十九 愛しき我が子よ①

 ――可愛い、可愛い、愛し子よ

 ――揺籠ゆりかごの中で、お眠りや

 ――ちょうちょの夢見て、お眠りや

 ――ちょうちょの夢から覚めたその時は

 ――母の腕に戻っておいで



 優美なる歌声が、暗闇に囚われた部屋の中から響き渡る。

 腕の中で、赤子を抱く母を思わせる歌声であるはずなのに、視界を全て絡めとる暗闇では、彷徨う幽鬼のささめきと何ら変わりない。

 そう大きな部屋ではない筈。舜は、幾度も訪れた事があるはずの部屋が、別世界のようでならなかった。

 視界には広がるばかりの常闇で、調度品の一つも見当たらない。確かにあった筈の思い出すら飲み込んでしまいそうだった。


「……俺ならば、助ける事が出来ると言ったな。何をする」


 舜は動じなかった。怯えている場合ではない。最善の手があるならば、やるだけだ。己を奮起し拳をぎりりと握りしめる。


「邪気とは、陰の気。私もまた、陰の気質。同じ系腑に属するもの同士では、どちらか勝る方しか生き残れない。けれども、陰と対極になる陽ならば話は変わる。その力で、陰の気を相殺できるのです。けれども、悪鬼に勝る程でなければ意味は無い」


 暗闇の先を見つめがならも、流麗は気にすら見せずに淡々と語る。


「陛下はとても強い陽の気を持っておられる。身体に巡る陽の気質を己が手で掴みなさい。それが、私に言える事です」


 酷く曖昧で、教える事すらできない事を頼らねばならない。本来であれば、何年と修練を積んで自在に操るのだろう。舜が気なるものを感じたのは、一度だけ。流麗が、舜の体内から禍を抜いたその時だけだ。じんわりと身体の中で何かが巡る。そう、真剣を振い武官と交えた時のような、血の昂りに近いものがあった。


 ――あれを、自分で? どうやる? できたとして……


 舜は悶々として頭を抱え込みたくもなったが、そんな時間はなかった。

 既に、流麗の目線は常闇の奥底を眺めている。深淵の向こうにある何かを。


「行きましょう」

 

 流麗に迷いはない。禍々しきが蠢く暗闇へと向かって進んだ。舜もまた、その後に続く。


 

 常夜とこよという夜ばかりの世界があるらしい。黄泉の世界がそれに当たるらしいが、今いる場所が常夜であると言われても、舜は納得しただろう。

 子守唄だけが二人を誘うように響き、カサカサゴソゴソと蟲達が這いずりまわって否が応でも蠢きが耳につく。

 沼地でも歩いているかのように覚束無い足下に現実味はなく、本当に床を踏み締めているか動かも怪しい。歩いているようで、実は足踏みをしているだけなのでは。そんな錯覚すら芽生えそうだった。

 そう間広い部屋でもないはずなのに、一向に端に辿り着かないというのもあったのかも知れない。 

 

 それでも、舜の思考が常夜で彷徨い呑み込まれる事にならなかったのは、流麗の姿だけはともしびの如く見えていたからだった。視鬼しきのお陰なのか、それとも流麗が何かをしているのか。


 流麗の姿がしかと見えているからか、不思議と恐怖心は湧かなかった。が、歌声が近づく度に、舜の胸を抉る。


 何度と、耳にした事のある、情愛の籠った子守唄。


 ――この歌で、慶はよく眠った


 舜も皇帝と皇后という堅苦しい肩書を忘れて、「蒿李こうり」と呼んだ思い出が蘇る。





 どれだけ歩いた頃か、流麗が足を止めた。

 深淵の先は底知れない。禍々しい闇の中でも、流麗の瞳は一点を捉えていた。ゆっくりと、流麗の腕が持ち上がり、暗闇の先を真っ直ぐに指さす。


 舜は、自然と指し示すその一点へと視線が集中した。

 目を凝らし、歌声に耳を澄ませる。

 すると、ピタリと声が止まった。同時に、見えていなかった姿が、闇の底から姿を顕す。


 煌びやかな黒絹を纏う闇に包まれた女。黒衣は死者を弔う喪服のよう。聖母が如く柔らかい微笑みを腕に抱く黒いに向けている。

 その、醜悪なまでに悍ましいに。


 枯れ枝の如く萎れた身体は赤子の大きさだが、ぎこちなく動いては、母を求めて枯れ枝の萎びた腕を伸ばす。鳴いているのか、「ああ……」と掠れた呻き声にもにた音が、繰り返し蟲の蠢く音を歪ませた。


 慶ではない。舜は、周皇后の目を覚まそうと一歩前に出ようとしたが、流麗は左腕を伸ばして遮った。


「陛下、もっとよく目を凝らして下さい。目を凝らせば、この暗闇の形が見えてくる」


 流麗の言葉を、口の中で反芻する。流麗と舜では、未だ見えているものが違う。もっと、もっと、深い底を見なければ。

 そう、例えば水底を覗き込むように。川面からは見えないものも、身体を沈めてしまえば、目を凝らさずとも良く見える。


 舜は今一度目を閉じた。ずぶずぶと沈む感覚に身を投じ、沈み切った感覚で目を開く。

 暗闇の中、明瞭になった景色が舜の目に入り込んだ。


 枯れ枝のような蔦に絡まれた周皇后。糸で吊られた人形のように、その腕、その足、首に絡まった蔦。その蔦は部屋中に広まって、それこそ、舜の足の爪先にまで及んでいる。蛇のように動いては、それ以上を近づこうとしない。

 その出所は、腕の中にいる――


「陛下、周皇后は悪鬼宿す存在です。悪鬼を殺せば宿主は死にます」


 淡然たる口調は、既に見切りをつけている。流麗の右手は、言葉の吐露と共に剣に触れていた。

 聖母然としたと思えていた顔色は、今にも虚無に飲まれんと呆然と赤子に似たそれを見やる。記憶の中で慶を腕に抱き、愛しき者に向ける眼差しが、眩しくも儚く消える。


 流麗は剣を抜く。流麗が構えて強く柄を握れば、ぞわりとした空気を纏い、剣身の輝く光沢の鋼色は黒鉄色よりも更に濃い黒へと染まっていった。今いるこの空間と同程度かそれ以上の禍々しき気配が剣からも伝わる程に。


「私が他を引きつけます。陛下は、皇后陛下を助ける事だけを念頭に置いて下さい。前だけを見て」


 どうか、周皇后陛下と慶殿下の為に。そう言い残して、舜が返す間も無く流麗は動いた。

 一歩、踏み込むと高々と飛ぶ。流麗は右手に剣を構えたまま、左手で印を結んだ。

 高く宙に浮いた流麗へと向かって辺りが騒めきだす。


 蟲達の蠢きが更にざわざわと激しくなった。蛇が鈍間に動いているだけだった様子の蔦も、一瞬にして牙を剥き、流麗へ絡みつこうと迫る。

 槍のように先端を尖らせて、歴戦の将が敵を射殺す勢いで、高々と飛んだ流麗の心の臓を貫こうと殺意を纏わせていた。

 ただの蔦に見えたそれらは絡み合い、流麗を止めようと必死。宿主である皇后を殺されたなら、それこそ悪鬼は死を迎えるのだろう。

 宿主さえ、奪われなければ。その意思がまじまじと見えた。

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