5.たとえ叶わぬ夢だとしても

5-1.戦ってはいけない

 暗闇の奥に沈んだ意識が、遠く声を聞く。

『駄目だ、こちらも記録が残っていない。コギトによる常時観測はそう簡単には無効オフにできないはずだが……』

「つまり、あのばしょで最後に何が起きたか知ることはできない、ということ?」

『そうなるね。本人に尋ねたところで答えは得られないだろう。何しろ記憶がないのだから。それより、考えるべきは今後のことだ』

「……こんなことになっても、佑をおいていくことはできないの」

『ああ。どう手を打って遠ざけたところで、因果は必ず彼を戦場に導く。君にできるのは、立ち会うこと、そして助力することがせいぜいだ。これは彼の運命なのであって、余分なのは七彩、君の方なのだからね』

 なかば眠っている思考は、会話の内容をうっすらとしか理解できない。

 けれどその中にあって、“運命”という言葉は深く印象に刻まれた。

 運命。そうあると定まっている未来。動かすことのできない、どうあがいても訪れることが決まっている出来事、状況の群れ。

 今の俺の運命は、戦場に立つこと。

 納得が湧く。眩しいものへの期待を認識してしまった直衛佑は、きっと“それ”を避けられない。

 しかし同時に、そんな自分に対して強烈な危機感をいだきもした。その道だけは歩んではならない、と直感が警告する。

 運命に従ってはならない。戦場に立ってはいけない。

 どうして?

 理由を問う心によぎるのは、遠い昔の記憶、光景の断片。

 “約束だよ”

 ホロウ・ホワイトの光が注ぐ庭、すがるように向けられた言葉、思い出せない少女の表情。

 そして、

 “――■■たい”

 いつかの俺の胸中で渦を巻く、無感情からっぽな声。

 ごく小さな思いの発露に過ぎないそれが、しかし染め抜くように今の俺を、直衛佑の意識を侵蝕し、抑えがたい、言葉にならない衝動を、どこか深くから呼び起こす。

 そしてささやく。

 動け。■せ。この思いを、“■■”を、現実ほんとうのものにしろ、と。

 ――嫌だ。

 眠った意識、過ぎることを忘れた時間の中で、反射的に俺は抗い、声の汚染を振りほどこうとする。

 けれど、やがて気づく。それが意味のない行為であることに。

 衝動これを取り除くことなどできない。決まり切っている。

 だって――。

 “佑”

 これは、俺自身。直衛佑という個人を形作る核そのものなのだから。

 理解した途端、意識が浮上を始める。執行猶与を告げられた罪人のように。

 輪郭を取り戻していく精神。入れ替わりにほどけ、暗闇へと還っていく記憶。

 “約束だよ”

 覚醒の間際、最後に聞いた思い出の声は、近く必ず訪れるその時――運命が俺に追いつく瞬間の到来を、遠く宣告しているかのようだった。


 §


 微弱な電流が走るかのような、痺れに近い刺激が全身を包んでいることを感じて、俺は目を覚ました。

 辺りは静か。消え落ちる夢の残滓、そのとりとめのない感触を引きながらそっとまぶたを開けると、訓練でノックアウトされるたび何度も拝んだ無天井の空間が俺を出迎えた。光源がどこにもないのに不自由なく見えるその不思議な感触で、自分がまだ識域の中にいることを理解する。

 すぐそばに悠乃がいた。俺の覚醒を俺自身より先に見取ったのだろう、飾り気のないパイプ椅子に座り、医療機器とおぼしい精密機械を背に、灰晶の瞳を俺に向けている。

 対する俺は病院によくある金属性のベッドに寝かされているらしい。五感にわだかまる蜜の記憶を打ち消すような、殺菌された布地の匂いに包まれている。

「……どうなった?」

 まだもやのかかる意識をはっきりさせようと努めながら、そう尋ねた。

「かたづいた」

 静かに返るいらえは端的。

「べすとではないけれど、のぞましいといえる勝利」

「風原たちは?」

「ねむっている」

 答えながら背後へと視線を巡らせた先には扉がある。

「決着がつくまでは、そのまま。傷なく現実に戻るには、そうするのがいちばんいい」

「……そうか」

 聞いて、安堵の息を一つ吐く。

 固い枕に頭を沈めると、痺れの感覚が再び意識される。そこではじめて、身体が思うようにならないことに気が付いた。

 正確には首から下が動かせない。感触も薄く、麻酔を打たれた時のような奇妙な異物感が漠然と各部にわだかまっている。

「うごかないで。できないようにはしているけれど」

 見れば、計器に繋がれた太く大きな針が何本も身体に突き刺さっていた。

 計器の液晶表示には“応急修復:進捗”の文字。あわせて動いている原型記憶率の表記を見て、何のための機器なのかを察した。空想の過剰使用――定められた域を越えて記憶率を消費した“直衛佑”という存在、それそのものを修繕しているのだ。

「――悪い」

 心配かけた。

 他にどう言えばいいのかわからず、それだけをつぶやくように口にした。

 姉さんと由祈のどちらが相手でも、俺はいつも“帰りを待つ”側だ。だからわかる。自分からは問題に働きかけることができず、相手が無事であることを祈るしかない、そういう時間はかなり心の負荷になる。

