4-5.極光

 相打ち覚悟で構えた右手が狙いを外し、代わりに、腹を鋭い前脚爪が突き破るのを感触した。

 今までと比べればはるかに遅い、まるで手加減したかのような一撃が、俺の心臓下およそ十五センチの位置を貫いていた。

 実際、それは加減以外の何物でもなかった。俺は即死せず、意識を失うこともなく、脳裏に起こるコギトの通告を聞くことになったからだ。

致命規模の損傷フェイタルダメージの発生を確認。生命維持モードを緊急起動します』

 腕が引き抜かれ、あふれこぼれた自分自身の血の海に、俺はゆっくりと崩れ落ちる。

 その様子を直衛佑は、まるで他人事のように、何もできずに認識していた。

 抵抗の余地は今やないようだった。《意識遮断カットオフ》を食らった時のように、全身の感覚が意識から切り離されている。感情よりも更に上、生命いのちとしての機能の根本部分に干渉され、自由意志による存在活動を封じられたのだ。

 ……どちゃっ。

 五感がまともに繋がっていれば感じただろう衝撃の感触もはるか遠い。視界が持ち主を失ったカメラのように事態を映すのを、指をくわえて眺めているだけ。

《――――》

 動作を停止した直衛佑を、白濁色の逸路が見下ろす。そのまなざしは変わらず機械に似た無機質さを示していたが、不意にそれが途絶える。そして――、

 ――みしり。

 雄蜂逸路の眉間みけんが二つに割れ、粘液に包まれた神経網のような触角が大気中に飛び出した。

 それは強いて例えるなら蛞蝓なめくじに類似していた。情報を行き来させる触角を発達させ幾本と増やし、肉体の不要な部分を全て退化させいとのように細り、結果として線虫にも近い輪郭を持つようになった、奇形の。

 不要、とはどういうことか? 文字通りの意味だ。

 消化器官、不要。自立機動を行うための運動機能、不要。外界の悪影響から身を守る免疫的諸機能、不要。

 生物個体としてあるまじきこれら全ての切り捨てが成っている理由はごく単純。

 使。いついかなる時も、別の存在に“寄生”しているからだ。

 気付くのが遅すぎた。あと一手、一合、寸秒でも早く、こいつを見つけられていれば。

 じじじじじっ、ばきっ。

 本体に命中させられず、肩口をかすめるだけに終わった《ぐらつき》が雄蜂逸路をむしばみ、しかし一部を崩し壊したのみで効果を停止する。

 “在り方”を変えられた。人形の気に入らない装飾をいで「これに最初からそんなものはなかった」とするように、ぐらついた部位を“雄蜂逸路”から分離し、全体に影響が及ぶことを阻止したのだ。

 恐らくは手慣れた空想わざ――識域のありようを見ればそのことは明らか。働き蜂の存在から、その肥育と完成に他者の精とはらを使うところまで、この識域の全ては“代理”によってまかなわれている。先の手加減も、俺というの価値を余分に損なわないための処置なのだろう。

 この空間を攻略するには根本を絶つしかない。“現に在るもの”、現実から調達した存在を利用するこの識域の基本性質は、純粋な空想を相手取ってこそ真価を発揮する悠乃の眼と相性が悪い。女王蜂がそうであったように、この雄蜂の肉体も、悠乃の魔眼に対する耐性を示してのけるはずだ。であれば、根本であるこいつを除かない限り、悠乃は状況の不利を押しつけられ続け、ことによっては負ける。

 その意味で今この一瞬こそが、勝敗を、俺たち全員の生死を分かつ分岐点だったのだ。

 じゅるうっ。

 触角の群れが再び雄蜂の内部へと戻り、動き出した白濁色が瀕死の獲物に背を向ける。上層へと続く縦穴に向けて飛翔し、こちらの攻撃射程から離れていく。

 止めるすべはない。立ち上がることさえかなわない。絶好の、あるいは唯一かもしれない機会を、直衛佑は失った。

 ――失った?

 混濁の度を強める意識の底から、否定の含意を帯びた疑義が響く。手ぬるい、見当外れの認識を抱く己に沙汰さたを下すかのような、俺自身の発した声が。

 ――こうなることはわかっていたはずだ。最初から。

 無感情に声は言った。

 機会なんてものはなかった。可能性なんてものはなかった。あと少しだった? やれる? それは錯覚だ。自分たちの行動に意味が、価値があると思いたい生命おれたちが、死に際にすがりつく幻影だ。その真理ほんとうっていたから、直衛佑は“要らない”と言い続けてきたのじゃなかったか?

 ――ああ、そうだ。けど俺は、夢を見たんだ。

 声に向けて噛み付き返す。自分から踏み出した、ゆずれない、忘れたくない、この十日ばかりの日々への感情を賭けて。

 抗いたい。戦いたい。守りたい。選び取りたい。……叶えたい。

 俺は、俺の“願い”を本当のものにしたい。

 そう思えるようなきっかけを、まっとうな生命いのちになれるかもしれないってあこがれを、直衛佑はもらったんだ。だから――。

 ――だから、大事な事実ことを忘れて、そんなものなかったかのような気になって。わかりきっていた摂理げんじつにぶつかって、何の“願い”も叶えられずに終わろうとしている、と?

 声がつむぐ言葉はまたたく間に意識に染み入り、思考を侵す。直視せずにいたいと思っていたあの感覚を、明瞭に直衛佑に認識させる。

 “どうでもいい”

 “世界に、摂理にとって”

 “俺たちの存在は、どうでもいい”

 心の内をあたためていた“もしも”のともしびが揺らぎ、見えなくなる。

 明かりを取り落とした胸に、冷え切った、それでもまだ鼓動を止めようとしない“願い”がうごめく。

 空洞のような暗がりに戻った直衛佑の内側で、それは元の姿へと巻き戻る。醜くこごった、ただ一つの激情へと。

 ――ああ

 ――最低の

 ――気分だ

 そう呟いた自分の声が、底から響く無感情からっぽなそれと一緒くたに重なりあった時。

 いつか見た空からあの虚白色ホロウ・ホワイトが降るのを、肌身がもう一度感触した。


 §


 ざりっ。

《――――!》

 仕留めたはずの獲物が発した身じろぎの音で、その逸路は飛翔行動を停止し、背後の下方を振り返った。

 人間の在り方に精通し、その扱いに一種の矜持を持つそれにとって、“処理”の失敗は認めがたいことだ。想定を上回る動きを見せた個体だったとはいえ、活動不能となる一線を見誤るなどあり得ない。

 もしも判断をたがえていたのであれば、その不手際は塗り潰されねばならない。ここは己の識域であり、空想の結実たるこの領域に望まぬ要素は不要。制御不能な存在など、一つとて在ってはならないのだから。

 そうした思考、発想こそが死を招いたのだと気づきもしないまま、雄蜂をる逸路は最期の時を迎えた。

 ――かっっっっ!!

 極光。怖気をふるうほど圧倒的で無慈悲な白熱、虚ろの火ホロウライト

 そのうすら寒い色彩を認識した次の瞬間、己が寄生する雄蜂の肉体ごと、逸路は焼き切られていた。放たれたその破壊が、逸路の築き上げた居城を――中核より表層、外壁に至るまで編み上げられた正六角ハニカムを――致命的に穿うがち崩す様を見なかったことだけが、それの拾った最後の幸運となった。

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