九 浄化の儀③
見えぬ者達は、何が起こっているのか判らず、犇めきあって、恐怖こそ芽生えるが悲鳴も上げられない。ただ、ざわざわと
ある者は、身体を震わせるほどに怯え。
ある者は、何かが見えるのか目を塞ぎ。
またある者は、耳を塞いでいた。
「姚女士、そろそろ終いだ」
既に、幽鬼が綺麗に浄化されたと言っても良いほどに静寂を取り戻した後で、今度はピンと糸を張ったような耳鳴りが舜を襲った。
また、違う気配がやってくる。
それも、流麗の中から。
ずる――と、舜は足下から何かが這い出した感覚に、動けなくなった。
気配は一瞬で舜の視界を埋めたかと思えば、静かな羽音を立てて次から次へと現れる。
鴉だ。それも、大きな翼を広げた、何十、何百という黒鴉達が流麗の身体から続々と翼を羽ばたかせ、迷いもなく空へと舞っていく。白い獣達と同じように縦横無尽に空を舞い、集まっていた蟲達はその
その姿に舜は思わず眉を顰めた。
――蟲を、喰らっている……のか?
共食いの如く闇が闇を喰らう姿。舜はいつの間にか動いた頭を自然と上へと向け、その姿に釘付けになっていた。
段々と、空を覆っていた蟲達減り、最後に地を這っていた蟲達をも飲み込まんと地に降りてくる。暗闇が無くなり、もとの明るい日差しが戻る頃には、蟲は一匹たりとも姿がなくなっていた。
ヒュウ――と、ささやかな秋の風が通り過ぎる。清々しい風の中、今まで黒く滲んでいた世界が煌めく様に輝き出す。後宮の華やかな世界が眩しい程に舜の瞳にしっかりと映り込み、更には誰の顔を見ても表情がはっきりと見える。
ようやく平常に戻った報せで、流麗に終わったのかと問いかけようとした。
だが、流麗の双眸は女道士と共に同じ一点を見つめて、今もまだ厳しい顔つきのままだった。
その
周りの女達が未だ怯え戸惑う中で、ただ一人。何事もなく平然と立ち尽くし、舜の姿をどんよりとした重たい目線で、じいっと見つめていた。
◇◆◇◆◇
本殿のとある客間で、舜は客とは呼べない
地べたに座り儀礼に拱手の姿勢を見せる。相変わらず布で覆われた顔は隠れたままだったが、どうにも上目遣いでニコニコと上機嫌でいる様でならない。
「
今ではその記憶が霞んでしまいそうなほどに、上機嫌な姿だった。まあ、傅道士に提示された寄付の金額を見れば、誰でも上機嫌になるのかもしれないが……。
舜は、傅道士の隣で同じく膝を突き、頭を垂れたままの女を見た。
その視線に気がついたかどうかは定かでなかったが、跪いた姿勢のまま、流麗の声が舜へと届いた。
「陛下、此度の儀式により後宮に残っていた彷徨う者達は浄化され、邪気や禍は取り払われました。されど、未だ残る部分がございます」
「……余の事……だろう」
「ええ、陛下の中にある澱みは未だそこに。ですが、もう一人。禍根が残った方がおります」
その瞬間、舜は最後に見た憎しみが籠る瞳を思い出し、舜の眉間に皺が寄るほどに顔を歪ませる。
「……周皇后か」
「ご明察にございます」
舜は全く嬉しくなさそうに二人から視線を逸らし、何かを考えるまでもなくそのまま口を開く。
「傅道士、此度はご苦労であった。そなたらの力はしかと見届けた。今後も、何かあれば助力を頼む」
「もちろん、その時は我々一同陛下の元へ飛んで行きまする」
「金は後日、書簡と共に届ける。下がれ」
舜の素っ気ない言葉を気にする事なく、傅道士は立ち上がり再度深々とした揖礼を見せると、言われるがまま足取り軽く部屋から退室していった。
残された流麗は、舜の言葉を待っているかの様に今も膝をついたまま。
矢張り、遠い。
流麗が態と舜への主従関係を指し示している様で、なぜだか舜にはそれが面白くなかった。けれども、今の心情をどう言い表せば良いかも分からず、舜はただただ手の届かぬ位置にいる跪く女を眺めるばかりだった。
「陛下、」
しかし、そんな考慮すら見通してでもいる様に、あっという間に女の声が現実へと引き戻す。
「剋帝陛下の御不調、ひいては周皇后陛下の御様子。どちらも調べたい事がございます。少々、皇宮での資料閲覧の許可を頂きたいのですが」
顔を上げないまま話し続ける女に、舜の目線は冷めて、口調も強張る。
「……何が必要だ」
「陛下ご自身の診療記録など……様々な細かい記録まで」
「余の病状は自力で治すしか術はないと言っていなかったか?」
「お手伝いはできます。御不快でしょうか」
「……いや、好きにしろ。診療記録は余の管理下だが、隋徳も中身をよく知っている。あやつに案内させよう」
「感謝します」
機微すら見せず、他の官吏達と違わぬ姿の流麗。
舜は徐に立ち上がると、流麗へと歩より目の前に立ち竦んだ。
「流麗、立て」
冷ややかに命ずる声に対しても、流麗は迷いも見せずに従い立ち上がり、真っ直ぐに舜を見上げる。
その眼差しにきっと意味はない。けれども、舜に対して確信的なまでの信頼だけは見える。白い面の向こうで黒翡翠の瞳が舜を突き抜けていく様で、舜は流麗に向かって手を伸ばしそうになった。
だが、何かが己を止める。代わりに、閉ざしそうになっていた舜の口が滑らかに動き出した。
「……今夜、夕餉に招待するから来い。余の記録を見せるのだ。代わりにそなたの話も聞かせろ」
「喜んでお受け致します。ですが、宜しいのですか? 妃嬪の方々のお耳に入ると、不都合があるのでは?」
流麗の言葉は尤もであった。が、流麗の言葉では遠回しの遠慮を見せるも、目を見る限り何処か楽しげでもある。
舜も、興が乗ったと言わんばかりに口の端を吊り上げて、楽しげに返した。
「今まで、四人の内の誰かを贔屓した事はない。今日いの一番に行くと、騒ぐ者がいてな……面倒だ。そなたが避雷針になってくれるならば、後宮は平和だ」
舜の体調は、健康そのものに近い。その報せは後宮にも届いている事だろう。その状態で、後宮に足を運ぶとなると御機嫌取りにだけ向かっていた場所に意味が生まれてしまう。
順番で言えば今日は
その真意に気付いたかどうか。ただ、流麗は舜の言葉をあっさりと飲み込んだようで。
「では、私がその役目を買ってでましょう」
白い面の向こう、舜の目には流麗が悪役を買って出ると口にしながらも悪戯に笑う姿がしっかりと映っていた。
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