はじまりの話
2人の友だち
都市から離れた森の奥、その開けた広場にはいつも温かな日が降り注いでいる。
広場の中心には1本の大木があり、そこに背を預けで本を読む少年が1人。
艶のある黒髪、そして漆黒の瞳。
暗いその目はまっすぐに手元の本へと注がれ、紙の端が擦り切れるほどに何度も、何度も読んだ文章を再度目で追っていた。
少年の名前はラルフ。
森の向こうの都市に住む貴族の息子で、歳は16。王族にも近い血を持つ彼は、本来護衛もなしに外に出られるような身分では無い。
しかも今は都市にある学院に居る時刻だ。だが、ラルフにとっては出席を誤魔化すのは容易いことだった。
その凛々しい顔立ちと高い身分、その上成績の良さも相まって、学院内ではかなりの有名人。教師からの心象も良いため、少し口利きをすれば簡単に誤魔化しが効いた。
そうしてラルフは度々学院を抜け出し、森の広場で過ごすのが日課になっている。
風が吹いても、鳥が鳴いても。ラルフはただ一心に本の文字を追った。確かめたいことでもあるかのように。
◆◆◆◆◆
太陽が真上まで来た頃、羊の鳴き声と鈍いベルの音にラルフは顔を上げる。
森から広場へと続くけもの道から、五頭の羊と赤毛の牧羊犬、それにラルフと同い年ぐらいの少女がやってくる。
青いローブに外套のフードを被った少女は、ラルフに気づくとベルの付いた杖を天に掲げて振った。ラルフがそれに応えて片手を振り返すと、フードを取って少女は明るく笑って声を発した。
「おはようラルフ!」
「おはよう。マキラ」
マキラは羊を広場に放つと、腰ほどもある赤茶の髪を揺らしてラルフへ駆け寄る。森の奥の村で薬を作るマキラからは、いつも石鹸に混ざって薬の匂いがした。
「今日は遅かったな。」
「おじさんにペトの調子が悪いから診てくれって言われたの。
そしたらペトったら…ラルフ。顔を見せて」
ふいに明るかった笑顔がマキラから消える。杖を置いて座り、肩掛けカバンからいくつかの容器を取り出すと、薄緑の目がすっと細められた。
ラルフの髪を少し避けると、右のこめかみに痛々しいあざができていた。
細長く、真っ直ぐな傷は細長い杖のような物で殴られたように見える。
「手当てを頼めるか?」
眉を下げ、ラルフは困ったような顔でマキラにそう頼んだ。下唇を噛み大きな瞳に涙を溜めたまま、マキラは小さく頷いた。
◆◆◆◆◆
容器にはラルフには見慣れない文字が刻まれ、中身は白や青など様々な薬草を練った薬が詰められている。
マキラはラルフの顔の青アザを改めて確認し、小さめのすり鉢に先ほどの容器の中身を入れていく。緑をティースプーン1杯。白は容器の半分。赤と青はほんの少し。
マキラの薬作りをラルフは何度も目にしたが、鼻につく刺激臭にはあまり慣れない。涙目にはならなくなったが、マキラの様にじっと顔を近づけたりすることは出来そうに無い。
小鉢の中身は混ざると一気に白くなり、マキラがぶつぶつと何かを唱えれば段々と薄茶色に色を変えていった。
(魔女の薬、か)
森に住むマキラたちの一族は魔法を使う。
火をつけたり空を飛んだり。そんなラルフにとってはおとぎ話の様なことができた。
マキラの薬作りも魔女たちの技術のひとつだ。必要な薬草を混ぜ、最後に魔法をかける。
マキラ曰く、魔法をかけると治りがとても早くなる。
彼女たちの作る薬は、ラルフの住む都市の雑貨屋『とんがりぼうし』でひっそりと販売され、彼女たちの収入源のひとつになっている。
ラルフの本のカバーもそこで買った物だ。これで本を包むと、雨に晒されても本が濡れないという優れものだ。
魔女たちの作る品物は見るものによっては不気味に映るため、あくまでもひっそりと、知るものだけが使っていた。
完成した粘度の高い薬を、マキラが指に取ってラルフの頬の青あざに丁寧に塗る。最後にガーゼを貼り、マキラはふうと息をつく。
「…また、教会の人?」
「いや、今回は父上だ」
殴られた時を思い出し、ラルフは苦い笑みを浮かべる。
ラルフの産まれたヘンダーソン家は王族に近い貴族。そして、ラルフは長男でもあるから家の跡を継ぐのが決まっている。
