ご主人様はまだ知らない
私はシロとクロのことをよく知らない。
シロとクロはずっと私を探していたらしい。長い間。それだけは教えてくれた。途方もない長い時を過ごしていたのは、私に会うため。私の側にいるために生き続けて今に至るのだという。
二人にはまだ秘密が多すぎる。主人だと呼ぶ割に何も明かしてくれない。私という存在にここまで執着する理由は、どういったことに関係しているのだろうか。考えても全く見当もつかないのだ。
「ねえ、クロ。そこのカフェ寄ってかない? 小腹が空いちゃった」
「……ご主人様の願いとあらば、何でもお付き合いするよ」
いつもの生意気さは薄れて従順さだけが残る。なんだか居心地の悪いような変な感じがした。
美味しい物を食べれば元気になるだろう。そんな単純な私の考えによって訪れた繁忙期の時間帯を少し過ぎたカフェの端の席に座って、二人でメニューを見ていた。
私はキャラメルマキアート、クロはホットコーヒー、二人で食べるカツサンドを注文した。
「猫ってカフェイン入ったやつってダメなんじゃなかったっけ」
「まあそうだけど、俺たちは例外だから何飲んでも大丈夫。人間と同じだと思ってくれたらいいよ」
いつもの調子でクロは言う。すぐに持ってきてもらった苦そうな真っ黒なコーヒーを顔色一つ変えずに飲む。私は甘さの象徴のような飲み物を飲んでいるというのに。
それからしばらくして目の前に現れたボリュームのある四切れのカツサンドは一切れで十分なほどだ。口いっぱいに広がる辛口のソースとサクサクした衣が何とも絶妙でたまらない。
ぺろりと二切れ食べてしまったが、後になってカロリーが大変なことになっているかもしれないと脳が知らせてきた。それでも心の中で無問題と言い続けた。そうでなきゃ、明日死んだら後悔してもしきれないし、美味しい物だけ食べて生きていきたいのが本望である。
クロは何も言わないけれどぱくぱくと食べ進めていたから多分気に入ったはずだ。大きな一口で少し手と口を汚しながら食べきっていた。コーヒーを飲む様子は紳士のようで様になっていたというのに、やはり美味しい物を前にすると礼儀も何も忘れてしまうものだ。そうに違いない。
私はそんなことを思いながらストローで氷を動かす。夏っぽい少し風流な音を聞いていると、じっとこちらを見つめるような視線を感じて顔を上に向ける。視線の正体は目の前にいるクロであった。なんだか懐かしむようなそんな表情を浮かべて、目を伏せた。意地悪なあの黒猫の姿はそこにない。
「俺、シロの気持ちがやっと分かった気がする」
「シロの?」
「ずっと言ってたんだ。俺ですら邪魔者扱いして。俺にはその気持ちを理解できなくて。でも、やっと分かったよ。ご主人様の側にいるのは、俺がいい。俺だけの側にいて欲しい」
「……じょ、女子が一度は夢見る告白ね。でもそれには頷けない。まだ二人のことちゃんと分かってないから、適当なこと言うのはなんか違うなって」
私が底の方に少し残る甘いコーヒーを飲み干して、前に座るクロの顔を覗いた。困ったような顔をするかな、それとも怒るかな、と。
私の予想は見事に外れていた。クロは、微笑んでいたのだ。
「俺、ご主人様に会えて幸せだよ」
その美しい笑みに私は息が止まった。いつの間にか後ろには薔薇が咲き誇り、キラキラとしたエフェクトが現れる。これが俗に言うイケメンパワーかと私は瞬きを繰り返しながら感じていた。
私がしばらくその美しい微笑みに見惚れていると、クロはすっとその微笑みを壊して睨むように斜め下を見つめた。
「だからこそ、あの男が憎たらしい」
「駿太くんこと? でも、あの人は私の推しでぁて恋愛対象じゃないのよ」
私は慌ててクロがきっと思っている誤解を解こうと説明した。
確かに一時期、駿太くんが私の彼氏になって、ゆくゆくは旦那さんになってくれないなと夢見たけれど、いつの日か絶対にありえない話だと思ってからは目が覚めた。私はあくまで彼の活動を第一に応援するオタクとして生きる。それが活動者と応援者における関係性で最も正しい形だろう。だから、今でも彼との恋愛を夢見ることはあれど、それはどう考えたってない話であるのだ。
彼とは私とは違う、例えば女子アナとか女優さんとか美人で完璧な人と幸せになって欲しい。結婚式には会員番号二番として招待してくれたら嬉しいななんて思いながら。私は駿太くんの母になることを決意したのだ。
私の必死な弁論が通じたのか、クロは吹き出した。そんな笑うような話でもないのに。どちらかと言えば真面目な話をしてやったのに。
「ご主人様、必死すぎ。そんな言わなくたっても分かるよ」
「だってあまりにも思い詰めてるように話すから」
