第十章 熊殺しの梧桐

第37話 熊殺しの梧桐1

 三郎太は思いがけず早くにやって来た。お昼以降になると思っていたのにお昼前に来たということは、明け六つに出発して楢岡で引き返してきたのだろうと奈津は思った。だが三郎太の話では楢岡の向こう側の外れまで行ったということなので、よほど三郎太が急いで戻って来たのだろう。奈津は三郎太の父への報告を聞きながらそんなことを考えていた。

「勝五郎親分と悠介は、まだ二人で辰吉を尾行してると思います。辰吉が柏原に戻ってきたところをとっ捕まえて悠一郎さんのことを吐かせると勝五郎親分は言ってたんですが、おいらの知ってる辰吉はその程度じゃ吐きません。無駄に態度がデカくてガタイもいいから喧嘩はめっぽう強い。脅したくらいじゃびくともしねえ。自分が一番強いと思ってるから、何を言っても知らぬ存ぜぬで通すと思いますぜ。勝五郎親分、どうやって辰吉に話を聞く気なんだか……」

「だが辰吉に話を聞かない事には何も進まない」

 そう言いつつも、佐倉の顔は冴えない。

 そのとき不意に奈津が顔を上げた。

「わたしに考えがあります。父上、少し出かけてきます」


「お嬢さん、どこへ行く気です?」

「熊殺しの梧桐さんのところ」

 三郎太が目ん玉飛び出るほど驚いて「ええええっ?」と叫んだ。この男は驚く度に目玉が転げ落ちるような顔になる。

「正気ですか。山ン中ですぜ。おいらも一緒に行きますよ。お嬢さん一人じゃ行かせられねえ。そもそも梧桐さんの家、知ってるんですか?」

「いえ、父から聞いただけなの」

「おいらが知ってますから案内しますよ」

 見た目は牛蒡か青鷺なのに、驚くほど何でもできる男である。これで女に言い寄られないのは、この雰囲気のせいだろう。決して見てくれも悪くないのだが。

「三郎太さんって本当に優しいのね」

「お嬢さんが無鉄砲なんですよ。悠介に言われたことはないですか?」

「言われたことはないけど……思ってるかもしれないわ」

「でしょうね」

 その時背後で「にゃあ」と猫の鳴き声がした。二人が振り返ると、そこにはにゃべがついて来ていた。

「あれ? この白黒のブチ猫、佐倉様のお屋敷にいた猫ですよね」

「ええ、野良なんだけどうちに居ついてしまったから『にゃべ』って名付けたの。賢くていい子よ。ついて来ちゃったのね」

 仕方なく奈津が抱き上げると、にゃべはゴロゴロと喉を鳴らして満足そうにした。

 二人はにゃべを連れて、しばらく世間話をしながら歩いた。

 柏原からだとどこへ行くにも椎ノ木川沿いに歩き、一旦柿ノ木川に出てから上流か下流に向かう。街道が整備されているからだ。

 だが梧桐のところへ行くには椎ノ木川沿いに柿ノ木川を目指して下ることはない。いきなり上流に向かうのだ。梧桐はそんな山の中に住んでいる。

 山に一人で住んでいるうえにとにかく大柄だというんで、梧桐を見た人が熊と勘違いして逃げ帰って来たという話も聞くくらいである。

 山道を歩き慣れていない奈津には少々しんどい道行になった。それでも心配した三郎太がちょくちょく「お嬢さん、大丈夫ですか。少し休みますか」というのを聞くにつけ、元気を奮い起こして「大丈夫です」と言って歩いた。要は負けず嫌いなのである。

 それでも半刻ほど獣道のような山道を登っていくと、梧桐の家らしき小屋が見えてきた。いや、小屋というには随分立派だ。

 だが、その思いがけず立派な小屋よりも目が離せないものがその前にあった。

 身の丈六尺二寸、逆三角に引き締まった上半身と、絡げた裾から延びる米俵のような脚、肩から延びる丸太のように逞しい腕、大岩が生きて動いているような男が小屋の前で薪割りをしていたのだ。

 奈津は異次元の生き物を見るように目を点にしたまま足が竦んでしまった。そんな奈津の様子を見て、三郎太が「おいらが声をかけましょう」と言った。やはり三郎太について来てもらったのは正解だったようだ。

「お忙しいところ失礼します、おいらは柏原の鋳掛屋で三郎太と言います」

 梧桐はチラリと三郎太を振り返り、その背後にいる奈津にも目を向けた。

「何の用だ」

 低く野太い声。心の準備無しに聞いたら、小心者なら小便を漏らしてしまうかもしれない。だが、奈津は三郎太の前に出た。

「お初にお目にかかります。柏原の名主をしております佐倉の娘で奈津と申します。本日は梧桐あおぎりさんにお願いがあって参りました。初対面で不躾なのは重々承知しておりますが、何卒話だけでも聞いていただけませんでしょうか」

 梧桐は奈津の目を見てすぐに頷いた。

「聞こう」

 梧桐はまさかりを台木に刺し、二人を振り向くこともなく小屋に入って行く。二人は置いて行かれないように慌てて彼の後を追った。

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