第三章 碧水の蛙(アクアルーラー・フロッグ)

10 セティとリオン

 テーブルの上に並んだくるみのパン、目玉焼き、牛乳。

 くるみのパンはふかふかとしていて、その中に出てくるくるみが歯ごたえがあって、香ばしく、美味しかった。牛乳との相性も良い。

 目玉焼きは白身のつるんとした食感と、黄身のとろりとした柔らかさ、味の違いが面白かった。

 そんな朝ごはんを食べながら、ソフィーは今日も書架ライブラリに潜るつもりだとセティに話した。セティはちょうどパンを頬張っていた。


「セティはどうする?」


 聞かれて、セティは慌ててパンを牛乳で飲み込むと、身を乗り出した。


「俺も行く」


 当然だと言わんばかりの表情だった。ソフィーは心配そうに、小さく首を傾ける。


「わたしが所有者オーナーで大丈夫?」


 セティはそわそわと視線を動かして、それから拗ねたような上目遣いでソフィーを見た。


「お前を所有者オーナーとして認めたわけじゃないけど、今は仕方ないから一緒にいてやる」

「それは光栄だわ。ありがとう」


 ソフィーは柔らかく微笑んだ。

 それから朝ごはんを終え、ソフィーの身支度を待って、二人で部屋を出る。セティには必要な身支度はほとんどなかった──口の周りを拭いたくらいだ。

 街はすでに賑わっていて、セティは人混みに不安そうな顔をすると、そっとソフィーの手を握る。


「は、はぐれると面倒だから。握っておいてやる」


 ソフィーは何も言わずにその手を握り返した。

 賑わう書架街しょかがいを降りて書架ライブラリに向かう。同じように底に向かう探索者ブックワームの姿も見かける。

 セティはソフィーの手をしっかりと握りながら、落ち着きなく周囲を見回していた。

 良い匂いのする食べ物屋。アパートメントや本屋の入り口。日用品を扱う店。探索者ブックワーム向けの装備品が並ぶ店。

 店先には書架ライブラリ内で便利に使える道具袋ポーチが並んでいる。ソフィーの腰にも似た物がある。

 見上げる空はやっぱり丸く切り取られている。空は青く、朝の日差しがゆっくりと、書架街しょかがいの内側を照らしはじめていた。

 そうして底に降りたとき、聞き覚えのある声がソフィーを呼び止めた。


「ソフィー!」


 立ち止まって振り向けば、リオンが手を振ってソフィーの元に小走りにやってくるのが見えた。

 リオンはいつもの爽やかな笑顔で、ソフィーの前に立つ。


「おはよう、ソフィー」

「ええ、おはよう、リオン」


 ソフィーは内心少し困って、セティとリオンの間に立った。リオンはセティを見たらなんと言うだろう。その前に、話を切り上げてしまいたい。

 そんなソフィーの内心を知らないリオンは、のんびりと世間話を始めた。


「昨日は収穫なかったんだよね。だから連日潜るしかないなって。ソフィーは収穫あったのに連日潜るんだ」

「まあね」

「今日は一緒にどう?」

「答えはわかってるでしょ。わたしは誰かと一緒には」


 ソフィーの言葉の途中で、ふとリオンの視線がソフィーの後ろに立っているセティの姿を捉えた。リオンは眉を寄せた。


「そいつも一緒に?」

「ええと……ちょっと、事情が」


 ソフィーは曖昧に微笑んだけれど、リオンは誤魔化されてくれなかった。


「人と組むつもりはないんだろ? なのにこんなガキ連れて書架ライブラリに潜るのか?」

「そうじゃなくて、事情があるの。言えないけど」


 それ以上は何も言うつもりはない。ソフィーはそう示したつもりだった。もちろんリオンは納得はしないだろうが、それでも話を切り上げて立ち去ってしまうつもりでいた。

 けれど、セティがソフィーの前に進み出て、リオンに指先を突きつけた。


「俺を子供扱いするな!」


