第二部 本(ブック)の少年と友達

第七章 はじめてのおつかい

36 ひとりきりのお出かけ

 ソフィーの手からセティの手へ、三冊のブックが受け渡される。

 ブック──手のひらに収まるほどの大きさの四角い石。その表面には様々な文字や文様が刻まれ、その内側にはそれぞれに固有の魔術の知識が込められている。


「これをオリヴィアの店に持っていって、支払いは振り込みじゃなくて直接欲しいって伝えてね。そうしたらお金がもらえるから」


 ソフィーの説明に、セティは大人しく頷いた。


「わかった」


 古代の魔術の知識が込められたブックは貴重で、高額でやりとりされる。それだけではなく、その知識には危険なものも多い。本来なら子供が扱うものではない。


(オリヴィアは驚いちゃうだろうな)


 ソフィーは十歳程度に見えるセティの姿を見下ろして、仕方ないか、と苦笑した。

 セティが自分で買い物に行きたいと言い出したのだ。どうやら欲しいものがあるらしい。その眼差しは真剣だった。

 一緒に行くことも、お金だけ渡すこともできたのだけれど、ソフィーはこうやっておつかいを頼むことにした。

 きっとそれも、セティの経験になるのだろうから。


「受け取ったお金で買い物して良いけど、パンと牛乳も買ってきて。今日の夜と明日の朝の分」

「パンと牛乳だな。任せておけ」


 自信たっぷりに胸を張ってから、セティはふと、心配顔でソフィーを見上げた。ソフィーは首を傾ける。


「ん? 何?」

「あ、いや……その、チョコレートも買って良いか?」


 ソフィーはふふっと笑った。


「良いよ」


 その言葉に、セティの顔がぱっと明るくなる。それから嬉しそうににんまりと笑った。


「わかった。じゃあ、チョコレートも買ってくる」

「あまり買いすぎないようにね。パンと牛乳は忘れないように」


 ソフィーの呆れたような声に、セティは唇を尖らせた。


「子供扱いしてるだろ。ちゃんとわかってる、大丈夫だ。俺に任せておけ」

「はいはい、期待してる」


 ふふっと笑うソフィーに、セティはまだ少し不満そうな表情を見せていたけど、すぐに気を取り直して、受け取ったブックを半ズボンのポケットに入れた。

 ポケットに入れるには、ブックは少し大きい。不恰好にポケットが膨らんだ。


「それから」


 ソフィーは腰をかがめてセティに目線を合わせると、真面目な表情を見せた。セティはきょとんと首を傾ける。


「なんだ?」

「大事なこと。あなたがブックだってことは、他の人にバレないようにね」

「なんだそんなこと。ちゃんとわかってる」


 セティは自慢げに顎を持ち上げたが、ソフィーの話は終わらなかった。


「それから、街なかでブックを開くのは探索者ブックワームのマナー違反」

「マナー違反」


 飲み込めない言葉を繰り返すセティに、ソフィーは頷いてみせた。


「そう。ブックの中には危険なものだってあるでしょう?」

「でも、だけど……ブックの知識は、傷つけようと思わなければ危ないことなんかないだろ。炎の蝶フラム・パピヨンだって、燃やそうと思わなければ何も燃やさない」

「そうね。でも、燃やすつもりがあるかどうかは、他の人からはわからないから。突然現れた炎に、冷静でいられる人は多くない。そして、パニックになった人が何をするかはわからない。

 だから、びっくりさせないように、ブックは開かないようにするのが所有者オーナーのマナー」


 セティは何度か瞬きをした。ソフィーに言われた言葉を頭の中で繰り返して、ゆっくりと考える。


「なんだかよくわからないけど……でも、ブックを開かないのはわかった。俺も、知識を使わないようにする」

「わかってくれて嬉しい。あなた自身がブックだから、セティの場合はちょっと特殊だけどね。でも、そう、外では知識を使わないようにね。それから、あなたがブックだってことは」

「バレないように、だろ。そんなに何度も言わなくても大丈夫だ。任せておけ。

 だいたい書架ライブラリに潜るわけじゃないし、ちょっと買い物に行くだけなんだ、知識が必要になることなんてないだろ。ソフィーと一緒に行ったときだって、そうだったじゃないか」


 ソフィーはかがめていた腰を戻して、苦笑してセティを見下ろした。


「そうね。心配しすぎか」

「そうだぞ。安心して待ってろ。ちゃんと買い物して帰ってくるから」


 セティは腰に手を当てて、胸を張って堂々とソフィーを見上げた。自信と期待に満ち溢れて、楽しそうな笑顔になっている。

 その表情に、ソフィーは余計に心配が募る。


「本当に気をつけてね。オリヴィアの店はわかりにくい場所にあるけど、道は本当に覚えてる?」

「大丈夫だ、二人で何度も行ってるだろ。一人でも行ける」

「パン屋も食料品も、ちゃんとお店に行ける?」

「オリヴィアの店よりも簡単だ」

「買い物って何を買うつもりなの? やっぱりわたしも一緒に行った方が……」

「くどい!」


 セティはぴんと伸ばした人差し指をソフィーに向かって突きつけた。


「一人で大丈夫ったら大丈夫だ! オリヴィアの店も、買い物も、パンも牛乳も、チョコレートだって全部ちゃんとできるから! ソフィーは黙って待ってろ!」


 ソフィーは小さく溜息をついて、覚悟を決めた。


「じゃあ、行ってらっしゃい。気をつけてね」

「ふん、見てろよ。完璧にこなしてくるからな」


 ソフィーが開いたドアから、セティは快活に書架街しょかがいに飛び出してゆく。階段を降りて、メインストリートへ。

 見上げれば、部屋の窓を開いたソフィーがセティに向かって手を振った。ソフィーの濃い茶色の髪が、書架街しょかがいの奥に届き始めた陽射しを受けて輝いている。

 なんだかまだ心配されているようで、セティは少し唇を尖らせた。その表情に、ソフィーが微笑む。

 そんなソフィーの姿を見て、セティがほっとしたのも事実だった。けれど手を振り返すのは恥ずかしくて、セティはふんと視線を逸らして、なんでもないかのように歩き出した。

 まるで駆け出したいのを我慢しているかのような早足だった。

 ソフィーは窓から、セティが遠ざかってゆくその姿をしばらく眺めていた。



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