第50話 救出7

 年の瀬の声が聞こえ始めるころ、勝五郎は梧桐の家を訪ねていた。心なしか街中よりもここの方が気温が低いように感じる。標高はほとんど変わらないが、街中のように人がたくさんいるわけではないからだろう。

 いつもならいるはずの野生動物たちも姿を見せない。もう冬眠に入っているからだ。白い冬毛をまとったうさぎが、時折勝五郎の前を横切るくらいで、あとはほとんど生きものの気配さえしない。

 梧桐の家は思いのほか暖かかった。夏は板の間が涼しいのだが、冬はそこに動物の毛皮を敷いている。もちろん作業場は寒いのだろうが、住んでいる部屋は火鉢が二つもあって快適だった。片方の火鉢には鉄瓶が乗せてあり、いつでも湯が沸いている状態になっていた。

 梧桐に勧められて火鉢の傍に座ると、熱い麦湯を出してくれた。勝五郎には湯飲みで、自分は茶碗に入れていた。湯飲みが一つしかないのだろう。

「いやぁ、あの時は世話になったね。お陰で佐倉様のお嬢さんも悠介も無傷で帰って来られた。三郎太は骨をやられていてまだ治っていないようだが」

 勝五郎が、出された麦湯をズズッと音を立てて飲んだ。

「ああ、そうだろうな。帰りに話を聞いたが、猪助に何か手伝ってくれと頼まれたらしい。それでついて行ったらあの場所だ。着いたとたんに足をしこたま殴られて動けなくなったところで手足を縛られて猿ぐつわをかまされたと言っていた。でもそれのお陰で命拾いしたんだ」

「どういうことだ」

「身動きが取れず、声も出せなかったということだ。だから簡単に気づかれなかった。いくら熊が犬より匂いに敏感でも、さすがに離れていたらわからんしな。悠介もお嬢さんもその状態だったから助かった。ちょうど猪助が大声を出して熊谷を呼んだもんだから、熊からは猪助が目についたんだ。猪助は行李を投げつけて走って逃げたからな、そりゃ熊なら追うだろう」

「その隙に子供たちを助けたんだな」

「ああ、そうだ。熊谷を中に放り込んだのは俺だがな」

 勝五郎は腕を組んで鼻から長く息を吐いた。

「熊谷を助ける気は無かったのか」

「俺はどうでも良かった。悠介が熊谷を出そうとしなかった」

「えっ? あの悠介が?」

 梧桐は静かに頷いた。

「あれは父親の仇のつもりだったのかとも思ったが、どうやら紅秋斎のことを悪く言われたのが許せなかったらしいな」

「そうか……実はな、船戸様から連絡があったんだ」

 梧桐は目だけで続きを促した。一瞬の間に鉄瓶のお湯が沸くシュンシュンという音が割り込んだ。

「最近、熊谷と猪助の姿が見えないってんでな、探してくれってんだ。居場所は知ってても、まさか死んだとは言いにくいし、遺体を見たわけじゃあねえ」

「俺は断末魔は聞いたけどな」

「二人とも確実に死んでるってのかい」

「確認に行くか?」

「そんなことができるのかい」

「あの場所に行けばいい」


 梧桐は場所をよく覚えていた。そもそも梧桐にとって山というところは『色』があるらしい。真冬で雪が積もっていてもその『色』は変わらない。だから場所を間違ったりするとすぐにわかるらしい。

「この門、船戸様の紋が入っているが、船戸様の指示とは思えんのだが」

「ああ、そうだな。船戸様がこれを許可したとは思えねぇ。こりゃああの二人が勝手に紋をつけたんだろうな」

「しかもこの閂はあまり意味がない」

 そう言って梧桐が笑うと、勝五郎も「違えねぇ」と同意した。

 さらに奥へと歩いて行くと、あの柵に囲まれた土地が現れた。

「ここだ」

「ここに熊がいるってのかい」

「そうだ」

 梧桐が鉄砲を抱え直す。それを見て勝五郎は肝が縮み上がるような気がする。

「そんなに怖がらなくていい。ここに閉じ込められたままずっと何も食べずにいたんだ。とっくに死んでいるか、生きていてももうフラフラになっているはずだ」

「熊谷は最初から都合の悪いやつを始末するためにこの場所を作って熊を飼っていたってのか……そういえば、熊谷が潮崎に赴任して来た時に、人足を二十人ほど連れて来たって聞いたな。その連中にここを作らせたんだろうな」

