四 陰と陽

 舜の眼光は、今にも目の前にいる流麗を射殺してしまいそうだった。

 腹の内を覗かれた気分。不敬を働けば、言葉一つで人を殺せてしまう身分だ。けれども、流麗はその威圧を前にしても引き下がらなかった。


「陛下のお身体はとても強い陽の気を帯びているのに、同時に酷い濁りが見えます。陛下の中にある何かが陰気を呼び寄せているのです。それが、禍が入り込む隙になったと思われます。禍が胎内に入り込むのは余程の事。私が今、治療を施しても、陛下がご自身の身体を知り、ご自身で元に戻さねば、また同じ道を辿るだけなのです」


 古来より、男は陽。女は陰と言われている。それは、舜も知っている事だ。

 姫家とは龍の血を引くとされて、この国の誰よりも陽の気が強いと云われている事も起因するだろう。神により近い一族であると。

 されど、舜は気なるものまでは見えやしない。それでも、濁っていると言われるて、舜の目が澱んで視線は足下へと下がっていた。まるで、何か思い当たる節でもあるかのように声まで気落ちした様に沈んでいた。


「……とりあえずは、治療を優先してくれ」

「承知いたしました」  

 

 その一言で、流麗の手がそっと舜の頬に触れた。慰めるかのように優しい手つきは今の今まで水で冷やしていたかのように冷たい。その冷たさが妙に心地よく、その冷たさについ手を伸ばしそうになってしまいそうになる。その手の感触をじんわりと感じ、力が入ったかと思えば今度は顔を上へと向けられていた。

 その向いた先。真正面には白い面が視界一杯に広がる。その面に表情はなく、穴が空いているだけ。


「何故、面をする」

「……ああ、忘れていました」


 そう言って、流麗は惜しげもなく白い面を外し、懐にしまう。


「面をつける事が日常なので、つい忘れてしまうんですよ」


 さっぱりとした物言いで面を外した女の顔は、実に清々しいものだった。

 吸い込まれてしそうな黒翡翠の瞳。長い睫毛に切れ長の目。赤く染まった唇に色づいた頬。そのどれにも、舜は目を奪われていた。

 

 流麗は左手だけを舜の肩へ置くと更に身体を近づける。身を寄せ合う男女のように、今にも密着してしまいそう。息づかいが聞こえる程に顔まで近い。

 おかげで、集中ができない。そんな、見惚れたどころか戸惑いばかりの舜などお構いなしに、舜の腹の辺りに触れた。

 丁度、膵臓の辺り――だろうか。

 強く押されるような感覚と、鈍痛が痛みが押された腹部に走ると今度は腹の中が熱くなる。腹の中心から身体中へと何かが駆け巡るようだった。


 痛みが終わると、漸く流麗の身体が離れ、今度は舜の前で跪き両の手をそれぞれの手で包み込む。冷んやりとした手は近くで見ると傷まみれの上、掌は硬い。


「剣を嗜んでいるのか?」

「普段は帯剣しておりますが、陛下の御前ではあらぬ嫌疑をかけられるやもと置いてきたのです」


 目の前で、流麗はふわりと笑った。気の強い女の印象が、それだけで柔らかくなる。

 そう。例えるならば、月の精。だろうか。

 月精げっせいにも等しい女が己の手を労るように包み込み、微笑んでいる。


 時が、止まった。


 舜にはそう感じていた。

 呆然とその顔を見つめていると、腹の中がざわつく感覚があった。何かが体を巡り、少しばかり熱くなった……気がするのだが、何が何やらどうなっているかを考えるよりも、今の状況にただ鼓動が煩く鳴り響くばかりで思考が止まっている。

 舜の冷んやりとした心地の良かった手が離れて眼前にあった顔が距離をとっても、舜の目は心奪われ流麗を見つめたままだった。


「陛下、お加減はいかがでしょうか?」


 惚けた表情の舜に、流麗は軽々と言葉を吐く。小慣れているのか、流麗からは一切の動揺どころか、表情には一片の曇りもない。


「……すこぶる良い」


 惚けたままではあったが、適当に答えたわけではない。座ったままであったが、身体が軽くなった感覚があったのだ。


「それは良うございました。ですが、先程も言ったように一時的措置にございます。暫くすれば、また禍は陛下の身体の内に戻ってしまうでしょう」

「……ああ」


 舜は目こそ流麗から外せないままではあったが、それも流麗が再び白い面を身につけるまでだった。


「陛下、私に話す必要はございません。ですが、陛下の陽の気を歪ませる何かがあったのであれば、吐き出すべきです。先程の隋徳様でも、皇后陛下でもかまいません。言葉にして吐き出せば、身体に溜まった毒は少しづつ薄れます。又は、時間はかかりますが他に心を癒す術を探すか、です」


 白い面の向こうから、きびきびと話しているようで、舜に向ける目は憂慮を見せていた。


「なんだ、病を治せなんだと言われたくないか」


 舜は軽くなった身体を起こして、流麗の眼前に立ち塞がった。

 目線の違う身の丈に、目線を下げて仮面の中を覗き込む。


「我々姚家は、代々皇帝陛下に忠義を誓っております。呼ばれたなら飛んできますし、陛下が苦しむ姿を見たのなら、やはり苦しいのです」

「なら、何故縁を切った」

「切ったのではありません。八代前の皇帝、顓頊せんぎょくていの御命令を遂行し続けていたまでです」

「その命とは」

「いずれ来る厄災に備え、然るべき対処をせよ、と」


 実に曖昧な命令であった。

 いずれとはいつなのか。

 厄災とは。

 然るべき対処とは。


 舜はどれだけ言葉を噛み砕こうとも、まるで、姚家を遠ざける為の方便にしか捉える事ができなかった。

 遠回しというのは舜も良く使う手段だが、大抵相手も気がつく。気が付かないのは、相当に鈍いかお気楽な奴だけだ。


 けれども、知り合ったばかりではあるが、舜の目には流麗の姿はどちらにも該当はしない。

 なのに、彼女の言葉は歴史に埋もれてしまいそうな古い言葉を、確信を持って命令と断言していた。

 言葉に囚われている。なんと憐れな。

 その命令を撤回できるのも、同じ皇帝の地位にある己だけ。そう思うと、舜の口は自然と開いた。


「その言葉を信じて、何か実りはあったのか?」


 冗談めかした舜の返しに、憂慮に暮れていた流麗の瞳が、確固たる意思を見せて舜を見やる。


「残念ながら厄災はいずれ音もなく来る。いつかは、まだ誰も知り得ないだけです」


 不穏はいつもそばにある。

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