神の蔵

草森ゆき

髪の蔵

 泥だ、と口に出た。事実として目の前には、泥状の液体が蠢いていた。あなたのお兄さんよと、歌うように母が告げた。こうして俺には兄が生まれた。

 母の実家は田舎にある。厳格な門構えと中学生の俺の背丈よりも高い白塀が、いつも周りを拒絶している。昔は名家だったらしい。詳しくは俺も、母も、知らない。離婚して他人となった父親などはもっと知らない世界だろうし、これから住み続けることになる俺だって、凍え切った名家について知ろうとは思わない。

 思わないが、やけに広い庭の奥にぽつんとある、小さな蔵には興味があった。単純な好奇心だ。前まで暮らしていたマンションはもちろん、遊びに行った友人の家にもこんなものはなく、その不可解さがちょうどよく刺激的だった。

 嫌気とか、飽きだ。離婚は両親の問題だと割り切るにしても、引っ越しは別にしたくなかった。田舎も、あまり好きではない。

 だけど小さな蔵にはちょっとした魅力があった。

 いつか覗いてみようと思っていた俺の望みは叶えられ、中は暗くて湿気っており、豆電球のみで照らされた泥状の何かは俺の兄だと言うことだった。


 寂しがるといけないからね。母はそう言い、俺に時々は兄の様子を見るよう、柔らかに強要した。

 新しく登校することになった中学校は明らかに馴染めず、生徒にはあからさまに避けられた。余所者だからだろう。授業終わりと同時に帰宅する俺は真っ直ぐ蔵に向かうのが日課になった。蔵の門には分厚い錠がかけられていた。開くと暗く、手探りで電球を灯せば視覚よりもまず聴覚がそれを拾う。ずるり、びちゃりという、這いずる音。兄は俺の帰宅をいつも歓迎した。

 どろどろの兄の前にあぐらをかきながら、なぜ弟ではなく兄なのか、問い掛けてみる。当然返事はない。泥の一部が蝸牛の角のようにぬるっと伸びて、俺の膝をにちにちと撫でる。粘ついているので学生服にはしみが残った。でも母は怒らないし、俺も別に、どうでもいい。

 兄には色々と話をする。そうしろと母が言ったのもあるが、俺は単純に暇だった。それに相手をするうちに気がついた。

 泥は少しずつ固まっていた。水分が減り、土塊のような姿に変わるまで、時間は然程掛からなかった。


 三ヶ月もすれば、もう泥どころか土でもなく、完璧に個体で、目と鼻と口があり、全体の輪郭は確実に人間の形になっていた。


「お兄ちゃん、随分元気になったわねえ」

 蔵を覗いて母が笑う。

「そうだね。服とか、渡す?」

 俺は聞く。

「見苦しいならそうすれば」

 兄は湿気った声で話し、出来上がった唇を歪める。俺は、あ、と思わず言う。

 学校で撮った集合写真、カメラを前にうまく笑えない俺は、いつもこんな顔になる。

 兄は本当に俺の兄なんだなと腑に落ちる。

 俺は見苦しいとかじゃなく、恐らく人情だとか家族愛に似た信用ならない感情の元で、兄に俺の服をいくつか渡した。

 兄はいつの間にか生え揃った長い髪を掻き上げながら、ありがとな、と下手くそに笑った。俺は頷いて、母は俺たちを見てこの上なく満足そうだった。


 学校から帰って、真っ直ぐに蔵へと向かう生活は変わらなかった。兄は兄になったけど、母屋にくる気は一切なかった。蔵の中にずっといて、俺がいない間は何をしているのかと聞いてみれば、外の様子を見てるよとぼそぼそ話す。こもった声は蔵の中では尚更こもって、戸を閉め切ってしまうと俺と兄は二人ぼっちだ。

 対面に座り、話をする。兄は俺の話をじっと聞き、学校では特に誰とも話さないと言えば、伸ばした片手をそっと俺の膝に置く。それは蝸牛の角を伸ばしていた時と変わらない素振りだ。

