きみと息をしたくなる
増田朋美
きみと息をしたくなる
暑い夏もようやく終了し、やっと涼しい秋がやってきた。全く今年はなんて暑いんだろうとみんな口を揃えて言っている。他に言葉は無いものだろうかと思うけれど、どうやら今年はそれで統一されているらしい。
その日、製鉄所に郵便配達が、一通の手紙を持ってきた。とても美しいガーベラの花が描かれた封筒には、手書きではなくワープロ文字で、製鉄所の所番地と、磯野水穂様と書かれていた。裏面を見ると、村瀬繭子とワープロ文字で書かれていた。
「村瀬繭子、、、。あああの手も足も動かせない、六条御息所みたいな女か。」
ジョチさんから、手紙を見せられた杉ちゃんはそういった。
「そうなんですか。それでは、手も足も動かせないとなりますと、彼女自信が手紙を書くことはできないでしょう。それでは誰がこの手紙を書いたのでしょうか。そうなるともしかしたら、新式の詐欺かもしれない。ちょっと開けてみましょう。」
ジョチさんは封を切って開けてみた。封筒を開けてみると、赤いガーベラの花が40本写っている写真と、一枚の手紙がはいっていた。
「前略、お体おかわりありませんか?私はても足も動かせないので、兄に代筆してもらっています。養老渓谷に、ガーベラの花が沢山咲きました。ぜひ、40本のガーベラを持って、会いに行きたいです。お返事待ってます。」
「つまるところ恋文か。」
ジョチさんが読み上げると、杉ちゃんはでかい声で言った。
「なんだか開けて読んでは行けないような内容の手紙でしたね。」
ジョチさんは手紙を封筒にしまいながら言った。
「しかしガーベラを40本持っていくとは、どういう意味なんだろうね。4というのは、縁起の悪い数字だけど?」
杉ちゃんが言うと、
「いえ、それは違いますね。40本のガーベラというのは永遠の愛を誓うという意味ですから、おそらくですけど、結婚を申し込みたいということだと思います。」
と、ジョチさんは言った。
「何?結婚を申し込むの?あの女性が、水穂さんに?」
杉ちゃんが驚いてそう言うと、
「はい、そういうことだと思います。女性であれば、こういう文学的な表現をして手紙を書くのは珍しいことではありません。今どきの女性が、古典にヒントを得て、手紙を書くのはありえないことじゃないですよ。ましてや重度の障害を持った女性であれば、そういう事はありえますね。」
と、ジョチさんは言った。
「それならこれ、水穂さんにお渡ししないほうがいいのかもしれないねえ。あんまり見せてしまうとさあ、水穂さんも疲れちゃうだろうからねえ。」
杉ちゃんは、腕組みをしていった。
「僕もそう思いますね。水穂さんはただでさえいい状態ではないわけですから、こんな文書が来たと知ったら、明らかにびっくりしてしまうことでしょう。この手紙は、届かなかったとして置いたほうがいいでしょうね。」
ジョチさんも杉ちゃんの意見に賛同した。水穂さんは昨日も偉く咳き込んで倒れてしまったばかりであった。柳沢先生からはえらく叱られてしまい、必ず安静にして無理をしないようにと言われたばかりなのだ。だからこそ、水穂さんには知らせないほうが良いと思った。
「とりあえずこれはしまっておきますね。水穂さんには、見せておかないことにします。」
ジョチさんは手紙を机の上に置いた。杉ちゃんは杉ちゃんでまたご飯の支度に戻ってしまった。
その間、今西由紀子は水穂さんのそばに付いていて、水穂さんの着物を変えたり、食事の世話をしたり、布団をかけ直して殺ったりしていたのであった。水穂さんが咳込めば、すぐに薬を飲ませてやることも、由紀子の大事な仕事であった。その時も、水穂さんがまた咳き込み始めた。それと同時に、秋の涼しい風が吹いてくる。涼しい風だけど、秋の風は強いのが困る。それと同時に枯れ葉や花粉なども運んでくる。それが水穂さんの咳の原因になることもあるので、由紀子は、秋の風が好きではなかった。由紀子は、ちょっとふすまを閉めますねと言って、ヨイショと立ち上がって、四畳半のふすまを閉めようとしたのであるが。
ふすまの近くに一枚の可愛らしい封筒が落ちていた。由紀子はそれを手に取った。中身を見てみると、ガーベラの花が40本写った写真と先程ジョチさんが読み上げた手紙が出てきたのでまたびっくりする。由紀子は、40本の意味がどういうことなのか知っていた。それにワープロ文字なので、宛先も内容もすぐに読めてしまった。そういうわけで由紀子は、その手紙の送り主が、村瀬繭子という女性からであること、その女性が手も足も動かせず、兄に代筆してもらって、その手紙を書いたことを知った。由紀子は、その女性が水穂さんへ思いを寄せている事を感じ取り、強い怒りを覚えてしまった。こんな重度の障害のある女性が、水穂さんのもとへ会いに来るなんて、とても悔しかった。
