八 浄化の儀②

「姚女士じょし(女性に対する尊称)、準備は終わったようだな」


 月影の門の前に用意された祭壇の側で、頭目と思しき道士の横に並んで待機していた流麗だったが、目の前で止まった舜の声に顔を上げずに、「滞りなく」とだけ答えた。

 舜はそうか、と穏やかで流麗に対して一切の疑念もない声で返す。

 安心した様子で、舜の目線は後宮へと向いた。一望すると、後宮の総勢、二百人あまりの人員がそこにいる。


「今のままでは儀式は始められぬだろう。皆顔をあげて良い」


 舜の言葉に迷いなく、頭を上げたのは皇后や妃嬪達だった。次いで、侍女達が妃嬪達に倣う。そして、揖礼のままでは事を進められない道士や巫覡達。最後に、女官達が恐る恐るといった様子で、縮こまりながらも皇帝を見据えていた。

 全てを見届けて、舜は今一度流麗を見やる。

 すると、流麗は隣にいた道士へと目線を向けて頷いた。

 他の道士と格好はそう変わらないが、手には帝鐘ていしょう(三清鈴さんせいりんとも言う)を握っていた。   


「では、剋帝こくてい陛下。始めさせて頂きます」


 若くはない女の声色で、道士は再度、舜へと儀礼を見せる。舜が頷けば、女道士の目線はそれぞれの道士や巫覡へと向いた。それぞれが既に役割を把握しているのかそろそろと動き出しす。集まった皇后を含む女たちを取り囲み、十人の道士ともう十人の巫覡は交互に、そして等間隔に並んだ。

 何が始まるのか。多少の騒めきが起きるものの、別の音色が聞こえるとそれも一瞬で止んだ。


 ピュー――と、金糸雀の鳴き声にも似た口笛が涼やか響く。


 その音色で一堂の視線が流麗へと流れた。






 舜は流麗の口笛に耳をすます傍らで、背筋が凍りつきそうだった。

 集められた者達の顔に張り付いていた蟲達が一斉に羽ばたいて、流麗がくるくると指を回せば、吸い込まれるようにその指へと向かっていく。隋徳ずいとくとは違い、多量の糸が流麗の指を漆黒へと染め上げるが、巻いていく側から糸は溶けて消えていった。

 そばに居た羽虫達は消えて、流麗の口笛だけが暗闇の中で響き渡る。 

 もう何もいないのだろうか。舜が気を抜きそうになった時だった。

 大勢の気配が寄り集まってくる感覚が、舜の全身を駆け抜けた。


 ずるずると身体を地に這いずるような音ばかりが近づく。更には遠くから響いているはずなのに、耳元でも音がする。

 その音が己に迫っていような感覚に舜の顔色はみるみると青くなっていくばかり。けれども悟られまいと顔を俯けながらも身体を支える脚に力を入れ続けていた。

 後宮にいたモノから、本殿にいたモノまで全てが一点――口笛に向かって集まってくる。それが一つの大きな塊になって差し迫ってくるようだった。


 気配はより濃厚になる。

 まるで、夜が迫り来る様に辺りが暗くなった。月光も、導となる星明かりもなく、真なる暗闇。

 だがよく目を凝らせば、暗闇の一部がザワザワと蠢く。


 ――蟲だ


 見慣れたと思っていた、黒々と蠢くもの達。けれども、空を覆う程、地を埋め尽くす程の多さに舜は思わずおののき後ずさった。ずずず――と音立て、暗闇が大口を開けて自身を飲み込まんとしている。  


 ――見えない方が良い。こんな悍ましいものなど、生涯見えない方がいいに決まっている。


 舜は、いつも以上に見たくもないものを映し出す己の目を呪いたくなった。視界から悍ましいもの達を追い出したくて、舜の目は恐怖から逃れようとして自然と下を向く。

 だが――


「陛下、大丈夫です」


 暗闇の中の一筋の光の如く、清廉とした声が舜に届いた。

 気付けば口笛は止まっていた。俯けていた顔を上げて、舜は声の主たる女を見る。

 白い面の奥底で、舜をいたわる瞳が柔らかく笑った。


 その微笑みが、自身の為のものであると考えるだけ、恐怖が遠のく。不思議と、何かに護られている感覚が舜に芽生えた瞬間でもあった。

 そうしていると、今度はリーン――と甲高い澄んだ鐘の音が舜の感覚を遮った。女道士が帝鐘ていしょうを振り鳴らして、後宮を見据えている。


 銅特有の透き通った鈴音が暗がりの中で彷徨う者達の物音を掻き消す。リーン――と、一定感覚で響く度に、そばにいる筈の悍ましかった気配がピタリと止まる。


 その瞬間に、道士や巫覡達が動き出した。

 巫覡は胸の前で手を合わせ、死者を弔う祈りを唱える。

 道士は右手の指を二本立たせて、何かを指し示す様に前へと突き出した。


 殆どが同時だった。

 道士達が一歩前に出た瞬間、それぞれの道士の身体からさまざまな白い獣が飛び出したのだ。兎や猫と言った可愛らしい獣もいれば、鷹や馬、中には虎まで。暗闇の中で、まるで導きの灯籠が如く白光しては、行く先を照らす。その先に、姿を現したるは、すぐそば迄迫っていた彷徨える幽鬼達だった。

 野山を駆け回るが如く、その軽快な事。獣達は勇ましく縦横無尽に駆け回り、白光した身体が眩しく闇を照らして、次々に幽鬼達の身体を突き抜けていく。

 獣達に捕まった幽鬼の姿は、次々に、すうっと煙の様に消えていった。




 

 舜は夢でも見ている気分だった。

 視鬼しきと言う特殊な目を持つからこそ、見える世界。踊る様に幽鬼を屠る獣達。

 つい先程まで、恐怖に染まって見えていた世界が、舜の目に神々しく映っていた。

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