しかし、ラルフは貴族の血統主義がどうしても嫌いだった。産まれた家だけで人生が決まり、人を見下し、時には相手の人生を一方的に壊す。
そんな貴族への嫌悪から、ラルフは教会に通うようになった。教会には神の教えを基準とした『正義』がある。努力をすることで死後に神に仕えて幸せに暮らせる。
そこに産まれは関係なく、努力で自分の人生が決められる世界。それを求めてラルフは聖書を読み解き、今は民を守る聖騎士を志した。
両親はそんなラルフを認めず、暴力を振るうようになった、というわけだ。
ラルフには歳の離れた弟がいる。
それは、両親の考えに賛同する弟。聖騎士の件を差し引いても、ヘンダーソン家にとって、ラルフは邪魔なのだ。
幼少の頃から都市に送られたラルフは、領地の家に帰っても大抵は存在しないものとして扱われる。
だが昨日帰った際、領地内を歩いていた領民に威張り散らす弟を咎めた。
そして、それに激怒した父によりラルフは打たれた。
◆◆◆◆◆
「…そう言えば、エリックは?」
暗くなってしまった雰囲気を変えようとラルフが問う。
エリックはマキラと同じ魔法使いで、共通の友人だ。エリックの名前が出るとマキラがはっとした顔になる。
「忘れてたわ!エリックに広場に行く前に声をかけるって言ったの!」
んぐっ。とラルフが妙な声を上げる。口元を手で覆い肩を震わせ、笑いをこらえていた。それを見てマキラの顔がみるみる赤くなる。
(薬、来る前に作ったんだろうな)
基本はしっかりしたマキラだが、こと薬作りとなると夢中になり過ぎるところがある。恐らくはエリックに「少し待ってて、行く前に声をかけるわ」などと言い、傷薬を調合してる間にうっかりエリックを待たせていることを忘れたのだろう。
今頃置いてけぼりをくらっているエリック。
いつも領地へ帰ると何かと怪我をしているラルフを思い、さあこれで大丈夫と準備万端(なつもりで)やって来たマキラ。
彼らを想像し、気恥しさも相まってついラルフは笑ってしまった。
「もう!笑わないでよラルフ!」
「すまないっ……ふふっ」
顔を真っ赤にしながらあわあわと弁明するマキラに、またちょっとラルフが吹き出す。ちらりと見ればマキラはぷっくりと頬を膨らませ、唇を尖らせていた。
「っとすまない。マキラ。少しからかい過ぎたな
…お詫びに羊たちを見ているから、エリックを迎えに行って来るといい」
マキラとエリックは同じ村に住む幼なじみだ。ラルフはマキラがエリックに抱く淡い想いを知っていた。
2人はラルフにとっては誰よりも大切な存在で。
だからこそ、2人が結ばれればと想っている。
さあ行っておいでと軽く肩を叩く。その頃にはマキラはいつもの笑顔を取り戻した。
「うん。行ってくるね!」
マキラが立ち上がり軽くローブについた草をはらって伸びをして、なにかに気づいたのか空を見上げたまま「あ。」と口を開ける。ラルフは少し首を傾げ、マキラと同じように空を見上げ、マキラと同じ顔になった。
「あ。やっと気づいた。」
◆◆◆◆◆
金糸のように太陽の光を反射する髪。今日の青空よりも澄んだ青い瞳。
「「エリック」」と2人が声を揃えて名前を呼ぶと、空中に透明な絨毯があるかのように漂うエリックは、幼さの残る顔でにっこりと笑う。
軽く手を振り、風をまといながら降りてくる姿は、本当に本の中の魔法使いがそのまま現れたかのようだ。
そして、どれだけの群衆の中でもひときわエリックはよく目立つ。空に居たとは言え今まで気づかなかったことにはラルフ自身、内心驚いていた。
「エリック、君。いつからそこに?」
「マキラがラルフに薬を塗ってた所から。
迎えに来ないから家に行ったんだ。そしたらおばさんにもう出かけたって聞いたんだ」
ラルフがおばさんと呼ぶのは、マキラの母親のことだ。女手一つでマキラを育てた薬草を使う魔女だ。
「エリック、ごめんなさい!」
エリックに駆け寄り頭を下げようとするマキラをラルフは制する。
「ううん。ラルフに早く薬を届けたかったんだろう?」
「ええ…でも、約束したのにすっぽかしてしまったのには変わりないわ」