必死になって話さなくちゃいけなくなったのは誰のせいだ、と責めたくもなったがぐっと堪える。私は彼らの主人。大人でいなくてはいけない。小さなことで腹を立てては大人失格、主人失格である。
「あーあ、俺ご主人様のせいで元気なくしちゃった。ねえ、俺の元気回復させてみせてよ」
と無茶ぶりする黒男。どうしてそう上から目線なのか。大体勝手に思い詰めて勘違いしたのはそっちじゃないか。とんだとばっちりである。
何でもかんでも人のせいにするんじゃありません。
「なんでも好きな物買ってあげよう!」
「全然ダメ」
これなら跳ねて喜ぶかと思い、いきなり最後の切り札を出したというのに即答で却下された。好きな物を買うという子供が好きな言葉ランキング堂々の一位じゃないのか。
「じゃあ、クロにだけ特別に追加で何か買う」
「さっきと同じじゃん」
「シロにはない物だよ?」
「うーん、足りない。もっと欲しい」
「もっとって、何個も欲しいってこと?」
クロは首を横に振った。なんて強情なやつめ。主人である私の提案をことごとく蹴るなんて最悪よ。これなら猫より犬の方がまだ良かったわ。
私が弱い頭を頑張って働かせていると、白くて長い指が私の顎をすくった。企んだ顔をしている。これは良くないことを考えている悪い顔だ。私はそれをこの数日の共同生活で学んでいる。覚悟を決めるべく、生唾をごくり。
「好きって言って」
「へ?」
あまりに予想と異なりすぎたので私は変な声を出してしまった。もっととんでもないことをおねだりされるかと身構えていたので調子が抜けてしまう。
「そんな間抜けな顔して、何期待してたの?」
「期待なんてするわけないでしょ!? 貴方がどれだけ突拍子もないこと言い出すのか身構えてたのに、そんなことお願いされたから少し驚いただけ」
私が至って冷静に説明しているにもかかわらず、クロは困り眉のまま首を傾げているのに微笑んでいた。こいつ、この状況を楽しんでやがる。
好きだなんて一生言ってやるものか。嫌いだって毎日百万回でも言ってやろう。私の乙女心をズタズタにしやがって。このやろう。
「まあ、半ば冗談だったから言わなくたっていいよ。嘘の好きが一番俺嫌い」
そんなことを言って私の顔から少し冷たい指を離す。そう言われると何だか私が負けた気分になった。元より勝負なんてしていないけれど、何だか一枚上手なことを見せつけられているようで、実に気に食わない。
ああ、私って本当にちょろいな。
自分自身に呆れていたときにはもう口が開いていた。
「好き」
沈黙が流れる。
クロは動きを止めて固まった。目だけぱちくりと動かしている。何をしているのだろうか。
「だから、俺言ったよね。嘘の好き嫌いだから言わなくっていいって」
どっちだよ。
ついツッコミを入れる。確かに嘘の好き嫌いって話はさっきしたけど、最初に好きって言って欲しいと言ったのは自分ではないか。それで好きって言わないでって言ってくるなんて、矛盾もいいところだ。
「クロのことよく分からない。シロもね。でも、二人といると温かくて。生意気だし嫌なやつだけど、嫌いになれない」
それが好きになるか分からない。嫌いではないからといって好きかと言われると、それもまた違うだろう。二人との関係性もイマイチ分かっていないし。それでも、私はきっと二人に金を使っても良いと思えるくらいには思えてきているのだ。おめでとう。あんたたち不審者から昇格してるわよ。
「逆に聞くけど貴方は私のことどう思ってるの?」
私はクロの目を見て言った。シロと同じ目。それでもシロと全然違う。綺麗な目だ。宝石のように透き通るのにその目の奥のものまで見えない。
「俺は、この世界で一番ご主人様を愛している」
その美しい目は他でもない私を映し出した。
目は嘘をつかないという。それが本当の話であるなら、クロはきっと真実を言っている。ただ私だけを見て真っ直ぐに。
「じゃあ、どうして私に何か隠しているの?」
愛していると言うのなら、私に包み隠さず教えて欲しい。そんなの結婚詐欺師と同じ部類だから。
「隠してなんかない。ただ、言うかどうか迷ってるだけで」
「それを隠すって言うんじゃないの?」
私が問い詰めるように聞くと、クロは視線を泳がせた後に息を吐く。実はあなたは精神障害者です。とか言われても気にしないから、近くにいる人に隠し事をされていると、何だか歯痒いから。
「シロには、内緒にしてよ」
「うん。約束する」
私が少し身を乗り出して頷くとクロはすっかり冷めてしまったコーヒーを飲み干した。苦い香りが私の方まで広がっていく。
「俺たちは
頭にコーヒーの複雑で絡み合った苦い香りが深く溶けていった。
シロとクロとわたし。 RICORIS @ITONO__MUSUBI
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