二十 愛しき我が子よ②

 禍々しい気配の殆どが、流麗へと向かって行った。

 宙空で翼が生えたように舞う流麗の周りには、鴉達が現れて流麗を守ろうと全ての攻撃をいなしている。蔦から蔦へと飛び移り、流麗は陰の気質を宿した剣を守りにこそ使えど、決して攻撃はしなかった。

 蔦が執拗なまでに流麗を追いかけて、気がつけば舜の眼前に群がっていた蔦が減り、辺りが開ける。それでも、残った蟲や蔦が舜を阻もうと少しづつ舜へと近づいていた。


 舜もまた、剣を抜いた。

 剣が重い。もう永く、剣を握っている暇もなかったのだと実感させる。染みついた感覚を振り払い、舜は柄を握りしめた。

 まだ気とやらは理解できてはいない。だが、立ち止まっているわけにはいかなかった。


 舜は恐れる事なく踏み出した。

 踏み出した瞬間に、残っていた群が更なる動きを見せる。蟲が集まり襲いくれば、舜は迷いなく剣を振るった。

 殆どが斬られても散っていくだけで、効果の程は殆どない。ただ散らして、また寄り集まって元に戻るだけ。


 それでも足は進み続けた。一歩。一歩づつ。

 そうしてたどり着いた、周皇后の眼前。


蒿李こうり……」


 親しみある者へ向けた声色が、久方ぶりに口にしたその名前。赤子ばかりを見つめていた周皇后の目が静かに舜を捉えて、僅かに身体が揺れた。

 されど、その目の色は常闇と同じ悍ましいまでの黒を宿したままだ。


 舜の敵意は、腕に抱く赤子へと向いた。枯れ枝のような身体のそれは、よくよく見れば周皇后の胎の辺りと繋がっている。 

 その様に、舜は目を背けるわけにはいかなかった。


「蒿李! 慶はこの世にはもういない。紛いものを生み出す程に悲しみにくれていたのだろう。皇后になったから、慶を失ったのだと俺を恨んだのだろう!?」


 舜の叫びに、周皇后の身体が更なる漆黒へと染まっていく。黒絹は輝きを失い、肌の色すら全て常闇と同化していく。


「あの子とそなたと共に過ごした時間は、俺にとっても幸福そのものだった。あの時だけは、そなたの幸せに満ち溢れた表情が俺にもはっきり見えていた!」


 舜は、人の表情は見えてはいなかった。けれども、時折、靄が晴れて顔が見える時があった。

 周皇后が、慶に微笑みかけるその時。眩い光に照らされた母の顔が、確かに旬にも見えていた。

 その瞬間こそが、舜にとって掛け替えのない時間だった。 


「悪鬼になど身を落とせば、慶と過ごした記憶も、想いも全て消し去る事になるぞ! 恨むなら、生きて俺を恨み続けろ!」


 漆黒に染まった皇后の視線が、完全に舜を捉えた瞬間だった。その目からは涙を流し、正気に戻ったかのように腕に抱く何かから抵抗を見せた。腕に抱えたものを忌避するかのように、ギチギチと絡まった蔦が唸る。

 周皇后の力では、それが限界だった。 


「……陛下、私は……」


 掠れた、二人の声が重なり合ったかのような異質な声。けれども、その声は怯えたように震えている。


「申し訳……ございませんでした……」


 最後に、それだけを伝えると、周皇后に纏わり付いていた蔦が蠢き始め、禍に呑み込まれた。


「蒿李!!」 


 舜は剣を構える。されど、構えたところで、それはただの剣だ。人ならばいざ知らず、悪鬼は滅せないだろう。されど、悩んでいる時間はない。

 目の前で、呑み込まれた周皇后とは違う気配が生まれつつあるのだ。

  

『同じ系腑に属するもの同士では、どちらか勝る方しか生き残れない』


 今になって、流麗の言葉が重くのしかかる。舜が、周皇后を助ける事が出来ねば、流麗が代わって悪鬼を討ち取るだけという話だ。

 けれども、それでは――


 ――また、人が死ぬ。

 ――俺と関わったばかりに、人が死ぬ。


 禍に埋もれていた感情が蘇りそうだった。

 悍ましく腹の内を這いずり回る錯覚まで起きそうで、舜は焦りと共に腹を摩る。

 額からは冷や汗が出て、一歩が踏み出せなかった。

  

 だが、暗闇の彼方からピュー――と口笛の音色が届いた。金糸雀の声に似た、美しい音色。


 ――流麗…… 


 その音色は、常闇の中、舜は孤独ではないと教えてくれるのと同時に、流麗の言葉を蘇らせた。


『私にとって、陛下は光です』 


 決して、舜の周りには死ばかりではなかっただと、教えてくれた言葉。

 その言葉が、舜の心に火をつけた。

 構えた剣を握り直す。


 きっさきを、周皇后が常闇に消えた先へと向ける。目を凝らし、そこに何がいるか。もっと、もっと深くへ――



 舜の狙いが定まったかのように、目を見開く。その時――眼光が炯々と輝いた。

 瞳が鋭く、金色こんじきの輝きへと変貌する。

 その瞳、既にこの世から姿を消したと言われている、龍の鋭さの様。

 

 姫家は古く、龍であったという逸話がある。この国を支配していたと言われる、五色の龍達。その中心であったと言われる金色の龍。その伝承を彷彿とさせる瞳は、舜が見ていた世界を変えた。


 常闇である事は変わりない。だが、常闇の中に消えた悪鬼は舜の目にしかと映っていた。


 舜は、悪鬼へと向かって走り出した。


 身体が熱い。血が沸騰したのかと疑う程、煮えたぎるように熱いのだ。

 血脈の一本一本が何処にあり、その流れが汲み取れるかの如く、舜はそれが流麗の言う“気”なるものと理解するのに時間はかからなかった。

 血脈の流れは、掌から剣へと伝うと、より熱を感じる。

 高揚感にも似た感覚が、身体中を駆け巡っているようで、剣すらも自身の一部に感じていた。



 


 金の瞳が常闇に輝く。その目に映る、悪鬼がおどろおどろしい姿を表して舜を見下ろした。

 二本の足で立ちすくみ、天をも穿つ角を持つ。人よりも、二回り以上も大きいその巨躯は、枯れ枝の不気味な色合いがそのまま人型になった様にも見えた。身体中には彷徨っていた蟲が、そこら中に張り付いてズブズブと喰われていく。

 

 ――禍が、禍を喰って大きく……


 舜は近づきつつも、冷静だった。

 あちらもまた、舜の姿が見えている。踏み出した舜へと向けて、既に腕を大きく振り上げていた。


 ほんの、一瞬。

 大きさに見合わぬ速さで、悪鬼の腕が舜へと振り落とされる。その手は勢いのままに幾重もの蔦が伸びて舜を突き刺そうとする。だが、舜は全ての動きが見えているが如く、全て軽く躱すだけだった。

 舜の勢いは止められず、悪鬼の身体から蔦が槍の如く伸びて阻もうとするが舜は前へと進みながらも全てを斬り落としていく。そのまま悪鬼の懐へと入り込んで、ただ一点を目指していた。

 蒿李こうりがいる場所へと向けて。


 懐に入り込み、舜は勢いのままに地を蹴った。

 愚直なまでに真っ直ぐに向かう剣。

 地を蹴ると同時に、舜の剣が仄かに光った。後宮で、駆け回っていた獣達の如く、白光した剣。


 舜は迷いなく悪鬼の胎を、斬った。

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