「いいんだ。僕はマキラの友だち想いな所、好きだから」
「ふえっ?!えっ?それは、その、あの」
「?マキラ?」
───ラルフは空を見上げる。さっきも見たが今日はいい天気だ。
この2人が独自の世界に入るのはよくある事だ。こんな時、ラルフは大体遠く空を見上げる。
エリックのアレは気遣いでもなんでも無くただの本心だ。たまにラルフもやられるが恥ずかしいやら嬉しいやら、エリックは特に気づかず場合によっては追い打ちまで決めてくる。
マキラが照れながら助けを求めるようにこちらを見てくるが、ラルフはそっと両手を上げた。
何か言えばやぶへびになりかねない。もちろん褒められたりするのは悪い気分では無いが、やっぱり恥ずかしい。
(…だけど、今回ばかりは助け舟を出すべきかな)
さっきマキラをからかった詫びをまだしていない。
肩にかかる髪を払って、わざとらしくラルフは咳払いをした。
「こほん、エリック。今日は手合わせするんだろ?」
「!そうだった!」
「そ!そうだよエリック!ラルフっ!がんばれっ!」
同時にラルフを見た2人に、ラルフは肩を竦めて笑った。
◆◆◆◆◆
ラルフとエリックの手合せは半年ほど前からこの広場で始まった。騎士を目指し剣を習うラルフに、エリックが興味を持ったのが始まりだ。
「魔法を使ってもいいんだぞ?」
「まさか!剣では剣で勝たなきゃ!」
時折怪我さえする2人に、最初は動揺していたマキラも楽しそうな様子に止めるのを諦めた。
それほどまでに二人はこれに夢中だから。
10歩ほど距離をとって向かい合う。後ろで結われたラルフの黒髪が風に揺れた。ラルフが木剣の先を地面に向け、トンっと地面に突いてから持ち直す。ラルフのクセのようなものだ。
それを見て、エリックも剣を構えて不敵に笑った。
「────はじめっ!」
マキラの声に合わせてエリックが動く。一気に距離を詰め、木剣を横に振るう。
カンっと軽い音と共にラルフが受け止めた。普段は軽口を叩き合う2人だが、この時ばかりは無言だ。
「もうっなんで男の子ってこういうのが好きなのかしら。ラルフだって怪我してるのに」
マキラは木陰で頬をふくらませ、脇で休む牧羊犬の背を撫でる。羊たちは少し離れた場所で草をはんだり寝っ転がったり。
この後しばらく打ち合って、だいたいラルフが勝つ。たまにエリックが勝つけど、やっぱりラルフが勝ち越したまま。
素人目で見て、パワーとスピードはたぶんエリックの方がある。エリックは精霊によく好かれていたから生まれつき精霊から沢山の加護を貰っていた。
(私もそうだったらなあ。
もーっとすごい魔法使ったり…)
マキラの薬学は技術的な所が多いが、エリックのように空を飛ぶには魔法の才能が必要だった。
どんな魔法でもエリックは使えた。本当はラルフの怪我も治せるのだろう。
だが、ラルフの家のことを考えると、急に怪我が治るのは不味い。ヘンダーソン家にも、そしてラルフの通う教会にも彼がここに来ていることは秘密だから。
【魔女の魔法は悪魔の技術】
教会と、教会側についている国の考え。
マキラは会ったことがないが、ラルフの親には当然いい顔はされないだろうし、教会は何だかんだと理由を付けてラルフにそれなりの罰を与える可能性もある。
それでもラルフはここに来る。その理由をマキラとエリックは知っていた。
一度だけ、ラルフが語っていたことがあったから。
ひときわ甲高い音と共にエリックの木剣が弾け飛ぶ。真剣な顔だったエリックとラルフの顔がふっと緩み、エリックが声を上げた。
「もう1回!」
◆◆◆◆◆
2時間ほど打ち合って、ふいに2人が草原に倒れた。
マキラは打ち合いの合間に1度村に帰り、大きなバスケットを持ってきた。
大きめの布を木陰に敷き、お茶を入れる準備をして。すると、覚束無い足取りでマキラの元へとエリックとラルフがやって来る。
「は、はは、、、やっぱラルフは強いなあ」
「エリックも腕を上げたよ。最後は少し危なかった」
「2人ともお疲れ様。おやつにしましょ!」
おやつと聞いた瞬間、2人の胃が揃って鳴る。
余りにも完璧なタイミングに3人は顔を見合わせて揃って笑い転げた。
