような暴言に慣れてしまっていた。上着、ズボン、肌着と片付けていく。母がわかりやすいように、取り出しやすいようにと整頓した引き出しは、母の手によってぐちゃぐちゃにされていた。認知症だから仕方ないと思うが、少し悲しい気持ちになる。皴になった部分を伸ばすようにして、畳みなおし片付けていく。その間にも母は文句を言い続けていた。


「......また洗濯物が溜まったら来るよ」


 ようやく片付け終わり、新たに溜まった洗濯物を抱えてもう一度ため息をついた。私は母の顔を見ることもなく帰路につく。背後から母が何か叫んでいたが振り返ろうとは思わない。不審者を見るような眼差しを受けるのが怖かったからだ。


 

 *

 


「ただいま」


 介護施設を出たあと、食材や日用品を買い揃えるためスーパに寄っていた。帰宅する頃には夕暮れ。もちろん道も混んでおり、いつもより10分ほど家が遠ざかっていた。ようやく到着し、家族へ帰宅を告げるも応えるは声ひとつもない。リビングからは大きなテレビの音と、ドタドタと騒がしい足音が聞こえてくる。


「はあ......」


 ついため息が出てしまう。家事をせずテレビを観ているであろう夫と、地面いっぱいにおもちゃを広げているであろう息子の姿を想像する。床の表面を擦るようにして歩いていた足はさらに重さを増し、抱えた荷物が指へ強く食い込んでいく錯覚を覚えた。「いつものこと、片付けるだけだから大丈夫」と自分に言い聞かせ、溜め込んでいだ洗い物から処理しようとリビングの扉を開いた。


「ただいま!」


 せめてもの抵抗と少し大きな声で帰宅を告げる。


「おう、おかえり」

「ママおかえり!」


 あまりにも大きいテレビの音量が私の挨拶をかき消していたようで2人は少し驚きながら応えた。変身ヒーローの録画を2人で見ていたのであろう散らかりように呆れつつ笑う。想像通りの2人であったが、邪気のない笑顔に少しだけ気持ちが和らいだ。散らかったおもちゃを踏まないように進みつつリモコンで音量を少し下げる。


「もう。片付けくらいやってよね」

「ごめん、夢中になってた」


 夫に同調するように息子が、なってた!と変身ベルトを掲げる。それと同時になり出すのは夫のお腹。


「お腹すいた!」


 恥ずかしげな夫の代わりに息子が空腹を告げる。気を遣った息子に、「お母さん今帰ってきたところだからね」と言い聞かせているが、鳴ったのは夫のお腹だ。説得力がない。


「今から作るわね。お父さんとお片付けしておいて」


 特別気を使えるような男たちではないけれど、優しさを感じる話し方に癒される。もしかしたら私を私として認識してくれることが嬉しいのかもしれない。沈んだ心を入れ替え、洗い物を始めようとキッチンへ向かった。

 気合いを入れたは良いものの冬の水道は冷たい。節約のために使っている冷水は毎日私の手を傷つけていた。強張った手が無理やり動くたびにあかぎれた指がひび割れていく。


「いたっ」


 お椀を滑らせた拍子に治りかけていた傷口が開いた。洗い物をやめ絆創膏でも貼りにいくかとリビングに向かうと、夫が息子に絆創膏を持たせていた。


「お母さん大丈夫?」


「大丈夫よ、ありがとう。絆創膏貼ってくれるの?」


「うん!」


 そう言い辿々しい手つきで袋を破き始める。しわくちゃに貼られた絆創膏は綺麗ではなかったけれど、裂けた指から痛みは消えていた。ありがとうと息子に告げると嬉しそうに夫の方へ走り出す。礼をこめ手を振ると夫も嬉しそうに手をふり返した。

 皴だらけの絆創膏に目を遣り懐かしいなと、ふと母の手を思い出した。亭主関白の妻であった母のこと。赤く腫れぼったい、何度も傷つき皮の厚くなった母の手。今の母の手にはあかぎれなんてきっとない。けれど、どんな手だったろうと思い出せない自分に少し悲しくなった。

 


 *

 


「こんにちは」

「こんにちは、嬉しそうですね」


 前回から一週間ほどあいたよく晴れた日。雲ひとつなく窓から流れ込む風は少し暖かい。

 中村さんによると母はデザートが気に入ったらしく、とても楽しそうに過ごしているようだ。


「今日はお饅頭が出たのよ。つぶあんのお饅頭」

「つぶあんお好きでしたね」


 饅頭の形を手振りで伝える母を見て、認知症予防の本で得た知識をふと思い出す。手遊びは予防になる。今更始めたところで手遅れかもしれないが、思い出した手前何もしないというのもなんとなく居心地が悪い。


「......あやとり教えてもらえませんか?」


 かつて母とやったあやとりを頭に浮かべ聞いてみる。


「あやとり?もちろん、私得意なのよ」


 母はそういう時、引き出しから赤い毛糸を取り出した。

 吊り橋、田んぼ、川と順番に形を作っていく。

 何周かゆっくりと続けていくうちに私が取る糸を間違え、しっかりと絡まってしまった。無理にほどこうとして余計に絡まる。


「あら、絡まっちゃったわね」


 私の失敗に何か言うこともなく母は優しげな表情のまま私の手に絡まった糸をほどきはじめる。優しく母の手が私の手のひらに触れる。


「この時期は辛いわよねぇ」


 あかぎれて硬くなった私の手を優しく撫でた。毎日介護士からハンドクリームを塗ってもらっている母の手はあの頃とは違い柔らかくひび割れひとつなかった。


「どうしたの?」


 あの頃の母に戻ってきて欲しいと何度も願った。記憶をなくし意味のない行動をする母に小さな失望を何度も浮かべた。けれど私を見る母の眼差しは変わらない。暖かい母の手を少し握ると、なぜだかわからず涙が流れ始めた。


「大丈夫、大丈夫よ。今解きますからね」


 心配へと眼差しを変えた母の、見当違いの気遣いが余計に涙を誘う。もう少しの間だけ手に触れていたくて私は糸が解けないと嘯いた。

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