第三話:配属初日

 祝日でない限り、月曜日が憂鬱でなかったことはない。しかも全裸を見られた男が、部下になるのだ。VIO脱毛は完了しておらず、恥丘の毛ははげちらかっていた。思春期を過ぎると、ムダ毛との戦いが始まる。それは悩みの二割程度を常に占める。人類が服を着るようになって久しく、そろそろ体毛は撲滅しても良いはずだが、彼らはしぶとく地球上に残り続けていた。

「おはようございます……」

 低い声で、デスクに座る。課長と支店長のデスクは空席で、パソコンを開いて、スケジューラーを確認した。どうやら応接室で緊急の次課長会をしているらしい。あたりもそわそわと落ち着かない。刺激のない生活を送っている行員にとって、異動は一大イベントなのだ。メールをチェックしていると、後ろから声をかけられた。

「ねえねえ、黒川さん、見た? 新しく来た男の子、イケメンだったわよ!」

 ロビーの案内係である桃井さんだった。小さいメガネの奥で目が輝いていた。やせ型で背が低く、グレーの短髪が似合っている。年は五十過ぎくらいか。彼女は私に郵便物を手渡してくれた。

「知ってますよ。私が指導担になるみたいなので」

「え、本当? 良いなあ、彼の事、何か分かったら教えてね!」

 ぱたぱたと軽やかなサンダルの音を響かせて、去って行った。最近は孫が生まれて、シフトを減らしているらしい。女子トイレで事務職の女性行員が愚痴を言っていた。でも仕事なんて、桃井さんにとってどうでも良いのだろう。間抜けな夫と、卸しがたいガキの世話に人生のほとんどを捧げて、一段落したと思ったら、孫の登場だ。 人生について考え直している暇なんてなかっただろう。考えていたら、きっと発狂していたに違いない。朝礼のアナウンスが流れ、私は腰を上げた。どうかあの金曜日の夜の出来事は夢でありますように、と願いながら、ロビーへ向かった。願いは叶わなかった。そこには金曜の夜、女子寮のベッドの上で出会った、青年が立っていた。


「七枷 七瀬です。よろしくお願いします!」

 ネイビーのスーツを着こんだ彼は、なかなか悪くなかった。中性的で、完璧に整った顔立ち。少しカールがかかった、こげ茶色の髪。大きく澄んだ、茶色の瞳。

「彼は海外から来たので、日本の事はよく分からないようです。皆さん、お手柔らかに」

 彼の横にいる河田課長が話し、店は好意的な笑いに包まれた。課長は場を和ませる天才なのだ。気を良くした彼は、こう続けた。

「彼の指導担当者は、黒川代理にやってもらいます。彼女にしごかれて参っていたら、慰めてあげてください」

 今回、あまり笑いは起こらなかった。なんだか私が滑ったみたいだ。挨拶が終わり、若手の女性行員が相場発表を始めた。ドル円、日経平均株価、注目のイベント。それらは英語で発表されていて、誰もが呆気に取られていた。普段は日本語で発表されるからだ。店の戸惑いを察したのか、発表を終えた後、彼女はおずおずとした様子で言った。

「人事に、英語でやれって言われたので……」

 それは定かではないが、明日から日本語に戻ることは確実だった。彼女は泣きそうな顔をしていた。英語といえば、こんなことわざがある。

Knowledge speaks, wisdom listens.


 席に戻ると、伝言メモが置かれていた。それを珍しそうに、七枷が立ったまま眺めている。

「デスクを離れているうちに電話があると、代わりに誰かが受けてくれる。その内容が書かれているんだよ」

 私は説明しながら、メモを見た。「折り返しください」のチェック欄にレ点がつけられている。この手で、しかも朝イチの電話に、ロクな要件はない。借りたはずの金が入金されていないか、それか資金不足か。電話をかけるも、入れ違いになってしまった。

「ま、いいか。今から訪問予定だし」

「僕も行って良いですか?」

 受話器を置いて独り言を言うと、隣から七枷がのっかってきた。

「いや、七枷にはやってもらいたい雑用、じゃなくて仕事があるから。この試算表を古い順にファイルにまとめて……」

「黒川代理、ちょっと良いかな?」

 河田課長から呼び出された。応接室へ来い、とジェスチャーで示される。私はため息をついて、彼に続いた。


 六畳一間の、飾り気のない小さな応接室に入り、向かい合って座った。

「七枷くんのことなんだけどさ、きちんと面倒見てあげてよ」

「私は今期、表彰を目指しています。ぴよぴよの相手をしている暇はありません」

 課長は悲しそうな顔をした。哀愁を誘うものがあったが、私は負けずに続けた。

「指導担と部下、実績は合算ですよね。彼が来たことで、私の目標値も上がりました。邪魔でしかありませんよ」

「……彼は目標数値を達成すれば、銀行から出て行く約束だ」

「え?」

「銀行も異世界に支店を広げようとしていてね。彼の受け入れは、向こうが出した条件なんだ。地球の銀行で経験を積むために派遣されてきた。目標が達成できなければ、いつまでもいるだろう」

「達成すれば、その異世界とかなんとかに戻るってことですね?」

 彼はうなずいた。あごの肉がだぶつき、首の可動域は少なかった。

「分かりました。何とかします。三期連続の表彰、逃したくはないので」

「ありがとう、さすが黒川代理だ。頼りにしてるよ」

 不意に褒められて、少し居心地が悪くなった。私は席を立った。長居すると速水代理の話をされそうで、怖くなってしまう。不倫をするデメリットのひとつだ。共通の友人の沈黙に、常に怯えることになる。応接室を出て、デスクにつくまでの間、速水代理からの舐めるような視線を感じながら、メリットは何なのだろうか、と考えた。

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部下は魔法使い かのん @izumiaya

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