それからしばらくして、製鉄所はいつもと変わらず、静かな日々を過ごしていた。由紀子は相変わらず仕事が休みの日には、必ず製鉄所を訪れ、水穂さんの世話をしていた。だけど、由紀子はきつい顔つきで水穂さんの世話に勤しんでいた。まわりの人達は、由紀子さんはどうしたんでしょうねと噂しあっていた。
そしてもう気温が30度を超えることはなくなった。その日由紀子はいつもと変わらず、水穂さんにご飯を食べさせて、お茶を飲ませたり、おやつを食べさせたりしていたのであるが、
「こんにちは、村瀬です。」
という声がしたのでびっくりする。
「村瀬さん?」
ジョチさんがそう言って玄関先へ行ってみると、村瀬優と、妹の村瀬繭子さんがそこにいた。繭子さんは車椅子に乗っていて、優が車椅子を押していた。
「ああ、突然押しかけてしまってすみません。繭子がどうしても、水穂さんに会いたいというものですから。」
村瀬優はそう説明した。
「はあ、本当に六条御息所だわ。ここへ会いに来てしまうなんて。」
杉ちゃんが驚いてそう言ってしまう。
「なぜ、ここがわかったのですか?僕らは住所も何も公開しておりませんが。」
ジョチさんがそう言うと、
「はい。利用者さんたちのSNSへの投稿や、ブログなどを拝見して割り当てました。すみません。勝手に調べてたりしてしまいまして。でも、どうしても、繭子が会いたいといいますので、もうこうなったら、やるしか無いと思ったんです。」
と、村瀬優はそう答えた。
「でもあなた方が住んでいらっしゃるのは、たしか千葉の養老渓谷ですよね。そこからどうやってこちらへいらしたんですか?」
「はい、小湊鐵道で五井駅まで行きまして、そこから総武線快速に乗って東京駅、そして東海道新幹線で新富士駅へ来て、あとはタクシー。まあ半日くらいの長旅でしたね。」
ジョチさんがそう言うと、村瀬優は、しっかり答えた。
「それでは、いろんな人の手を借りてこちらへ来たのでは無いかな?」
杉ちゃんが驚きを隠せないでそうきくと、
「はい、駅員さんにはもちろんてつだってもらいましたし、駅の掃除のおばさんにも手伝ってもらいました。みんな優しい人達です。こうして妹を、助けてくれるんですから。」
と、村瀬優はにこやかに言った。
「そういうことなら、、、とりあえず、上がってください。お茶かなんか出しますから。」
ジョチさんはそう言うが、繭子さんはなにか苛立った顔をする。
「どうしたの?」
優が聞くと、繭子さんは車椅子のポケットを見つめた。優はすぐに分厚い国語辞典を出してあいうえおを指さしていった。繭子さんはあで頷いた。優が、あから始まる単語を一つ一つ指していくと、会うという単語を指差したとき繭子さんは、そこで頷いた。
「なるほど、前置きはこれくらいにして早く会いたいか。もしかしたら、こっちへ送ってきた手紙も、そういうやり方で書いたのか?」
杉ちゃんがでかい声でそうきくと、
「ええ、国語辞典を開いて、繭子が言いたい言葉を探すという方法で、いつも会話しているのですよ。幸い繭子は、言葉を口にはできませんが、言葉を頭の中で作るということはできますからね。」
と優は答えた。
「そうなんだねえ。なんでも今はスマートフォンで調べることもできるかもしれないけど、そういう使い方もあるのだったら、やはり、国語辞典はあったほうがいいな。とりあえず上がってくれ。」
杉ちゃんとジョチさんはにこやかに笑って、二人を建物内へ入れた。
「あれからどうですか。水穂さんは、少し体調は良くなりましたか?」
優は廊下を歩きながら、そういったのであるが、
「ええ、今年の夏は、異様な暑さでしたよね。それで幾分悪くしてしまったようで、ずっと寝ています。」
ジョチさんはそれだけ言って、さあどうぞとふすまを開けた。
「ご自身でお確かめください。水穂さんはこちらにおりますよ。」
それと同時に、水穂さんが布団に座ったまま、えらく咳き込んで居るのが見えた。中では由紀子が、水穂さんの背中を撫でたり叩いたりして、吐き出しやすくしてやっているのが見えた。
「あ。」
繭子さんがそういったのと同時に、水穂産の口元から、赤い液体が漏れた。由紀子は、急いでそれをちり紙で拭き取った。
