5-2.映写、回想
歳幼いその少年にとって、赤錆びた工場は唯一の居場所だった。
祖父の死と共に閉鎖され、熱を失い、風雨にさらされるばかりとなった紡糸の廃工場。
相続した父は合鍵の隠し場所を知らず、管理の責を果たす気もなく、近寄らない。
いなくなった母と入れ替わりに現れた、見知らぬ女も同様。
家にいれば何かしらの
だから部屋を抜け出し、何度もそこに逃げ込んだ。
周りが言うほど、そこは悪い場所ではなかった。
クラスメイトたちが噂していたおばけはついぞ現れなかったし、「帰りなさい」と億劫そうに言ってくる大人たちもここにはいない。
誰の気配も暖かさもない、がらんとした暗がりのさびしさだけは
近くには団地に接した小さな公園があった。二階の窓辺に上がり、そこで知らない子たちの遊ぶ声をぼんやり聞くのが、いつしか習慣になった。
些細なことで食事を取り上げられた冬の日も、少年はそこにいた。
いるしかなかった。家の事情が広まるにつれ、学校の皆もだんだんと、少年を色々なものの的として使うようになっていた。
近寄る勇気を持てなかった公園から、鬼ごっこに興じる楽しげな声が遠く響く。栄養が足りないのか、どう縮こまっても寒気が消えなくなった身体を、力なく抱きしめる。
――僕も遊びたいな。
冷え切ったガラス窓の向こう、光に満ちた、もう出ていくこともできない外界を仰ぎながら、少年は“願い”を持った。
ここに来てほしい。ここでなら、僕も恐くなくいっしょに遊べるから。
鬼ごっこだってできるし、かくれるところだっていっぱいある。きっと楽しいはずだから。
ねえ、僕はここにいるよ。ここでずっと待ってるよ。ちょっとでいいから遊びにきてよ。
待ってるから。
気付いてくれるまで、待ってるから――。
――そして少年は、
空想は彼の“願い”を叶えたが、待ち続ける日々のさびしさを取り除いてはくれなかった。
《もっと、もっと》
そして、痛みと恐怖を味わい、最後には額を撃ち抜かれ、孤独を抱えたまま、死んだ。
§
その女にとっての幸福は、人と繋がる日々の中にあった。
この世界に確かなものは何もない。けれど、誰かから向けられる強い感情は、私に“生きている”という実感を与えてくれる。
さいわいなことに、女には恵まれた容姿と、人の機微を読む感性と、甘い蜜のようと称えられる言葉選びの才能があった。
望む振る舞いをいくぶんかに、思いどおりにならないもどかしさと、「あと少しで全てが手に入る」という幻を混ぜてさしだせば――どんな男も娘も、私とどこまでも深く繋がってくれる。
花と生まれた自分の身と心を、女は完璧と信じて疑わなかった。
その思いが打ち砕かれたのは、大したことのない都合で医者に身体を預けた時。
子を成す機能が、自分の
女は狂った。
どこにも、かしこにも娘はいるのに。その誰一人として、私のようには愛されず、また愛されるにふさわしい有り様を有してもいないのに。
なのに、私だけにそれがない。孕むことができない。この血を残し広めるという、ありきたりの行為を行うことができない。
怒りと羨望に身を焦がしながら、女は“願い”を持った。
繁栄したい。私が産み出す全ての繋がり、全ての愛、全ての力を繁殖させ、存続させたい。
――そして、女は
かつて育んだ蜜の繋がりを統べる神経束として、貴きも卑しきも、全ての胎と精を歯車として拡張拡大し続ける、
しかしその全ては失われた。営々と築き上げた全ては今や炎に焼かれ、征服され、女が求めた存在の痕跡は、もはやこの世界のどこにも観測されない。
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