8.エピローグ

8-1.星を背に行く

 空に一条、陽射しを浴びた飛行機雲が光っていた。

 音立てて飛ぶ文明の利器は、猛烈な速度で――しかしこうやって、遠く傍目はためで眺めている立場からはやたらとのんびりと、蒼穹を行く。

 大きく発達した入道雲に欠けるところはない。もちろん、地表をめがけて一直線に降り注ぐ星の群れ、なんてものに引き裂かれたりもしていない。

 世間――現実は平穏そのものだ。夏という季節の殺人的な暑さも据え置きだから、快適かというとまったくもってそんなことはないけれど、それでも世界は続いている。壊れてもいないし、皆だいたいの人は生きて、それぞれの日常をそれぞれに送っている。

 俺、直衛佑が、とんちきな自称エリートや幼なじみたちと過ごした十日間が、まるで夢か何かであったかのように。

「……でも、そうじゃないんだよな」

 マンションの自室、そう大きくはない窓枠の外へと飛び去る飛行機を見送りながら、ぽつりと独りごちる。

 なにしろ、おかげでこれだけせわしく動く羽目になっている。

 残り猶与は約十分。荷造りは今しがた最終確認が終わったところだが、刻限より先に出立までを済ませなければならない。急いで出ることにする。

 着慣れた長袖のパーカー、ロングパンツ、そこそこ大きいワンショルダー。端末はポケット、キャップをかぶり、最後にスニーカーを履いたら、いよいよ準備完了だ。

 玄関先に新たに置かれるようになった物理写真――俺が発掘した家族四人が揃っている昔の一枚と、姉さんの端末で無理やり撮られた今のツーショット――を一瞥してから、部屋に向かって頭を下げる。

「行ってきます」

 ドアを開けると、変わらない真夏の強烈な暑気が全身を包みこむ。

 湿気と熱量の波状攻撃に閉口しながら階下に出ると、ちょうど時刻は五分前。

 ささやかな自己満足と共にエントランスでぼへっとしている悠乃に声をかけたら、しかし「なんだどうした」という顔をされた。刻限切ったのお前でしょうに。

「もうちょっとなごりをおしむかと」

「惜しんだよ。五分前行動は基本だろ」

「まじめかたぶつ。なんでもぎりぎりを攻めるのはえりーとのてくにっく、おぼえておくといい」

「前から思ってたけど、識域のエリートって不良問題児の集まりなのか?」

 つっこむ俺をよそにマンションを振り返る悠乃。

 背を向けたまま数秒沈黙し、そして問うてくる。

「ほんとうに、もういい? もしかしたら、ここにかえってくることはもうないかもしれない」

「……ああ」

 ならい、部屋がある上階を見上げる。

「湿っぽいのは好きじゃないしな。このくらいの方が、決心が鈍らなくていいよ」

 もともと、なんにでも愛着を持ちやすいたちだ。ふらっと出ていくくらいでいるのが一番いいと割り切った。

「ならいい」

 言った瞬間すたすたと歩き出す悠乃に苦笑しながら、あとを追う。

 行く先は、この現実の裏側に広がるもう一つの世界。すなわち、識域だ。

 ――あの大空での戦いの後、地上へと落下した俺は悠乃に回収された。

 そしてひとしきり生死の境……もとい消滅の境をさまよい、無事に生還したあと、色々と相談をして、今までの日常を発つことを決めたのである。

 理由は大きく分けて二つある。

 一つ目は消極的……つまり、やむにやまれぬもの。

 “覚徒になってしまった直衛佑は、大事にしたいひとたちのそばにはいないほうがいい”

 元々の予定では、事件が終わったあとの俺は整合性の波を受け、ただの一市民に戻ってこれまで通りの暮らしを再開することになっていた。

 が、悠乃いわく、「ここまでしっかりスイッチを入れてしまったら元には戻せない」らしい。

『おきたばかりの人間をまたねかせて、夢オチにするのはかんたん。けど、ばっちりめがさめてやりたい放題した人間を夢オチにするのは、世界がゆるしてくれない』

『あー……』

 そういうことなら仕方ない。粛々と受け入れるより他はないだろう。

 というか、俺はそもそも記憶の消去を拒むつもりだった。だからこれは正直なところ、渡りに船ともいえる展開なのだ。

『なんでそうなったの。ばかだから?』

『違わい。ちゃんと考えてそうなったんです』

 俺、直衛佑の精神に巣くった、衝動。

 結局のところ、これが今回、俺が関わる全員に迷惑をかける病巣となった。

 仰木由祈と約束をした以上、直衛佑はもう自死に逃げることはできない。けれど、衝動――その大元になる感覚もまた、俺から切り離すことはできない。

 なら、向き合うしかない。これからきっと何度も、繰り返し訪れるだろう衝動を払拭する手段を、危険を避けつつ、直衛佑は見つけなければならない。そのためにも、衝動を忘れ去ってしまうことはできない。