「兄貴って、なんで弟じゃなくて、兄貴なの」

 いつか聞いたけれど返事のなかった疑問を聞いた。

 兄はふっと視線を上げた。蔵の上、俺も兄も絶対に届かない位置に取り付けられた天窓が、視線の先にぽつんとあった。

「お前の、いや、おれたちの母さんが、お前の兄さんだって決めたんだろ」

 兄を見る。だらんと垂れた長い髪は、昨日見た時よりも伸びている。

「後に生まれたから弟っていうんなら、確かにおれは、お前の兄だし」

「……俺よりも先に生まれてるの?」

「うん、そう、多分」

 兄は指先で髪をがりがりと掻く。ふけのような細かいものがいくつも浮かんで、俺はふと思い出す。というか、思いつく。

 両親の離婚は、二人目を作るかどうかの話し合いが発端らしい。

 父は欲しがり、母は嫌がった。

 もういるじゃないと、母は主張した。

 俺の前に流産した子供の遺灰を持ってきて、二人で手一杯でしょうと母は言った。

 全部後から聞いた話だ。

「なあ」

 兄は俺の膝をゆったり撫でる。

「お前の教科書破ったやつ、次の日曜の午後十三時二十三分に、信号無視したバイクに撥ねられて死ぬよ」

 そう言ってから、思いの外長い舌でべろりと口元を舐めた。

 土日を蔵で過ごして登校すると同級生が一人死んでいて、報告を終えた担任が教室を出た瞬間にクラスメイトの全員が俺を振り向き見た。怯えたような目に一斉に射抜かれて、チャイムが鳴っても誰も立ち上がることはなく、死んだやつの席の上には何故だか柊の枝が置かれてあって、黒い髪が一本だけ巻きついていた。


 兄は時折誰それが死ぬと言うようになり、それは必ず当たっていた。

 その話について母は、

「あなたのお兄ちゃんだもの」

 と優しく言った。

 そういうものかと、俺は納得するしかない。お前のこと気味が悪いって陰口言ったやつが明日一気に屋上から飛び降りて校庭には柘榴みたいに頭の開いた死体が転がっているからお前登校しなくていいよ、お前のこととおれのことを本気で怖がってるやつが明日家に押し入ってきた強盗に家族ごと刺し殺されて騒ぎになるけど盗難されたもんとかないからお前は気にしなくていいよ、おれたち家族を引っ越させようとする会議が明日集会所で開かれるけど閉め忘れたガスの元栓に消し損ねた煙草の火が引火して全員燃え死ぬからずっとここに住んでいられるよ。こんな感じで兄は次々に人の死ぬ未来を話して、そのどれもが同時に話される時刻もぴったりに起こるから、納得以外にできることは特にない。

 この家って名家だったらしいね。俺は兄にそう話し、兄は伸びに伸びて蔵を覆うほど這っている黒髪に体を埋めながら、おれを作れるような家だしねえともごもご返す。その長い黒髪はいつの間にか天窓に届き、窓の向こうは晴天で、俺はいつかこの蔵が窓すら潰すほど髪で埋め尽くされる日を思い浮かべてから、一番はじめの兄の姿を過ぎらせる。泥の兄。どろどろの兄。あの時の兄は何を考えて俺の話を聞いていたのだろう。

「なあ、明日は、誰が死ぬといい?」

 兄はずるりと何かを伸ばす。それは真っ黒で多分髪だが、相変わらず蝸牛の角みたいだなとも思う。何かは俺の頭を撫でて、明日は駐在かなあ、と唇を歪めながら話し、ゆっくりと離れていって黒の中に埋没する。

 髪の牢の中で俺はつい笑ってしまって、このままじゃ俺たちしかいなくなるよって口にも出してみるけど兄にはそんなことどうでもいいようだった。

 なんなら俺のこともどうでもいいだろう。なるべく即死でよろしくなと、頼む日は遠くない。

 

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神の蔵 草森ゆき @kusakuitai

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