三 禍祓い
執務室で政務を中断して昼餉を終えた頃、舜の前に再び現れた隋徳の背後には、一人の女が揖礼したままで立っていた。
そろそろ来訪する頃合いだと先触れを受け、今は侍中も護衛官も全て人払いしている。静寂故に部屋は僅かな機微で音が響く筈だが、女はこの国の皇帝を前にしても、身体は芯が入ったように揺らぐ事はない。
「
舜の一声で女は顔を上げたが、顔には白い面が張り付いていた。
皇帝の御前で無礼である。と、これが朝議の場でなら誰かが叫んだやもしれないが、ここではそういった煩い野次は飛ばない。
食卓に肘ついて、舜はまじまじと再び全身を眺めていると、ふと気づく。
――この女、靄が無い
そう。面を付けているとはいえ、本来であれば舜の視界には黒い靄で女の白い面など見えない筈なのだ。それが、どうだ。
一片の曇りもない姿とでも言えば良いのか、舜は瞬く間に興味を惹かれた。
「
「
清廉として、若くもやや低い声。男装混じりのお陰で、今の身姿によく似合う声色だった。胸の膨らみさえ隠して仕舞えば、男と間違われる場合もあるだろう。その声の主は白い面ごしに舜を真っ直ぐに捉えて答えた。
白い面の窪んだ眼窩から見える瞳の黒さよ。黒翡翠がこちらを覗いて様子を伺っているようで仄暗い。
「一つ
率直な舜の言葉に、流麗と名乗った女は小首を傾げるように視線をそこかしこへと向けた。部屋の隅、小さな暗がり、舜の足下。更には、隋徳の顔。
「随分と澱んだ場所であるかと。此処まで大きく“
そう言って、白い面を舜へと戻した。
「この黒い靄は何だ」
「邪気……または人の悪意とでも言えば良いでしょうか」
「では、この蟲どもは?」
「そこまで見えておられるのですね」
流麗は何か納得したように頷くと、再度、隣に佇んだままの隋徳を見やる。隋徳の顔にも、黒い靄と共に
いや、見えてないだけやも。ただ舜に合わせて言葉を選んだかもしれないと言う疑心を拭いきれず、舜は女の行動を観察するだけに努めた。
そんな舜の思惑など知ってか知らずか、流麗は右手の人差し指を胸の前で立てて見せると、それをくるくると糸巻きでもする様に動かし始めた。
更には、流麗の口元からは透き通った口笛の音が、ピュー――と鳴った。
するとどうだ。隋徳の眼前を埋めていた蟲たちの動きが止まった。
蟷螂姿の黒いそれは、ピクリとも動かなくなったが代わりに体の形が変化を始め、サラサラと砂の如く崩れ行き、流麗へと向かっていく。黒い砂となったそれらは、誘われるように流麗の指へと向かって行くうちに一本の糸となった。
くるくる、くるくる。
そうして、隋徳の顔の前から蟲が消えた頃、流麗も指の動きと口笛を止めていた。流麗の指には黒い糸が絡まったままだったが、それも次第に流麗に取り込まれるように消えていった。
「何と……」
舜は一部始終が見えていたからこそ、今にも勢い良く立ち上がらんとするほどに目を見開き驚くも、舜の姿に声を上げたのは隋徳だった。顔を傾げ、ただただ困惑している。
「陛下、私には何が何だか判らないのですが」
隋徳は自身の事であって、そうでない。隋徳からしてみれば、舜の驚く姿こそ不可思議であったのだ。
黒い靄、黒い蟲。全てが、隋徳の目には映らぬもの。
そんな隋徳の顔を、流麗は覗き込む。顔色を調べてでもいるのか、隋徳の目を順番に覗いては大丈夫だと呟いて、「見えぬ方が幸せな事もあるのです」とさらりと述べた。
見えない方が幸せ。確かにそうだと舜は納得する。舜の視界には、蟲こそ消えたが未だ隋徳の顔は黒い靄で包まれているのだ。
この情景が見えない隋徳が羨ましい。そんな事をぼんやりと浮かべていると、流麗は舜へと向き直っていた。
「今の手法では陛下の中にあるものまでは取り除けません。あくまで邪気に寄って来た蟲のみにございます」
呆然と、何故だか全てが終わったように感じていた舜にとっては、耳にしたくはない言葉であった。本番は、これからである。そんな重たげな物言いでも無かったはずであったが、舜は食卓に突き立てたままであった肘を下ろして、少しばかり背筋を伸ばす。
「では、どうする」
「……手段はあります。ですが、出来れば陛下と二人きりにして頂きたいのですが」
「何故だ」
「出来る限り、人に見られたくはないので」
「
「手法は見えます」
淡々と会話の応酬を熟す流麗は、矢張り緊張という言葉を知らないらしい。物怖じも無い、実に堂々とした姿である。舜は感心するばかりであったが、戸惑いを見せたのは隋徳であった。
「陛下、人払いしているとはいえ、妻でもない女と二人きりなど醜聞に繋がります」
「醜聞なら、種無しなどと言う方が余程見苦しい。今回は、この流麗の言う通りに」
隋徳は見えていない。けれど、舜は確かにその目で見たのだ。だから、流麗ならば今の現状を打開してくれるのだという期待もあった。
隋徳に下がるように手を払うと、渋々とだが隋徳も譲って退出していった。
それを見届けて、流麗の口が不意に開く。
「隋徳様は、侍医であると伺いましたが……まるで……」
「近しい、だろう? 余を幼き頃より守っていてくれた者でもあるし、乳兄弟の師でもあるしな。下手な親族よりも信頼出来る」
さて、と言って舜が声を上げると、隋徳を見送った視線が三度、舜を捉える。
「陛下。その
「許す。して、手段とは」
「陛下に直接触れ、体内に入ってしまった禍を抜きます」
説明をしながら、流麗は一歩一歩と舜へと近づき、それこそ足の爪先がぶつかりそうになる距離にまで差し迫ると隋徳にしたように両目を覗き込む。
「俺の中にも蟲がいると? いつ入った。記憶がない」
「眠っている間に入るなど容易ですよ。あれらは人の邪気を食します。……陛下は、どうにも仄暗い悩みを抱えておいででは?」
その瞬間に、舜の
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