台本形式という謎文化って…?

 台本形式,科白の前にキャラクターの名前を書いて誰が喋っているのか分かりやすくする手法ですね。近年,って言うかweb小説ではよく見る形式です。今回は,そこに焦点を当ててみます。

 まず,台本形式等と言っていますが,この様な文字主体の媒体では絵もBGMも無いノベルゲーみたいなものです。

○○「だからさー!」

△△「もー///」

 こんな感じ。科白の後の『///』も含めて容易に感情表現が出来るのが魅力ですね。ただ,これって小説である意味ありますかね?極論ではありますが,これこそ作者の脳内で全てが完結している。読者と作者の思惑が完全に乖離してしまう典型例に思えてなりません。だってそうでしょう?本来,作者の思惑なり想定したシナリオを補強するはずの地の文が削減され,科白のみ出力されている状態なのですから。作者は「○○が~」って思っていても,それが100%読者に伝わる訳がない。

 そもそも,先ほど言ったように文字だけのノベルゲーみたいなものは作者が省エネで書くことが出来るだけで,本当に作者の自己満足であり本人一人で完結してしまう。これを小説と言ったら世に出されているラノベへの侮辱だと思います(極端)

 別に,難しい言葉を使ったりする必要も無いし,面倒な言い回しをする必要もありません。ただ『○○の言葉に△△は頬を赤らめ照れていた』これくらいの情報量でも良い訳です。それすら略したらそれこそ本当の台本です(私は演劇未経験なのでシェイクスピア作品とかを読んでの感想です)

 私個人の話ですが,こうやってパソコンやスマホで簡単に小説が書けるようになってからよく見かける様になったなぁ…という個人的な感想から始まりましたが,実はこの議題に行きついたのは二次創作なんですよね。好きな作品の二次創作を探している時,タイトル,あらすじ共に魅力的でこれは面白そうだと読み始めるとビックリ,ほぼ科白のみで時々省エネ通り越して科白前にキャラクターの名前すらない。その割に地の文はゼロ。その割には評価が高く,不思議に思い感想欄を覗くと読者が見たい情景と作者が見た情景の乖離によって「なんか読者が勝手に気持ちよくなってる」状況になっていました。要は作者は1+1=2をしたいけど読者にはその答えの2以外見えていなかったんですよね。結果,読者の方々が個人個人で2にどう至ったかを想像して満足していたというのが実情でした。作者筆折るよ?今確認したら滅茶苦茶評価下がっていました(震え)

 正直,過激な発言かもしれませんが。というか十中八九過激ですが,それは小説ではないって言うのが私の認識です。『台本形式』なんて言葉に逃げて,自分の出力不足を隠そうなんて用地にも程がある。別に買えとまでは言いませんから,図書館で物語の構成方法やらの本はいくらでもあるのですから一度読まれれば宜しいと思う所です。

 そもそも,台本・・と付いている時点で小説ではない。役者や演者が自分が何を言うべきかを確認するためのモノですからね。それならフリーシナリオとでも銘打ってASMRなり,なんなりに採用されるような台本でも書けばよろしい。それを小説というのなら他の小説投稿者の方に向かって泥投げてるようなモノではないでしょうか。頭の中に思い浮かんだ情景を頑張ってそのまま出力しているのに,簡単に科白だけ出力して「小説です!」は喧嘩売ってるとしか…。台本形式という言葉自体,逃げなのかもしれませんね。

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