「水穂さんお体大丈夫なんですか。それでは大変なのではないですか?」
優が挨拶もしないでそう言うが、水穂さんは咳き込んでいて、返事ができなかった。
「水穂さんつらいのなら、少し休みましょうね。無理しないで、横になりましょう。早く、薬を飲んで。」
由紀子は、枕元にあった、吸い飲みを水穂さんに渡した。
水穂さんは小さく頷いて、吸い飲みを受け取った。そして、咳き込みながらなんとかしてそれを口元へ持っていき、中身を飲み込んだ。
繭子さんがまた何かいいたそうな顔をした。優が国語辞典の五十音を指さしていくと、繭子さんはねのところで頷いた。そしてねからはじまる単語を一つずつ追っていき、「眠る」で止めた。
「眠る。つまり、眠ってしまうということですか?」
ジョチさんがそう言うと、繭子さんは首を横に振った。まるでそれを否定している顔だった。
「つまり眠ってしまうのは嫌だといいたいんだね。でも仕方ないじゃないか。水穂さんはそうしなければ、苦しい思いをずっと続けることになるんだぜ。」
杉ちゃんが、直感的にわかるのか、そう繭子さんの言葉を通訳してくれた。
「もっと誰にでもわかるコミュニケーション法を見つけることが必要ですね。国語辞典を使うのは、相手側にも想像力が無いと要件が伝わらないでしょう。今は脳波などから、言葉を読み取る機械もあると聞いています。進行性筋ジストロフィー症などで、喋れなくなった方が、それを利用している例もあるそうです。取り入れてみたらいかがでしょうか?」
ジョチさんは、静かに言った。それと同時に水穂さんが静かに眠る音も聞こえてきた。
「それでは、遠方からわざわざ来てくださったわけですし、お茶でも飲んでいただきましょうか。どうぞこちらへ。」
「あの、どうしてわざわざ私達のところに来られたのでしょうか。」
ジョチさんがそう言うと、由紀子が嫉妬の目で繭子さんを見てすぐに言った。
「あたしたちは、一生懸命水穂さんの世話をしてきました。いろんな苦労だってしているんです。それなのにあなた方は、好きなときに勝手にこっちへ来て、こちらの住所もすぐに分かって、いろんな人の手を借りて、大事業を成し遂げたような顔しているけど、実際のあなたは、息をしているだけで、仕事も何もしてないでしょ。それなのにどうして、こんなふうに英雄視されなければならないんですか?」
「由紀子さんそんなことを妬んではいけませんよ。ここに来るのに、繭子さんたちは、一生懸命努力してきたんでしょうし、それを経てここへ来てくださったんですから、それくらい、感謝しなくちゃ。」
ジョチさんは由紀子に言った。
「どうして感謝の気持なんて、持たなければ行けないんです?遠方から、来てくれたのも、動かない体で来てくれたのも、それはすごいことかもしれないけれど、でもあたしは、そういう人達のとをどうしても、すごいことをしたとか、許してあげようとか、そういう気持ちにはなれないんです。どうしてそういう気持ちを持たなくちゃならないんですか。あたしは、どうしてもできない。そんな事あたしができるわけ。」
興奮した由紀子は、荒々しくそういった。
「由紀子さん、そういう考えはやめた方がいい。そういう考えを持っているから、障害のある人が、健康な人と、対等になれないのですよ。確かに、由紀子さんが、水穂さんの事を好きなのはわかります。でも、それを妬みとか、恨みとか、別な方向に利用しては行けない。由紀子さんがそういう気持ちを思うことは、極端な例を上げれば、相模原事件の犯人とか、阿部定事件などにも繋がってしまいます。」
ジョチさんはそう言って由紀子を慰めたが、それでも由紀子は我慢出来ない様子であった。由紀子ははらはらと涙をこぼして泣きはらしてしまった。それを繭子さんは、なんだか不思議そうな目つきで彼女を眺めていた。でも泣いている由紀子を眺めている繭子さんの目は、だんだん優しくなっていった。
「あ、ああ。」
繭子さんが言った。すぐに優雅が国語辞典を取り出した。そして、またあいうえおを順に指さしていき、今度はかのところで止める。そして、繭子さんは、かの文字から始まる単語をずっと目でおっていって、帰るのところで頷いた。
「そうですか。もう帰るのですか。」
と、ジョチさんが言うと、
「いえ、それだけではありません。多分、自分も変わるのだろうということをいいたいのではないのでしょうか。もしかしたら、繭子の中で、もう水穂さんの事を諦めようと、考えついたのかもしれません。」