 そして、そんな俺がすべきことは自身の隔離だ。直衛佑という爆弾を抱えた存在を、周りの親しいひとたちから遠ざける。

 これを達成するための一番いい方法が識域行きだと、最終的に俺は判断した。

 理由はどうもわからないが、悠乃は俺に協力してくれるという。悠乃なら俺のことをよくわかってくれているし、いざという時の対処も頼めて信頼がおける。こういうことにまつわって嘘を言う相手じゃないから、思い切って頼りにすることにした。

『ぼくねんじん、でくのぼう。らくだいせい、にぶちん』

 最後のやつ、由祈にも言われた気がしたな。そんなに俺、気が利かないか……?

 さておき。続く二つ目の理由――積極的な方の動機は、シンプルなものだ。

 “直衛佑は、見つけた本当の“願い”を叶えたい”

 “――直衛佑は、世界を壊す以外のやり方で、ひとと自分を救いたい”

 あんまり単純すぎて、それか無茶無謀すぎて、誰かに言ったら笑われそうだ。

 けど、俺にとっては重要なことだ。

 直衛佑は真っ当な人間になりたい。憧れた星のようなひとたちに、追いつきたい。

 そうすることが、衝動の克服に繋がる、今のところの唯一の道筋だというせいもある。

 しかしそれ以上に、俺はのだ。

 そう思う自分を強く認識した。生きていたい理由、生きてたどり着きたい目標を感覚した。

 であるなら、行動することには意味がある。たとえ“願い”が叶わず終わるとしても。

 そんなわけで、俺は長く住んだ家を離れることにした。

 悠乃には少し手を回してもらい、“直衛佑は病気療養のため遠隔地に入院している”との方向で整合性を取ってもらった。

 これで必要以上に姉さんを悲しませないで済む。しばらくはべそべそに泣いてタオルを何枚かだめにするだろうが、根は強いひとだ。若干だらしなくなりつつも、ちゃんと健康で、俺のことを待って暮らしてくれるだろう。

 じりじりと照らす太陽の下を移動して、変わらない、騒がしさにあふれたサウナのような市街の人混みへと入る。

 街灯の大型液晶には見知らぬ少女たちが映り、見る人をはげます笑顔で、精一杯の歌声で、舞台上でのパフォーマンスを披露している。その中には風原たちの姿もある。

 昨日までは、由祈もその場所にいた。あいつが世界から消え去った今、その場所を占めるのは、別の誰か、現実に生きる、近しい位置を持つ誰かたちだ。

 俺が抜けた何カ所かにも、きっと他の誰かが座るのだろう。そうして世界はこともなく回っていく。たくさんの人の日常を抱えた現実は回っていく。

「――もどりたくなった?」

 改札へと向かう駅入り口の雑踏の流れをさえぎって、立ち止まった悠乃が俺の方を振り返る。

「……いや」

 言って、あらかじめ渡されていた白紙の切符を通し、先に改札を抜けた。

も助けてもらった命だ。名残惜しいからって約束を反故にするとか、そういうのはな」

「さんかい?」

「数え間違いじゃないぞ。しらばっくれるなよ」

 あの大空で、最後の一瞬に俺の空想を打ち消した虹色を秘めたまま、灰晶の目がわざとらしい知らんぷりをする。

「もんくは“おねがい”にいってほしい」

「せめてもうちょっと解説してくれよ」

「おとめのひみつは、せつめいむよう」

「なおのことわからん」

 軽口を叩きながら、俺たちはホームに立つ。

『一番線を列車が通過します。ご注意下さい』

 乗車予定の車両が近づいてくる気配を感じながら、真っ青な空を仰ぐ。

 昼でもなおまたたく遠い星を探して、目を凝らす。

「……ん」

「なに」

 ちかっ。

 かすかに光って見えたそれは、果たしてめあてのそれだったかどうか。

『ご注意下さい――』

 なんとなく背中を押された気がして、すっとした思いで、俺は笑った。

 次の瞬間、駅名の表示されていない電車が通り過ぎ、俺たちは現実から立ち去る。

 数秒の間をおいて、後ろに並んでいた人々が、怪訝けげんな顔をしながら空白を詰める一歩を踏んだ。やがて自分がそうしたことすらも忘れていきながら。

 吹く風が“いつも通り”へとならしていく、掴み取られた結末――夏の終わりの眩しさを、光の下、激しく鳴き続ける蝉たちだけが感覚していた。


 識域のホロウライト

「1.Hollow White, Starry Sky.」

 了

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