 まして今回、悠乃はたった一人命がけで戦線を支えていた。そこへ実力のない俺が勝手をやって孤立し、姿を消したのだ。どういう心境だったかは察するにあまりある。

「……いいえ」

 しかし悠乃は首を横に振り、静かに返した。

「あやまらなくてはならないのは、わたしのほう。あなたたちを十全に守りきることができなかった」

 伏せていた視線を思わず上げる。冗談など言うはずもない、どこか思い詰めたような横顔が目に入る。

 表情を変えないまま、けれど声にかすかに悔悟をにじませて、悠乃は更に言う。

「あなたを、戦わせてしまった。そうなるべきではなかったのに」

「それは、」

 思わず言葉が口を突く。

「それは、俺が勝手にやったことだろ。悠乃のせいじゃない」

 言ったところで素直に受け取りはしないかもしれない。それでも伝えたくて、言いつのる。

「悠乃は十分、俺たちを守ってくれた。あれ以上なんて、誰にも望めなかったはずだ」

 現に、俺たちは誰も欠けなかった。突出した俺が自業自得でこんなざまになった、それだけで済んだのは明らかに悠乃のおかげだ。

「それでも、この結果はわたしのせきにん」

 どこか違うものを見るようなまなざしで、悠乃の目が俺を見返す。

 そして不意に言った。

「佑。あの深層で、伏兵を駆っていた識域のあるじを倒したのは、おそらくあなた」

 記憶率低下の影響で、記憶には残っていないでしょうけれど。

「わたしはあるじを手にかけていない。状況からいって、あなたがそれをやったとしかかんがえられない。あなたが、あの識域を統べていた逸路を殺したの」

 覚えているか、と瞳が問う。

 言われて振り返れば確かに、俺の記憶は最後の瞬間に向かうにつれ曖昧になっている。終始圧倒されていたはずの俺が形勢を逆転できたとは到底思えなかったから、駆けつけた悠乃が倒してくれたのだと思い込んでいたけれど――。

 “■■の気分だ”

 ――一瞬脳裏をよぎった何かに強く感情を乱される。反感に似た思いがどこからか急激に湧き上がって、問いに答える俺の口調を自然刺々とげとげしいものにする。

「そうだとして、それに何の問題があるんだよ」

 俺が、あの雄蜂と、その中に潜んでいたあるじを殺したんだとして。悠乃がその結果を悔やむ必要がどこにあるのか?

 あの状況で、悠乃が表層を制圧して助けに来るなんて未来はまず期待できなかった。俺があの怪物たちを殺したのがまずかったなら、じゃあ俺は順当に負けて、連中の餌にでもされていたらよかったのか?

「そうじゃない」

 否定する悠乃の口調は静かなままだ。

 それなのに俺の感情は更に波立つ。

「そう言ってるようなもんだろ。戦わないってことは、諦めるってことだ。“戦うべきじゃない”っていうのは、“諦めるべきだった”って言ってるのと何も変わらない」

 言いながら、決めつけるような言葉を吐いている、と思う。

 悠乃はそんなこと一言も口にしていない。これは俺の考え、俺の感情、勝手に思っているだけの理屈だ。頭の中を頼まれもしないのに晒しているのに等しい。

 だから結果的に、素性も知れない反感がどうしてこうも胸を焼いているのか、その理由もわかった。

「人に“諦めろ”って言うのは……。“願い”を持つな、って宣告するのと、一緒だろ」

 “どうでもいい”

 “世界にとって、存在おれたちはどうでもいい”

 現実が厳しいだなんてことはよくわかっている。でも、わかっているのに諦めないから、諦められないから、人は眩しいものになるんじゃないか。

 それなのに、悠乃七彩は直衛佑に戦うなと告げるのか。なりたいものの後を追いかけることを、“してはいけない”と禁止するのか。

 縛って、引き戻すのか――何の“願い”も持てない、これまで通りの日々の中に、俺を。

「…………」

 銀色の長い髪が揺れて、わずかにうつむいたおもての憂いを音もなく隠す。

 そうして、ただ平淡さが残るばかりとなった抑揚の薄い声で、悠乃は言った。

「“諦め”は、ひつよう。かなわない、かないようのない“願い”は、存在する」

 コギト。

 管理者権限を持つ鈴の音が呼ばい、恐らくは脳裏で実行された指示に従い、プログラムが空間の照明を落とす。

「これから、あなたにふたつの記憶を見せる。攻略した識域から回収した、ふたつの原体験オリジンの記憶を」

 閉め切られた映画館を思わせる暗さに周囲が沈み、空気が冷え始める中で、言葉が続く。

「戦うことを望んだ最初の時点で、あなたにおしえておくべきだった。覚徒が逸路と戦う……ということが、根本において、いったいどういう意味を持つのかを」

 どこからか、頬を裂くような風が吹く。こごえるほどの寒さが、鉄錆てつさびの臭気と共に辺りを取り巻き、埋め尽くす。

 遠く背後で、車輪に巻かれた感光膜フィルムが回り出す気配がした。止めることのできない、既に要素が揃い終えてしまった因果の歯車、その袋小路への回転をなぞるかのような厳粛さを伴って。

 光が戻る、時間が戻る。

 そして、“その時”の回想が始まった。

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