一 華美も霞む

 この世には、実しやかなモノ達が存在する。

 百鬼ひゃっき百邪ひゃくじゃ精魅せいみなるモノが、目には見えないだけでそこら中にいるのだ。

 そこかしこに蔓延はびこったそれらは凡その者にとっては実害あるとは言い難い。されど、とある男にとっては、頭を捻るほどに悩ましい事案であった。


 その男――せん皇国を治めるこくていことしゅん

 彼には、その実しやかなモノ達が見えていた――と言うよりも、見え過ぎる程だった。


 舜は、生まれながらに人の顔が見えた試しが。人間の顔は黒い靄で覆われて、顔の形がさっぱり判別がつかなかったのだ。その結果、母親の顔すらまともに見えてはいなかった。

 お陰で、舜は表情を読むのは拙劣せつれつである。

 まあ、見えないのだし、見えている手合いも少ないので、どうにもならない事だ。が、反対に、幼い頃から鍛えられた洞察力のお陰で、僅かな機微、声音で人の心を推し量る術は身につけていた。


 そう。生きる上では、不可思議な何かが見える事も、顔が見えない事も、大した問題ではなかったのだ。


 問題は、舜が皇帝を即位し国の頂点という立場になった事にある。





 秋の澄んだ夜の空。月光に照らされた宵の口の頃合い、後宮の北側にある玄武げんぶぐう。舜の目の前には、一人の女が卓を挟んで座っていた。

 煌びやかな衣装を纏う肢体はたおやかで、この国の頂点、皇帝の側室に相応しい器量。

 側室の一人、しょう貴人きじん。和かに、舜に明るい話題で話しかけている――のだが。


「陛下、そちら。たんしゅうの今年一番の出来の清酒。いかがでしょうか」


 しょう貴人きじんは自身の出身である丹州の土産を幾つかを卓の上に並べて些か誇らしげだ。北部の丹州と言えば、薬学か酒と言われる程である。上物は皇帝が住む皇都ではなかなか手に入らない物でもあるのだ。他にも塩漬けされた枝豆や、口直しか砂糖漬けの菓子まで用意されていた。


 に夕食を共にした蕭貴人。本当であれば側室としての儀礼だけでなく、舜にとっても楽しいひと時であったのかもしれない。


 北部の雪解け水のように透き通った美しさと輝きを兼ね備え、更には二胡にこの名手でもある。一度、弓を持ち音を奏でれば、冬の女神の再来とすら謳われた。


 舜も幾度かその手腕は実感したが、冬の女神の姿は眼前にいながらも遠く、未だその美貌は拝めてはいない。


 なぜならば。

 舜の目には黒い靄が顔面を覆い尽くすだけではなく、羽虫が這う女にしか見えていなかったのだ。

 どれだけの器量も、顔面を蟲が這いずり回っていたら台無しどころではない。


 舜の対面には、おそらく国でも一、二を争う美貌の持ち主が座っているのだろうが、顔面は黒く染まった羽虫に塗れ黒い靄を食い漁っている。

 その羽虫は、恐らく蕭貴人の目には映っていないのだろう。本人に害は無いものだから、側から見れば和やかな雰囲気そのものである。まあ、もしも見えていたならば、恐らく悲鳴を上げるどころでは済まなかったはずだ。



 いつからか、舜の目に映るものは変化して黒い靄で覆われていた顔には、蟲が追加されていた。

 今日は羽虫だが、蛙だの、百足だの、蜘蛛だの――殊更口にはしたくないような蟲までが、人の顔の上だけでなく、黒い靄に纏わりついてそこら中に溢れる。

 しかも、ガサゴソと動き回る音に合わせて黒い靄を喰む音まではっきりと聞こえてくるものだから、集中しなければ人の声がかすんでしまうのだ。


 全くもって厄介極まりない。

 その厄介は、それだけにとどまらなかった。


「それで、陛下……その今夜は、こちらにお泊まりになられますか?」


 いじらしい口調で控えめに訊ねる姿は、貞淑な蕭貴人らしい。そこらの男ならころりと落とされ、安易に頷いていたことだろう。酒も気持ちを和らげる為に用意したのやもしれない。

 温和で控えめ、美人な上に気もきくとあって、蕭貴人は

 などと、己の妻を前にして舜の頭の中では他人事のような言葉が浮かんでいた。


「いや、あまり調子が良くない。今日はこれで」   


 舜は、酒を一口二口含んだだけだった。なのに、立ちあがろうとするとふらりと身体が傾く。


「陛下、医官を」

「いや、少し目眩を起こしただけだ。問題ない。悪いが、」


 言葉が途切れた舜を前にしても簫貴人が小さく「はい」とだけ返事をする。その声色は平静そのもの。いつも通りであるが、どこか切なげにも聞こえてしまう。舜は振り返る事もなく玄武げんぶぐうを後にした。




 ◆◇◆◇◆


 舜は己の寝所である皇帝宮に戻ると、疲れた顔色を残したまま寝台へと倒れ込んだ。青ざめた顔色は、皇后を含む、側室達の相手を断るには


「ある意味、都合は良いな」


 舜は、己だけの寝所で独り言つ。

 そんなものは見慣れているわけで、何も、蟲の這いずる姿で顔を青ざめたわけではない。

 

 体調が芳しくないのは事実であった。

 眩暈も演技ではないし、簫貴人も舜の不調を知っている。だのに、舜は内心逃げたと考えていた。


 そう、舜の問題それは――――皇帝としての役目を果たせていない事にあった。


 皇帝の仕事は、何も政務だけではない。

 何のために、後宮があるか。


 端的に言ってしまえば、皇帝と言えど種馬である。

 まあ、そんな物言いをすれば首は飛ぶので誰も口にはしないだろうが、要はそういう事だ。

 まあ、どんな美女が目の前にいて裸体を晒そうが、恐らく蟲が邪魔して男の性は働かないであろう。


 

 次代の皇帝を産み育むべくある後宮。

 舜の父である、じゅてい桿楡かんゆが途方も無い程に――それこそ国庫を逼迫ひっぱくさせる程に後宮に力を入れていた人物であった。ある意味で、種馬の役割を果たしていたとも言えるが、暗君あんくんと揶揄される程に好色であった人物でもある。

 政務もそこそこに取り憑かれたように後宮に入り浸り、子を何人ともうけた。それでも、殆どの子は流産や幼くして亡くなるなど育たなかったのだが。

 

 舜はその中で、たった一人の異母兄と共に育った数少ない皇子であった。その異母兄すらも、既に亡くなっている。

 

 華やかでいて、されど嫉妬と憎悪が渦巻いていた後宮。

 その憎悪を間近で見て育ったからこそだろうか。舜が即位して最初に下した命令は、たった一代で膨大に広がった後宮を綺麗さっぱりと縮小する事だった。


 そう、三妃さんひ九嬪きゅうひん、二十七世婦せいふ、八十一御妻ぎょさいで構成されていた後宮も、今や皇后を含む貴嬪きひん貴人きじん美人びじん宮人きゅうじんの五の位しか存在していない。

 

 謂わば、節約である。そのお陰と国政を立ち直らせる為に一心不乱に働いて来たが故に、舜は優れた明君と言われたが、ただの一点。子を成せない事を陰で囁かれるようになっていた。

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