十 何も知らない
日も沈んだ頃、
「陛下のお渡りがないってどういう事なの!?」
「ですから、本日はどなたの宮も訪れていません」
「お加減は良くなられたと耳にしたわ。それなら、順番から言って今日は私の宮に来るはずでしょう?」
「そう言われましても……今日は
けたたましい金切声でもあげそうなまでに苛立ちを隠せない範宮人は、今にも伝言を受け取った侍女に手を振り上げてしまいそうだった。可愛らしかった幼顔は
剋帝陛下はどの妃嬪にも肩入れをしていない。更には、周皇后とは不仲と言われている。その証拠に、周皇后の宮である麒麟宮にはもう何年も足を踏み入れてはいない。
という事は、取り入る隙がある。とも取れる。
しかし、その皇帝本人が自身の元に訪れなければ意味はない。
剋帝陛下は贔屓をしないが、二日おきに妃嬪の宮を順番に訪れる。
今日、陛下が白虎宮に訪れるという事が、範宮人にとってどれほどに重要であったか。
「ああ、もう。これでは、次の
序列で言えば、皇后を第一位とした時に、第二位は貴嬪である。宮人は、第五位の最下位なのだ。
これが、先帝のように、大勢の妃嬪を抱えた内の一人であったなら第五位もそこまで悪くはなかっただろう。
だが今は皇帝の妻は五人しかいない。それも、範宮人は一番
「なんとかしないと……」
先細るように小さくなっていく声。位が低いからと言って、他の妃嬪達と比べても遜色がないほどに豪奢な部屋の中。範宮人は不安からか、跪き見ぬふりをする侍女達を前にしても、何度も部屋の中を右へ左へと彷徨った。
◇◆◇◆◇
秋風が通り抜けて木々が揺れ、葉が擦れてザアザアと鳴く。
その度に、耀光宮の露台に金木犀の香りが立って辺りが華やいだ。
舜は杯を片手に、仮面を外した女を見た。
対面に座る女は、礼儀正しい姿で酒を嗜む。座っているだけの姿にも品がある。食事の最中も、あっさりと皇帝の誘いを受けただけあって人前に出しても恥ずかしくない教養を受けてきた様を見せつけた。
「それで、陛下は私の何を知りたいのでしょうか」
ああ、と舜は気の抜けた返事を返す。何が知りたいかと聞かれて、呆然と何を尋ねようか考える。が、そもそも、名前しか知らないのだと思い出す。一番最初に浮かんだ疑問はなんて事はない単純なものだった。
「歳は幾つだ」
「二十四です」
「……年上だったのか」
「あら、陛下は年長者を敬っていただけるのですか?」
「己が精神を御する事のできる者、礼を尽くす者、我が国の為に尽くす者には敬意を示している。歳は関係ない」
「同感です……他にはありますか?」
どこまでも余裕を見せる流麗の姿に、ふと疑問が湧いた。二十四ともなると結婚適齢期など過ぎている年頃だった。
「結婚は?」
「していません。私には無縁のものです」
舜は、謎の安心感に浸る。が、同時に不安にもなった。そのどちらもが、自分に何故そんな事を気にするのかと問い掛けたくもなるものでしかない。
己の中に湧いた良くわからない感情を打ち消すために、また別の質問を考える。
「……では、
「あくまで、姚家の記録に残されているものとしてお答えします。虚偽の是非は問わないで頂きたいのですが」
「良いだろう」
それまで雰囲気に合わせて、和やかな顔つきだった流麗の顔は、途端に儚げに変わる。話に自信が持てていない……恐らく流麗にとっても真意が知れないところにあるのだろう。
「二百年前に災禍があった事をご存知でしょうか」
これには、舜は眉を顰める。
「知っている。突如、この国が夜に覆われた、という話だろう。
どこまでが真実かの判断は、舜にはできなかった。
けれども、
「全てが真実です。大いなる禍により常夜が訪れ、妖魔による混乱で国は滅びかけた。されど、偉大なる陽の気たる
流麗は寂しげに目を伏せる。
「姚家という家から後宮に入ったという記録はなく、彼女は突如、貴人として現れます。本当の名は我々も知り得ません」
「出生は不明か」
「はい。ただ、顓頊帝の寵愛を受けたとだけ。
「それで貴人になって、記録もないと?」
「記録が残っていないのは、故意に記録を消したからとも考えられます」
舜は目を見開いて驚いた。それが真実であるならば、皇宮に保管されている記録を誰かが消した事になる。そして、それが出来る者は当時とて限られていただろう。
「消したのは、
「恐らくですが。此処からが、もしかしたら陛下の不況を買うやもしれないのですが……」
「狭量になった覚えはない。話せ」
流麗はくすりと笑うと、ではと言って続きを話し始めた。
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