と、優は通訳した。もしかしたらこれはかなりの意訳というべきかもしれなかった。繭子さんは本気でそう思っているわけでは無いかもしれない。それでももしかしたら、それは優が、妹の繭子さんの事を思って、そう発言したのかもしれなかった。
「大丈夫です。由紀子さんが、水穂さんの事を、本気で好きになって、本気で思っていることは、繭子もちゃんと知っていると思います。由紀子さんは、これからも水穂さんの事を愛してあげてください。」
優はにこやかに言った。
「そういうわけですから、僕たちはもう帰ります。失礼ですが、こちらではタクシーは呼んでもらえるのでしょうか?よろしければ理事長さん、タクシー会社の電話番号でも教えてもらえないでしょうかね?」
「ああわかりました。介護タクシーを運営している会社は、富士にもちゃんとありますから、呼び出すことは可能です。少しお待ち下さい。あと、帰りの新幹線の切符は大丈夫ですか?」
ジョチさんがそうきくと、
「大丈夫です。往復切符を東京駅で買いましたから、それを使って帰ります。もうグリーン車の切符も取ってあります。」
優はにこやかに返答した。
「それでは繭子、帰ろう。長居をしたら水穂さんの体調にも申し訳ないし、由紀子さんにもなんだか申し訳ないから。」
優がまた繭子さんにそう言うと、繭子さんはもう一度水穂さんの顔を見た。まだ静かに眠っているが、それでも薬を飲む前よりはとても穏やかな顔になっていた。
「ああ、ああ。」
繭子さんは今度は由紀子の顔を見た。杉ちゃんが、由紀子の肩を叩いて、
「おいおい、繭子さんがなにかいいたいみたいだぞ。ちょっと返事してやってくれ。」
と、優しく言った。由紀子が涙を拭くのを忘れて、顔をあげると、
「ああ、ああ。」
繭子さんは、一生懸命何かを伝えた。優が国語辞典を出して、あいうえおを指さしていくと、今度はあのところで繭子さんは頷いた。
「あい。」
優が読み上げた単語はそれであった。由紀子もジョチさんも皆この発言には驚いた。由紀子は、繭子さんになにを言われたのか、理論ではなくて直感でわかったようで、
「わかりました。あたしは、これからも水穂さんのことを愛します。繭子さんが、水穂さんの事を心から愛しているのもよくわかりました。」
と言った。それと同時に繭子さんはとてもうれしそうな顔になった。そして、またあから始まる単語を指差していき、歩くの言葉で頷く。
「歩く。」
ジョチさんがそう言うと、繭子さんは今度は、優が指さしたての文字で頷き、できないの前でもう一度頷いた。
「できない。」
今度は杉ちゃんが言う。そして繭子さんは、もう一度あいうえおを目で追い、おの前で頷いた。そして、おから始まる単語を目で追っていき、お願いのところで頷いた。
「お願い。」
最後は由紀子が言った。そうなると由紀子にも、「歩く」、「できない」、「お願い」の3つの単語が何を意味するのかわかったような気がした。
由紀子は真剣な顔である、繭子さんの表情をずっとみて、こういった。
「これからも繭子さんの事をずっと忘れませんわ。」
由紀子がそう言うと、繭子さんは、にこやかに笑顔になった。
「もうすぐ、介護タクシーが到着しますから、少しこちらでお待ち下さい。」
と、ジョチさんが言った。
「お二方とも帰りの道中長いと思いますが、お気をつけてお帰りくださいね。」
「はい、ありがとうございます。」
優は急いで繭子さんの車椅子を方向転換させようとしたが、由紀子は少し待ってくださいといった。そして彼女の動かない手をそっと取り、水穂さんの口元に触れさせた。水穂さんはそれに反応もせず眠っていたが、それを受け取ってくれたように見えた。でも繭子さんのては、麻痺してしまっていて、たいへん冷たく、こわばっていた。
「それでは、介護タクシーが到着いたしました。玄関先に居ると思いますから、お気をつけてお帰りください。」
ジョチさんがそう言うと、ワゴン車の音がして、介護タクシーが到着したことがわかった。
繭子さんがもう一度国語辞典に目をやった。優が、またあいうえおを指差していくと、あの字で繭子さんは頷き、そして、あから始まる単語をおっていって、ありがとうの前で、頷いた。
「そうか。ありがとうか。よかったな。」
杉ちゃんがそう言うと、繭子さんは、大きく頷いた。それと同時に、介護タクシーの運転手が、製鉄所の引き戸を叩いている音が聞こえてきた。
きみと息をしたくなる 増田朋美 @masubuchi4996
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