「そしてその秘密を知ってしまった彼らは熊の餌になったんだろう」

 想像するだに恐ろしいことを、梧桐はサラリと言った。この男の言葉には、時たまドキリとさせられる。

「熊谷があの熊の最後の晩餐になったんだろう」

「熊を山に放そうとは思わなかったのか」

 勝五郎の言葉に、梧桐はスッと目を細めた。

「人間の味を覚えた熊を山に戻すことはできなかった。この大きな檻の中で狩りもできず、ただ飢えていくしかなかった熊は気の毒だ」

 ふと勝五郎は思った。この男は『熊殺し』の名よりは『山の守護神』の方が合っていると。

 梧桐はあの時に熊谷から奪い取った南京錠の鍵を取り出して、入り口の鍵を開け始めた。

 竹でできたその檻は田んぼが入るくらいの広さがあったが、そのほとんどは竹藪で見通しは良くなかった。そのお陰で、先に投げ込まれていた三郎太はすぐに熊の目に留まらずに済んだのかもしれない。縛り上げられていたのも幸いした。背を向けて逃げていたら、間違いなく襲われていただろう。

「中を捜索しよう」

「おい、大丈夫なのかい」

「俺が大丈夫だと言ってるんだ」

 妙な説得力があり、勝五郎は諦めて梧桐の背について行った。

 二人はまず小屋の中を覗いてみた。そこに人のいた痕跡は全く無く、連れて来られた人を油断させるための物であろうということで見解が一致した。

 小屋を出てさらに奥へ向かうと、竹藪のそこここに着物の切れ端や草履に混じって白骨化した『誰か』があちこちに散らばっていた。それも一人や二人ではない、かなりの数だ。

 熊谷たちが処払いと称して連れてきた罪人たちだろう。それらに混じるように、比較的新しい同心羽織と黄八丈がボロボロになって落ちていた。熊谷のものと思われる脇差も落ちていた。

「熊の死骸を見ねえことには安心してここを取り壊すことはできねえな」

 勝五郎の意見に梧桐は目だけで賛同する。

「そもそもここに閉じ込められてる熊は一頭だけなのか? 複数いたら大変なことになるんじゃないか?」

「それはない」

 即答だった。

「複数いれば餌の取り合いになる。その中で餌を食い損ねたやつは体が弱って行ってますます餌をとりにくくなる。結果、そいつは先に死ぬ。だいたいここの竹や小屋の爪痕や足跡は同じ個体のものだ」

「じゃあ、一頭だけ死骸を確認すればここは取り壊せるん……」

 いきなり梧桐が勝五郎の口を手で塞いだ。

「いる」

 勝五郎が青くなって固まる。

「動くな」

 梧桐が静かに勝五郎に指示すると、そこへのそりと熊が現れた。

 熊は見るからに痩せて弱っていた。檻から出られず、餌も投げ込まれず、熊谷を最後の晩餐にしてから今まで何も口にしていなかったのだろう。もう梧桐や勝五郎を襲うほどの元気も残っていないようだった。それでも今まで生きていたことが奇跡に近い。

 勝五郎を自身の背後に匿ってしばらく熊と対峙していた梧桐が、唐突に口を開いた。

「殺してくれと熊が言っている。一発で仕留めてやるから下がれ」

「え……」

 一瞬訳が分からなかった勝五郎も、意味を理解して梧桐から離れた。

 梧桐は懇願するように彼を見つめる熊の眉間に標的を絞り、引き金を引いた。鉄砲から小さく煙が上がり、大きな音が竹藪に吸い込まれる。耳を塞ぐ勝五郎の目に、一拍遅れてどうと倒れる熊が映った。驚く勝五郎をよそに。梧桐は倒れた熊に近付いて行った。

「お前には済まないことをした。成仏してくれ」

 しばらく熊に両手を合わせていた梧桐が、勝五郎を振り返った。

「帰ろう」

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