「いっ今っ同時に鳴ったあはは!」
「嘘だろ!そんな事あるのかよ!」
「あはははは!」
マキラはラルフとエリックを指さして笑い、ラルフは驚き半分に笑う。エリックは耐えられずにその場に崩れ落ちる。
しばらく笑っていると今度はマキラのお腹が鳴り、また3人で涙が出るほどに笑った。
マキラのバスケットには野菜たっぷりのスープとスコーンが入っていた。
「じゃーん!エリックの好きな山イチゴのジャムもあるのよ!スコーンと食べましょ!」
「最高!」
魔法で沸かしていたお湯でマキラがお茶を入れる。ラルフは胸の前で手を組んで小さく祈りの言葉を呟き、十字を切った。
湯気のたつティーカップを配り、今度はエリックとマキラがカップを軽く掲げ、精霊たちへ祈りを口にする。
それぞれが祈りを終え、カップに口をつける。爽やかな香りのお茶を飲み、ジャムをたっぷりと乗せたスコーンを頬張る。甘酸っぱいジャムと甘いスコーンは良く合っていて、3人は目を輝かせた。
それからはたわいの無い話をしながら過ごした。それは3人にとって、とても大切な時間だ。
「そう言えば…ペトは平気なのか?」
「うん。マキラが診てからすっかり元気になっていたよ。僕が井戸で待ってる間に脱走して外を走り回っていたから」
ペトは村に住む6歳の子どもで、今はやんちゃ盛りだとラルフは以前に聞いていた。
「もう。熱が下がっても安静にって言ったのに」
「遊び盛りだからね。仕方ないよ」
村ではマキラは医者の様な役割を担っている。作る薬が苦いからと、最近は子どもにちょっと怖がられているらしい。
「学院の中でも堅物で有名な生徒がいるんだ」
挽いておいたコーヒーの黒い粉を、ドリッパーの布フィルタに入れながらラルフが言う。
「堅物。」
「コーヒーを淹れるのが上手い男でもあるんだが…基本誰とも会話すらしないんだ」
「ほう。」
興味深げにエリックとマキラが相槌を打つ。
「ふふ。俺も初めは突っぱねられたものだが…」
注いだお湯で膨らむ粉と香りを嗅ぎながら、ラルフはにやりと笑う。
「10日前、ついにコーヒーの淹れ方を聞き出したんだ」
具体的なやりとりは語らなかったが、随分と苦労したのかニヤニヤと笑うラルフに、マキラとエリックはちょっと引いた。
「あのね!少し前にね」
「そう言えば、明日ね」
「昨日の話なんだが…」
話題はころころと変わり、その度に三人は驚いたり、笑ったり。あっという間に過ぎていく時間をもう少し、もう少しと惜しみながら顔を合わせて笑いあった。
◆◆◆◆◆
◆◆◆◆
「ラルフ。顔の怪我は大丈夫?」
「ああ。もう痛くない。さすがマキラだ」
「良かった。もう剥がしても大丈夫かな」
日が沈み始めた頃、マキラはラルフの頬のガーゼを剥がす。塗ってあった薬を拭えば痛々しいアザは薄くなり、腫れも引いていた。
「ありがとう。これで明日から気兼ねなく授業に出られるよ」
「痒くなったりしたらこれを塗ってね」
「ああ。…………。」
小瓶をカバンに仕舞いながら、ラルフはちらりと目線を横に動かす。マキラと反対側でまじまじとエリックがラルフの顔を覗き込んでいた。
「…エリック…人の顔を、あまりじろじろと見ないでくれるか?」
「つい」
「ついじゃないだろ」
「ラルフの顔、ずっと見ていたくなるんだよね」
「ねー。だってきれいだもん」
「む」
否定しようとしていたラルフだったが、マキラにまで同意されてしまっては口を噤むしかない。
(きれいだと言うならマキラやエリックのほうがよっぽど…)
ラルフは横目で2人を見る。
マキラは花のように愛らしく、活発で子鹿のように神秘的で。
エリックはどんな物語の主人公でも遜色無いほどに美形だろう。とラルフは常々考えていた。
(もしもこの2人が演者なら、一度舞台に立てばどんな役者も霞むだろう)
そこまで考えて、自分の想像力の豊かさについ笑ってしまう。難しい顔をしたかと思えば急に笑いだしたラルフに、エリックとマキラは目を見合せて首を傾げるのであった。
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