 話がこじれる気配に、ソフィーはおでこに手をやって溜息をついた。リオンは胡散臭いものでも見るように、セティを見下ろす。


「こんなに小さくて、ガキじゃないって?」

「小さくない! すぐに成長する! 子供じゃない!」

「成長する? は、気の長い話だな。俺たちは今から書架ライブラリに潜るってのにさ」

「ちょっと、リオン大人げないことはやめてよ」


 ソフィーのたしなめる声は、けれどリオンを止めることはできなかった。


「俺の誘いはあれだけ断っておいて、なんでこんなガキと潜るんだよ!」

「だから、それは……そうじゃなくて……」


 説明に困ったソフィーが口ごもる。その隙にセティがリオンをにらみあげた。セティは両の拳をぎゅっと握りしめていた。


「そんなの、俺の方がお前なんかよりずっと役に立つからに決まってるだろ!」

「ちょっとセティ! 余計なことは言わないで」

「は? お前みたいなガキに何ができるって言うんだよ?」

「リオンも怒らないで、子供の言うことだから」

「ソフィーも俺を子供扱いするな! ソフィーは俺のことすごいって特別だって言ったじゃないか!」

「特別ってなんだソフィー! ガキと書架ライブラリに潜るなんて意味がわからねえよ、危ないだろ! 何が特別でそうなるんだ!」

「ガキじゃない! 危なくない! 俺はすごいんだからな!」


 ソフィーは大きな溜息をついたけど、セティとリオンには届かない。

 リオンはセティに向かって子供だガキだと言うし、セティは子供じゃないと怒る。セティは自分は役に立つんだと言っても、当然リオンは信じない。そしてまたセティをガキだと言う。

 言い合いはその繰り返しになってしまった。ソフィーが割って入る隙間もない。

 困ったな、とソフィーは茶色の髪をかきあげる。


「もう、わたしはさっさと潜りたいんだけど」


 呆れ気味の声に、睨み合っていたセティとリオンが振り向く。


「だったらこんなやつ放っておいて、行くぞ。俺がいれば大丈夫だからな」


 セティの言葉を、リオンは笑い飛ばす。


「俺がこのガキより役に立たないってのは納得行かない。俺も連れていけよ、ソフィー。それで俺がちゃんと相棒パートナーになれるって、認めろよ」

「そんなの、俺の方が強いってことがはっきりするだけだぞ」

「ガキが何言ってやがる。泣きついても面倒見ねえぞ」

「俺は子供じゃないから泣いたりなんかしないんだからな。泣きつくのはお前の方だ」


 いつの間にか、リオンは二人に同行することになっていた。ソフィーはセティの手を引っ張ると、その耳元で囁く。


「ちょっと、リオンと一緒に行って、あなたがブックだってばれたらどうするの?」

「ばれないようにすれば良いんだろ。そんなの、大丈夫だ」


 そう答えたセティはリオンを睨みあげたままで、ソフィーの不安はなくなりはしなかった。

 こそこそと話す二人をリオンが訝しげに見下ろす。


「怖がってナシだなんて言わないよな、ガキ」

「言うわけないだろ! そっちこそ、やめるなら今のうちだぞ!」

「俺だってそこそこの探索者ブックワームなんだぜ」


 セティを見下ろしていた青い瞳が、今度はソフィーに向けられた。


「ソフィーも、今更ナシだなんて言うなよ」


 セティも真剣な瞳でソフィーを見上げた。

 二人の視線を受け止めて、ソフィーはまた大きく溜息をついた。


「ああ、もう、わかった。わかったから、これ以上の言い合いはやめて」


 それだけ言うのが精一杯だった。

 セティとリオンはまた睨み合ったけれど、それ以上言い合いにならなかったのは、自分の言葉を聞いてくれたから──だと良いなとソフィーは思った。



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