二十二 偽りの夫婦

 眩い光が遠い記憶を思い起こさせるように、開け放たれた窓から蒿李の寝室へと入り込んだ。

 その眩しさから目を背けなかったのは、自身を見つめる目が、傍にあったからだろう。

 寝台の上で蒿李は上体だけを起こして時の流れでも数えるように過ごしていた。だが今は、夫には程遠い男が苦々しいような難しい顔で見舞いに訪れて、そうもいかなくなった。


 元々まともな夫婦の形でもなかったのに、子がいなくなってより遠のいてしまった。確かに一時は自分に向いていた思慕の眼差しが、消えていた事が蒿李にとって少しばかり複雑な心境を作り出していた。


「顔色は良さそうだな」


 幼さを感じた青年の声は今はもうない。ただ、今もまだ優しい声音が、蒿李には残酷に思えた。


「ええ、おかげさまで。ようやく身体を起こせるようにまでなりました」


 悪鬼が現れたと言われる騒動から、ひと月が経とうとしていた。

 季節は冬へと移り変わるも、今日ばかりは日差しが強く春を思わせる程に暖かい。そのおかげか、蒿李も身体が軽かった。


「そなたとこうして話をするのは、いつぶりだったか」

「随分としていませんね。私が病床になければ、きっと今もなかったのではないでしょうか」

「痛いところを突いてくるな」


 そう言いながらも、眉間に皺が寄っていた舜の顔は和らいだ。未だ青年と言える顔立ちに、蒿李も釣られて静かに微笑む。同時に固まった決意を胸に舜の顔を真直ぐに見た。


「陛下、今日は折言って話があります」

「……なんだ」

「離縁を受け入れて頂きたく」


 舜は一瞬の機微は見せるも、動じてはいなかった。


「離縁してどうする。周右丞相は悪い人間ではないが、甘くはないだろう。そなたを無理矢理皇后位に押しやった男だ」

「ええ、ですので家には帰れません。出家しようかと。後生、慶の偲んで生きていこうと思います」


 舜は驚いた顔こそ見せたが、蒿李の落ち着いた口調が本気であると悟ったのか直ぐに平静に戻る。一言、「そうか」と納得した言葉を零しては憂いを見せた。


「陛下。私は陛下の優しさが辛かった。陛下はお優しすぎる。私の不義理に付き合う必要は無かった――私を置物とでも思えばよかったのに、更には親子共々気遣って下さる。陛下のお優しい心を見れば見る程に、心が締め付けられました」

「馬鹿を言え。余こそ、そなたを利用したも同然だった。慶がいなければ、生涯子供も持てぬ人生だったかも知れぬ」

「……お互いに、もっと言葉を交わし合えば良かったかもしれませんね」


 蒿李は目を伏せて今更ながらに後悔を見せた。もっと、その優しさに甘えていたならば結果は違っていただろうか。我が子がいずれ、皇帝位につく事に罪悪感なく生きれただろうか。

 心から、目の前の男を信じ愛する事が出来ただろうか。

 昔、男が自身に向けていた愛情は、今はもう見えない。

 けれど、それも仕方がない。


『こんな所に来なければ……』


 過去の自分が口にした言葉を思い出し、既に愛を求める事も烏滸おこがましいのだと、口を結んで蒿李は堪える。

 そうだ。裏切ったのは自分なのだ。

 後悔などあってはならない。己がしでかしてしまった事を胸に刻みつけて、蒿李は今一度目の前の男を見やる。


「陛下、私は心が耐えきれないばかりか、慶の死で皇后の役割すら放棄していました。更には悪意に呑まれ、陛下を害そうとすらしたのです。何より私の心は脆い。再び、己が心に呑まれないとも限らないでしょう」


 蒿李は平伏できない代わりに、出来る限り頭を垂れる。

 愚かな自分を罰するかの様に。


「どうか、受け入れて下さいまし」


 蒿李判断を耳にして舜は逡巡でも深まりそうなまでに目を伏せたが、そうは時間は掛からなかった。

 

「……わかった。右丞相にも此度の件は書簡にして送ろう」


 そこで漸く蒿李は頭を上げて、落胆の色を見せる男を見据えた。未だ若く、漸く何かしらが芽生えたかどうかが噂になっている。


「これから、陛下はどうされるおつもりですか? そう貴嬪きひんを皇后の位に着かせる気は無いのでしょう?」

「彼女は皇后どころか余に興味がない。元々ただの穴埋めのようなものだ。皇后など滅相もないと笑顔で断りを入れるに決まっている」

「では、しょう貴人に? 陛下の従兄妹であらせられますし」

「やめてくれ。彼女は望んで後宮に入ったが、どうにもな。母に似通っていて、女として見るのは無理だ」


 舜の記憶の中で、母の顔は自身に微笑みかけた時だけだ。黒い靄が晴れて、今一度、後宮に通うようになったものの、今度は記憶が邪魔をして母の生き写しのような蕭貴人をまともに見やる事出来ないでいる。


「では残りのお二人を?」

「……あの二人は無い」


 貴族の教養としては申し分ないが、皇后としては……と、御託を並べてばかりの顔は幼くなっていた。


「陛下、ではいつかは選ばねばなりませんよ」

「……ああ」

「姚流麗が気になるのならば、新たに位を設けて後宮に入れてしまえば良いではないですか。陛下にはその権威がありますよ」


 道院や寺院に身を置く者でも婚姻は出来るのですよ、とくすくす笑って舜を揶揄う。皇帝の権威を持ってして命じてしまえば姚流麗を手に入れる事など容易い。が、何故だか本人は気落ちした様子を見せているではないか。


「陛下?」

「……彼女は今も、己が運命に縛られて生きている。これ以上しがらみに縛り付けたくはない」


 と、真摯な言葉を吐いたかと思えば、自身で言い放った言葉に落ち込む。

 その様な姿を今の一度も見た事はない。

 ああ、と蒿李は舜の見た事も無い姿に得心した。


 二十二歳にして、剋帝陛下は恋に落ちたのだと。


「あら陛下、そのような事を言っていては他の男に獲られても文句は言えませんよ。宜しいのですか?」


 蒿李は少しばかり意地の悪い言葉を選ぶ。

 舜は、蒿李を愛そうとはしてくれた。夫婦になろうと試みてくれていた。それを受け取らなかったのは自分だが、舜に本意の想いがなかったのも事実だった。


 だから、少しばかり腹が立った。

 そう、少しだけ。


「それに、このままでは陛下は四人から皇后を選ばねばなりません。難儀していると男色とでも思われてしまうかも。そうなれば責務を問われ陛下の立場は悪くなるばかりですよ」

「いつ、その様な底意地の悪さを覚えた」


 舜は、皇后と同衾しただけでそれ以降、一切の何かしらが無い。

 良い加減、新たな噂が広がってもおかしくは無かった。

 苦渋の顔を見せる舜を前にして、蒿李は柔らかい笑みを携えた。


「良いではないですか、別に後宮に入れずとも」


 けろりとした顔で蒿李が吐いた突飛な言葉に、舜は呆気に取られたように固まっていた。

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